三章:七、胎動
未明、
闇の中で赤い襞が渦巻き、昇る朝日に吸収される。
紅蓮の波が太陽を包む様は、魔物の胎動のようだった。
***
「教えてほしい、
板張りの床についた紅運の膝は早朝毟った草で汚れ、爪には泥が入り込んでいた。大聖は目を細める。
「教えたくねえなあ」
「ここ一帯の雑草を取り終えて、何往復も水汲みをした。まだ足りないのか?」
「だからさ」
腰を浮かしかけた紅運は、大聖の顔に差した陰りに座り直した。
「紅雷も真面目な奴だった。皇子だからと驕ることもなく雑用をこなし、俺を師父と慕った」
彼女は胡座をかいた足の指を見下ろし、呟いた。
「紅雷に教えた秘術は不完全だった。奴が仕損じたのは俺のせいだ」
***
紐で閉じられた簡素な写本は今にも綻びそうだった。
「この本は面白いね。皇子が民と助け合いながら化け物になった皇帝を倒す小説なんて、よく国が許したなあ。それから、妖魔を倒すとき“貪食”って言葉が使われるのも不思議だ。昔はそう言ってたのかな?」
蓮葉茶を片手に読書に耽る
「兄さん、ちゃんと調べてる?」
「勿論。そうだ、聞きたいことがあったんだ」
青燕は取り繕うように資料を掻き寄せる。
「ここ、都の地理が少し違う気がするんだ。誤植か想像で書いたのかな?」
距離を詰めた青燕に、翠春は一瞬身を引きかけ、思い直して椅子を近づけた。
「これで合ってる。国が一度焼かれて遷都したから。この小説はそれより前に書かれたんだ」
「成る程。翠春に教えられてばかりだ」
青燕の屈託のない笑みに翠春もつられて頰を緩める。
「君は何を読んでるの?」
「歴代の侍医が残した記録だよ。医学の発展のために焚書を免れてるし、何か重要な記録が隠れてないかと思って……」
「何かわかりそうなことはあった?」
翠春は開いた頁に視線を下ろす。
「遷都を境に、数十年おきに出ていた王宮での戦傷者の数が格段に減っている。妖魔が王宮を襲う事案が激減したんだ。それに反して、皇帝や皇位継承者が心を病んだ記録が増えてる……」
「何故だろう、この土地が良くないのかな」
「わからない。
「君も行こうよ」
青燕の声に、翠春は身を竦ませた。
「おれはいいよ。上手く話せないし……」
「僕とはちゃんと話せてるじゃないか」
「青燕兄さんだけだよ」
窓の透かし彫りから光が差し、翠春は拒むように窓帳を下げる。
「僕は古書は難しくて苦手だったんだ。でも、翠春に教えてもらって楽しみ方がわかるようになった。君も同じだよ。皆のことがまだわからないから怖いだけだ。会って話せばきっと変わるよ。翠春の話は面白いしね」
青燕は深緑の帳を少し押し上げた。
「紅運だって、今じゃあの
「それは紅運がちょっとおかしい」
兄に脇腹を小突かれ、翠春ははにかんだ。
彼は思い立ったように懐から一冊の本を取り出した。
「これ、母上の本棚にあったんだ。後宮に嫁ぐとき持ってきたみたい。本当はいけないんだけど……一緒に読んでくれる?」
「いいよ、いざってときは一緒に怒られよう」
青燕が肩を寄せた。翠春の爪の伸びた指が墨で走り書きされた文字を追う。彼の白い肌が頁を追うごとに蒼さを増した。
「どうしたの?」
翠春は本を閉じる。
「やっぱりこの本はやめよう。母上にはおれが勝手に読んだことにするから」
「翠春?」
彼は答えず、本から飛び出そうとする何かを抑えるように表紙を押しつけた。
***
「結論から言う。皇帝の変貌が始まった今、次期皇帝を立てても遅え」
「皇帝にできるのはあくまで国土の龍脈を抑えることだ。龍脈の力を受けて化け物になった奴を治す術はねえ」
「では、どうしたら……」
「皇太子の名に何故白の字が入るか知っているか?」
唐突な問いに紅運はつかえながら答える。
「それは、常に先帝の遺志を継ぎ、敬意を忘れないよう服喪の色の白を……」
「表向きはな」
大聖は背筋を伸ばし、白く烟る窓の外を見た。無数の喪服が風にそよいでいるような光景だった。
「古来から戦や流行病、果ては兄弟殺しで皇帝崩御の際、皇子九人が揃わなかった事例はある。始龍もそれを狙って積極的に皇子を襲ってやがった。だから、皇帝が魔物になっちまうのはままあることだ。王宮外には漏らさず、対処法も口伝でしか残さなかったがな」
「その術とは?」
紅運の瞳に映る大聖が陽炎で歪んで見えた。
––––
炎は灯らず、大聖は言葉を口にした。
