三章:六、九星
釣瓶が弛み、木桶に掬った水が跳ねた。
「水汲みなんて道術でできないのか」
「道術も万能ではないのです」
申し訳なさそうに微笑む
紅運が食客とされたのは昨夜までだ。
日が昇る前に大聖に揺り起こされ、泰山にいる以上道士として扱うと、草刈りや水汲みなどの雑用を言い渡れた。
重みにふらつき、跳ねた水をかぶった紅運に
「手助けが欲しいか」
「俺は
「皇子の仕事に水汲みもあるとは知らなかった」
聞こえないふりをし、紅運は瓶を抱えた。
泰山には変わらず霧が立ち込め、幽幻の世界に見えたが、都と変わらない生活の音と匂いがある。
ふと使命を忘れかける自分を戒め、紅運は足を進めた。
「ご苦労、全部終わったか?」
黒木の板張りの客間に座した大聖が鷹揚に手を挙げる。紅運は答える気力もなく、彼女の前に雪崩れるように座った。
「いい加減教えてくれ。雑用のために来たんじゃない」
大聖は道服の裾を寛げて胡座をかいた。白い脹脛から目を背ける紅運に、狻猊が揶揄うような笑みを漏らす。
「皇帝の変貌ねえ……皇子が既にひとり死んでるんだったか」
紅運の膝に深々と冷気が這い上がる。
「まずいな」
「何故?」
「何故必ず皇子を九人設けるのか。彼らに色の名がつくか知ってるか?」
紅運は首を振った。大聖は身を乗り出し、紅運に躙り寄る。
「九星つってな、古来から道士が重んじる魔法陣だ。一から九までの数字をひとつずつ並べて、縦横斜めいずれの和も十五になる強力な陣だ。皇帝の宮は北にあるだろ。六部や兵舎もそれに合わせて置く。王宮の配置が碁盤の目みてえだって思ったことないか」
紅運は都の姿を思い描き、頷いた。
「道士は九星の配置で占いをする訳だが、其々の星には対応する色がある。それがお前らの名に冠する色だ。絶えず始龍に脅かされる国において、皇子の存在自体が防護の陣なんだよ」
「それでは、皇帝が死に、星がひとつ減った今は……」
「あぁ、陣が崩れてやがる」
大聖は俯いた。
「先の世でも似たようなことがあった。かつての俺の弟子、
冷え切った客間に炎の熱が漂った。
***
「巷の通俗小説で、皇帝が魔物になり皇子が倒すという類型が見られるのは二百年前。どれも魑魅魍魎が現れる志怪小説の類だな。特筆すべきなのはどれも金色の龍と
講談師の如く朗々と語っていた
「ごめん、つまらないよね」
「そんなことないよ。ただ……」
「これを全部調べるのかぁ」
彼は疲れた声で呟いてから眼を擦る。
「いや、弱音を吐いてる場合じゃないね。兄さんたちも紅運も頑張ってるんだ」
袖を捲る青燕をよそに、翠春は文机の本を素早く選り分けた。
「全部は要らない。ここからここまでは必要ないから」
「どうしてわかるの?」
「文法だよ。例えば、昔は一人称として使われたけど今は所有格でしか使わない単語がある。それが乱用されていれば、誤用じゃなく後から付け足されたと見るのが正しい。大まかに時代が特定できれば必要な部分だけ選び取れる」
青燕は蒼玉のような目で彼を見上げた。
「君はすごいね」
「全然。六部の文人に比べればただの遊びだよ。ひとと話すのも苦手で、どこにも行けないから本を読むくらいしかなくて……」
翠春は恥ずかしげに顔を背ける。青燕は静脈の透ける細い手首を握った。
「僕たちが一生に行ける場所には限りがある。でも、本を読むひとは時と所も違う何人もの人生を体験できるんだよ。君はもう書庫の数だけ旅をして、古人と会話をしたじゃないか」
赤の窓帳を風が捲り、午後の光が射した。翠春は目を伏せた。
「そうかな」
青燕は首肯を返す。
「母上が、おれは身体が弱いから、出歩いたりしちゃ駄目だって……」
「心配なんだね。でも、子どもがしたいことをして生きるのが一番嬉しいと思う。僕の母上が言ってたんだ」
「でも……」
「翠春」
琴の調べのような声が響いた。翠春が身を竦める。
窓帳から射す光を背に銀蓮が立っていた。
「青燕様も来ていたの? ふたりとも勤勉なのねでも、根を詰めちゃ駄目よ。身体に障るわ」
「休憩になさい。お茶とお菓子を持ってくるわ」
するりと指が離れ、薫香が遠のく。
母の背を見送り、翠春は力なく本の背をなぞった。
朱塗りの盆に青磁の皿と銀の杯を乗せて、廊下を進む銀蓮を見る影があった。
