三章:五、羅真大聖

 ––––来る。



 巨躯が身を屈める所作が見えた。

 紅運こううんは引いた片足に重心をかけ、銅剣を後ろに構える。指二本を虚空に突き出し、目測を確かめる。

 ––––奴の歩幅なら三歩で……。


 巨体が跳んだ。

 地表が弾け、洞窟が雷鳴のように震動する。

 地を削った巨人の跳躍が辛うじて見え、眼前に拳が迫った。


狻猊さんげい!」

 燃える獅子が紅運の足をさらい、後方に飛ぶ。陽炎を拳撃が貫いた。


 一拍遅ければ骨も残らなかっただろう。

「あの図体であの速度か……!」

「速度は馬力に比例する。馬車と同じだ。何の不思議もねえよ」

 狻猊が喉を鳴らした。



 巨人は岩盤を破った拳を再び振り上げる。

 ––––焦るな。気持ちで負けるな。白雄はくゆうは冷や汗ひとつ見せたことがない。

「だが、速さなら俺たちが上だ!」

 紅運は叫んで狻猊に飛び乗った。



 巨人の腕が一直線に振り下ろされる。岩壁に直線の軌道が描かれ、破片が飛ぶ。


 攻撃の寸前、紅運を乗せた狻猊は疾走していた。

 炎の推進力が巨人の股下を潜り抜ける。足元を吹き抜けた熱に巨人が一瞬狼狽した。


「遅い!」

 地面を蹴り、岩壁を軸に回転した狻猊を赤い残像だけが追う。無防備な巨人の頸が眼前にあった。

 紅運は左手の指を弧を描くように回し、右手に握った銅剣を軌道に乗せる。

 狻猊の加速を伴った刺突は巨人の頸椎を刺し貫く、はずだった。


 風圧が紅運の横面を叩き、洞窟の天井に叩きつけられる。

 無造作に振り回された巨人の片腕が膂力だけで赤の大魔ごと弾いた。


 紅運の背面に鈍い痛みが走る。

 頭を打つ寸前に狻猊が旋回して避けた。

 体勢を立て直すより早く、雷轟電撃の攻撃が紅運を襲った。



 防戦一方だ。

 紅運と狻猊は瞬く間に洞窟の隅まで押しやられる。

 出口を塞ぐ岩石は震動に揺らぐだけで外れる様子がない。


「俺の炎ならこの岩も溶かせるかもしれないぜ。やってみるか?」

 赤の大魔は犬歯を覗かせる笑みを浮かべる。

 紅運は首を振った。

「逃げて王宮に帰れるものか。俺は龍久国の使者として来ているんだ。兄たちの顔に泥は塗れない」

 狻猊は低く唸った。


 ––––そうだ、兄たちならどうする? 翠春すいしゅんなら名前だけで妖魔の特性を見抜けるはずだ。

 巨人は天井に頭を擦りながら進む。

 ––––巨躯を持て余してるのか? 普段は老人の姿で、今の形態に慣れていない?