「皇帝に最も近い長子に魔物を取り込ませ、斬首する。ひとの身と融合した妖魔は皇子とともに果てる即ち、貪食の儀」
紅運は目を見開いた。
「皇太子を生贄にして殺した、と……?」
「ああ、そうだ。白は喪服じゃねえ。死装束なのさ」
大聖は犬歯を見せるような笑いを返した。
「幸い、ここ二百年行われてねえ。最後にそれをやったのが紅雷だ」
「彼は、俺と同じ第九皇子では?」
「そうさ。あの馬鹿、末端の自分なら死んでいいと思い込んでやがった。奴が求めたのは皇太子の代わりに身代わりになる術だった」
紅運は絶句する。
「俺は止めたが、奴の覚悟は固かった。それに、紅雷はただ死のうとしたんじゃねえ。魔物と化した皇帝を取り込んで、始龍と相討ちになろうとしたのさ」
悪夢の中で玉座に額ずく皇子の姿が浮かぶ。
痩せた背に負った覚悟は、長い黒髪の間から見えた張り詰めた面差しに宿っていた。
炎が面影を焼く。
紅運は、己だけに感じる熱の気配に拳を握りしめた。
「紅雷は負けたが、そのお陰か二百年前から始龍が国を襲わなくなった」
大聖は足を組み替えた。
夜も白い霧に包まれた泰山では、時間の感覚が途絶える。紅運は痺れだした膝を動かした。
「だが、龍脈は依然として騒いでやがる。この意味がわかるか?」
「消えたのではなく、襲い方を変えたと?」
「賢いじゃねえか。奴はもっと狡猾に国を滅ぼそうとしてるはずだ」
汗で滑る掌を膝に擦り付けた紅運を見て、大聖は宥めるように頷く。
「俺としても打てる手は打った。俺たちのひとりが王宮にいる」
霧を裂いた月光が、冷然と輝く床を濡らした。
***
死人の如く静かに横たわる黄禁の胸が呼吸で微かに上下する。彼女は乱れた前髪をそっと整え、額に触れた。
闇に沈む後宮の庭に、ひとり佇む影がある。
夜光を反射する鉄色の髪を靡かせる
純白の肌を一筋の赤が伝った。
「あら」
銀蓮の鼻から鮮血が流れ出す。拭おうとした手は口元を覆った。
柳じみた細い身体を曲げ、銀蓮は小さくえづく。指の隙間から黒の雫が溢れた。
呻きとともに吐き出されたのは、夥しい量の血だった。庭を囲う桃の木に縋る銀蓮を、不可視の攻撃が襲い続ける。
致死量をとうに超えた血を吐き、銀蓮は暗褐色に染まった衣を見下ろした。
「非道いわ、陛下にいただいたお着物なのに……」
女は己の血に塗れたまま、婉然と笑みを浮かべ、月夜を見上げた。
「そこかしら」
雲間の月が照らす先は、
廟の前に焚かれた篝火が、風もなく不意に消えた。
火影の代わりに暗黒の影が落ちる。
「ここにいらしたのね」
廟の中央に座す道妃は驚愕に目を見張った。
「やはり、この程度では死にませんか」
道妃が鋭く叫ぶ。銀蓮の胸と喉が歪に膨らみ、新たな鮮血が迸った。
「おやめになって、まだ陛下の喪が明けていないのよ」
鉄錆の匂いと薫香を綯い交ぜにした強烈な香が漂う。
「やめてくださらないと、そろそろ……」
銀蓮は心から哀しげに眉を寄せた。
「呪いが返ってしまうわよ?」
道妃の全身を衝撃が貫いた。
硬い床に頭を打ち付け、倒れ臥す。地に広がる黒髪を溢れ出した血が染めた。
「私の命を代償に、呪殺を……」
虚空に差し出した道妃の手を、柔らかな指が包む。銀蓮は道妃を抱え、唇の血を拭った。
「
道妃は震える手を懐剣に伸ばす。
「とても残念だわ。だって、亡き母の責を負うのは子ではなくて?」
「始龍!」
怨嗟の声は断末魔に変わった。
銀蓮の腕の中で道妃は小さく痙攣した。眼帯が滑り落ち、白濁した瞳が虚ろな影を映す。
「黄、禁……」
唇から最後の血が一筋滴った。
「最早永くとは言いません……僅かな残りの生が幸多きことを……」
道妃の手が力を失い、懐剣が鉄琴に似た音を立て落ちた。
「素晴らしいわ。呪術師の遺言が呪詛ではないなんて」
銀蓮は彼女を横たわらせ、目を輝かせた。
「母は最後まで子を想うものなのね。とても参考になったわ」
血濡れの女は立ち上がり、事切れた道妃の目に眼帯を被せた。
「黄禁様にもすぐ逢わせてあげるわ。大切な子ですものね」
銀蓮が去り、後には赤黒い足跡とひとりの女の死骸が残った。
「母上?」
黄禁は寝台で目を醒ます。
答えるものはなく、風が吹くばかりだった。
寒風は廟にまで吹き渡り、境なく全てを凍てつかせた。
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