「お待ちなさい。その盆は何です」
「息子と青燕様が勉強会をしているのよ。お茶を持って行かなくちゃ」
「女官に運ばせればいいでしょう。先の襲撃を忘れましたか。皇子の母たる貴女が別の皇子に茶を出すなど、毒殺を疑われるとは思わないのですか」
激しい詰問にも銀蓮は笑みを崩さなかった。
「そうだったわね。教えてくださって助かるわ」
「皇貴妃の自覚を持てと言っているのです」
「ええ、でも……妾は喜んでほしいだけなの。そんなに叱られたら悲しくなってしまうわ」
銀蓮の瞳が弓矢のように引き絞られる。香橙が眉を顰めた。
「これは御二方」
軽薄とも言える声が響いた。
「美しい御婦人が歓談中とはいいところに出会した。こればかりは堅苦しい王宮の救いだね」
総白髪を揺らした
「危ぶむ必要はないよ。銀は毒で変色するからね。態々使う由縁はないさ。だろう?」
「そうなの? よかったわ。では、安心ね」
銀蓮が笑みを作り直した。
藍栄も微笑を返し、香橙の方を向いた。
「夫殿の左将軍は息災かい? 彼に以前、話をしてね。軍で使う弓のことなんだが……」
話を続けながら、藍栄はさりげなく香橙の肩を引いた。彼女は小さく拒んだが、構わず廊下を進む。
遠ざかるふたりに銀蓮は再び目を細めた。
「何です、お離しなさい!」
殿の影まで訪れ、藍栄はやっと香橙から手を離した。
「失礼」
「その通りです」
藍栄は襟を直す彼女の耳元で囁いた。
「あの御婦人には構わない方がいい」
「どういう意味です」
「
香橙は小さく驚嘆する。見返した藍栄の瞳は光を映さない。彼女は深く息を吐いた。
「わかりました。警告は重く受け止めます。ですが、節度を弁えなさい。私は夫がある身です」
踵を返した香橙の耳は微かに赤みを帯びていた。
戸に吊るした硝子の飾りが、凛と音を立てた。
部屋には盲した藍栄が訪れてもいいよう、各所に鏡や音の鳴る飾りが吊るされている。
「偵察、御苦労でした」
奥に座した
「肝が冷えたよ」
文机には書物が積まれていたが、整然として規律が保たれていた。
「調べ物は順調かい?」
「一進一退というところです」
巻物を開く白雄を藍栄が制した。
「読み上げてくれるのは有難いが、些か危険じゃないかな?」
「ご心配なく」
白雄は窓に吊るした紺の帳を手の甲で叩く。鋼のような音がした。
「大魔の権能で強化しています。溜息ひとつ漏れません」
「抜かりなしか」
藍栄は椅子を引き、彼の前に座った。
「身内を疑うのは不本意ですが、色々とわかったことが。貴妃たちの中に後ろ盾が不確かなものがふたりいます。それを探れば、黒幕と紐付くかもしれません」
「
白雄はすぐには答えず、窓の外を見遣った。紺碧の帳の隙間で一段淡い夜の色が空を染め始めていた。
***
赤い影が壁面を舐めるように揺れ、奥の影をなぞった。
「母上」
「冷えるのでは」
「自分の心配をなさい」
冷たく返す母に黄禁は虚ろな視線を返した。
「お前はいつもそうです。傷も癒えていないのに母の身を案じてばかり」
道妃は嘆息した。
「母に恨みはないのですか? お前に皇子らしい暮らしをさせぬどころか、まともな名もつけなかった。呪術の道具としてお前を育てた私を」
「恨むものか」
黄禁は影の深い奥へ進み、道妃の前で足を止めた。
「俺が断食の行を行えば母上も飯を食わなかった。その目も俺が殺し損ねた妖魔を討つために使った。ひとは道具にそんなことはしてくれない」
道妃は打たれたように身じろいだ。黄禁は何も言わず微笑む。
「お前はやはり呪術師に向きません」
深い溜息の後、道妃は立ち上がり、黄禁の横をすり抜けた。
「母上?」
「
彼女は背を向けたまま、消え入るような声で呟いた。
「お前をただの皇子として育てるならつけようと思っていた名です。太陽のように輝かずとも、静かに闇夜を照らす光のような子になればいいと思っていました。その名の方が相応しかった」
黄禁はしばし沈黙した。
「早く休みなさい、黄禁。せめて残り僅かな間健やかに」
道妃は霊廟を後にした。黄禁が追って出た外には闇が垂れ込め、星ひとつ見えなかった。
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