 紅運は狻猊の背に腹をつけた。

「炎だ! 火力で押し返せ!」

 紅炎が暗闇を焼いた。洞窟をなぞるように放たれた炎は炎熱と勢いだけで巨人を押し返す。


 青の大魔の洪水を炎で行えば、防御は攻撃に転じる。

 肉の焦げる匂いが揺蕩った。


 巨人が岩盤を殴りつけた。

 落下した岩が降り注ぎ、炎を防ぐ防壁を作る。

「当然そうするだろうな!」

 跳ねた岩石を狻猊が蹴り上げた。無作為に見せかけた動作は、狂いなく巨人の進撃を阻む障害を作った。


 ––––白雄はくゆうは防護柵を作るとき、必ず反撃の拠点としても考える。

 岩と岩の隙間は巨体を通さず、紅運と狻猊だけを擦り抜けさせた。



 飛び出した紅運に巨人が狙いを定める。

黄禁おうきんなら捨身で行くだろうな」

 地をも砕く殴打は赤い衣を纏わせただけだった。

「俺はそこまで命知らずじゃない!」

 狻猊の旋回に合わせて脱ぎ捨てた紅運の衣装が巨大な腕に絡みつく。



 巨人が身を沈めた。

 巨大な質量の跳躍はそれ自体が大砲の砲撃に値する破壊力だ。だが、巨人は途中で動きを止めた。

 重たい全身がゆっくりと傾ぐ。


「熱いか?」

 狻猊が嘲るように笑った。

 獅子は今や上体を倒しかけた巨人より高く飛翔している。

「その図体に慣れていないらしいな。気づかなかっただろう。熱い空気は上に行くんだ」

 幾度となく狻猊が放った炎の熱は狭い洞窟に充満していた。

 一矢の攻撃に全てをかけず、獲物を追い詰める長期戦を前提にした藍栄らんえいの狩り。



 紅運は銅剣を握った。狻猊が急速で下降する。

 ––––後は、橙志とうしから託された剣技だけだ。

 真上から振り下ろした一刀が、巨人の首を切断した。



 巨大な首が回転して宙を舞い、塵となって消え去った。

 巨人の体躯が霧散し、後には膝をついた老人の姿だけが残されていた。


「やはり擬態か」

 紅運は狻猊から降りて剣先を突きつける。

「吐け。お前は誰だ。なぜ俺たちを狙った」

「いやはや……」

 老人はくたびれたように苦笑した。

「ひとは殺せないとでも?」

 紅運が語気を強める。


「その辺にしてやってくれ」

 女の声が響き、一条の光が射した。



 微動だにしなかった岩山が崩れ落ち、洞窟に霧が流れ込む。

 丸く切り取られた光の中に、道服を纏った女が立っていた。


「当代様」

 老人が立ち上がる。

羅九らきゅうもよくやってくれたな」

「老人に無体を強いてくださいますな」

 固まった首を回す老人に、黒髪を紙片でひとつにまとめた女が笑う。八重歯を覗かせる笑みは服装に似合わず世俗的だった。



「誰だ……?」

 紅運が視線を背後にやると、ひとの姿に戻った狻猊が含み笑いを漏らした。

紅雷こうらい?」

 女が僅かに目を丸めた。紅運は首を横に振る。

「龍久国から差遣された第九皇子、紅運だ。羅真らしん大聖たいせいに会いに来たつもりだったのだが」

「成程」



 女は紅運と狻猊を見比べた。

「疑いようもなく赤の大魔を従える皇子らしいな。なら、挨拶しよう。俺が当代の羅真大聖だ」

「当代……? 女……?」

 困惑する紅運を見て女は肩を揺らして笑う。老人のような笑い方だった。

「見た方が早いだろ、着いてきな」


 女が光の中に消える。

 呆然とする紅運に老人が小さく会釈した。



 洞窟を抜けると、一陣の風が吹いた。


 紗の幕を捲るように霧が割れる。薄墨の跡に似た稜線が輪郭を帯び、切り立った山々と一体化した都が現れた。


 連なる珪岩や石灰岩を削って建てられた館の数々は、全てが白と黒の濃淡で、墨で描かれた幻の都のように見える。

 蠢くひと影が、画ではなく現実だと示していた。



「これが俺たち羅真大聖の住処だ」

 女の元にふたりの童が駆け寄る。

「ご苦労。皇子を連れてきたぜ」

 童たちが再び走り去るのを見て、紅運はやっと気を取り直した。


「俺たちとは?」

 周囲から老若男女が次々と現れる。皆、一様の道服を纏い、紅運を見ようと覗いていた。

「ここにいる奴ら、全員が羅真大聖だ。便宜上、俺が当代ってことになってるがな」

「何……?」


 羅九と呼ばれた老人が進み出る。

「羅真大聖とは個人ではなく組織の名に近いのです。我々は大聖が持つ知識、 思想、振る舞い、道術を全て学び、その中で次の大聖を決めます。ひとりが死のうと、他の者がすぐに受け継ぎ、途切れることはございません」

「替え玉と継承、これが羅真大聖の不老不死だ」

 女の大聖は鷹揚に頷いた。



 墨の都を何人もの道士たちが行き交う。紅運は息を漏らしてから、狻猊を睨んだ。

「お前、知っていたな?」

「俺は言ったはずだぜ。『俺の知る羅真大聖じゃねえ』ってな。何代も前にとっくに代替わりしてたんだろうよ」

 赤毛の男は肩を竦めた。


 大聖は片眉を吊り上げる。

「改めて歓迎しよう。遥々都から霊峰まで、求める何かがあるんだろ?」



 ***



 第八皇子・翠春の部屋の帳が揺れた。

 真紅の帳を翻したのは、風でも見慣れた母の手でもない。


「遅れてごめん。ちょっと六部を手伝っててさ」

 屈託無く笑う青燕を、翠春は鉄色の前髪の下から見上げた。

「いいよ、来ないかもと思ってたから……」

「何でさ。古書を一緒に調べる約束じゃないか。ふたりでやればひとりより早いからね。といっても、解読は結局君頼りになるけど」


 翠春は書物や巻物の山を退けて空きを作る。本来二人掛けの長椅子に彼の母以外が座るのも初めてのことだった。



「この本は?」

 青燕は迷いなく隣に腰を下ろし、身を寄せた。

 翠春は僅かにたじろいで壁の方へ避けた。

「これは前話した『竜生九子遺事』。通俗小説だけど、意図的に書庫に残されてるならその意図を探るべきかと思って……」

 血管の透ける細い手が頁を捲る。


「挿絵もあるんだね」

「有名な画家で、字が読めなくてもそれ目当てに買う庶民がいたみたいだ」

「何て画家?」

「覚えなくていい」

 翠春は声を潜めた。

「春画家だから」


 青燕は一瞬驚いて、声を上げた。

「殿下がそのようなものをお読みとは!」

 彼らが幼少期師事した教師のような口調に、翠春も表情を崩す。

 重なる笑い声の片方が急に止んだ。



「どうかしたの?」

 青燕はある頁を凝視していた。

「これは誰を描いた絵?」

 指は俯いた青年の挿絵を指していた。

「この本に出てくる、赤の大魔の使い手だよ。実際の皇子と似てるかは怪しいけど」


「似てるな……」

 青燕は呟いた。不安げな翠春の視線に何でもないと答えて本を閉じる。

 誤魔化すように開いた別の頁には墨の山岳が描かれていた。

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