三章:八、燭陰

 霧の濃淡で、夜明けがわかるようになった。



 朝露が山を濡らし、水と生活の匂いを含んだ空気が紅運こううんを包む。


 泰山の夜に光はない。白い霧で闇は払われ、道士たちに守られる霊峰に夜警は必要ないのだろう。

 不夜城とも呼ばれる都の人工的な灯りは、紅運の中で既に朧げになっていた。



「下働きは朝から精が出るな。今度は服でも繕ってくれよ」

 霧中に赤髪が泳ぎ、狻猊さんげいが現れる。冷えた空気が僅かに熱を帯びた。

「焼いても焦げない服を?」

 狻猊は牙を見せる。その笑い方は大聖に似ていた。


紅雷こうらいの話、お前も聞いていただろ」

「聞いてもしょうがねえ。とうに知ってる、全部過ぎたことだ」

「英雄、だったんだな」

「何処が。何もできず死んだ無能だ」

「だとしてもだ」

 狻猊の眉が小さく跳ねた。

「英雄譚に憧れる年頃か? 危なっかしくてしょうがねえ」

 彼の吐いた薄い炎が霧を焦がした。



「いっそ泰山に留まろうとは思わねえのか。宮中はお前がいなくても回る。ここで暮らす方が楽だろ。比べられる兄弟もいねえしな」

「帰るさ。疾く行き、疾く帰る。やっと俺に与えられた使命だ。それに、屠紅雷ができなかったことを成し遂げたい」

 紅運は連なる山の稜線を見つめた。



「俺が彼の意志を継いで誰も死なせず事を収めれば、彼の汚名も雪げる。国を焼いた罪人でも無能でもないと証明できる。そう考えてたんだ」

 狻猊は低く唸る。

「俺への慰めとでも言う気か?」

「自分のためだ。彼はきっと俺に似ているから」


 墨で描いたような夢幻の光景が広がっていた。

 在りし日、紅運の母は水墨画の中の美女と謳われたという。その生き写しだと琴児きんじが言った紅運の肌は、今や細かな傷と土で汚れ、編んだ髪も乾いた筆のように乱れていた。


「どこも似てねえよ」

 狻猊が吐き捨て、紅運は小さく笑った。



 ***



 王宮は、清廉な朝に似合わぬ喧騒が駆け巡っていた。



「黄皇子はまだ見つからぬか!」

 常なら早朝の訓練に当たるはずの兵士たちが忙しなく錦虎殿きんこでんを行き交う。


黄禁おうきん兄さんが……?」

 青燕せいえんは彼に見せるはずの地理書を搔き抱いた。


 女官に伴われ、翠春すいしゅんが現れる。

「今朝方侍女が寝室に行ったらもぬけの殻だって。母上もいないんだ」

 彼の顔はいつにも増して血の気がない。青燕は書を持つ手の反対の手を肩に置き、力を込めた。

「きっと大丈夫だよ。ほら、白雄はくゆう兄さんも来た」



 白雄は袍の襟にも流れる黒髪にも乱れひとつなく、悠然と姿を見せた。

「彼を最後に見た者は? 道妃どうひはどちらに?」

「彼女も行方知れずです」


 衛兵を割って入った、藍栄らんえいが白雄の耳に唇を寄せた。

 囁きが漏れ、白雄が慄く。

「確かですか」

 藍栄は首肯を返した。皇太子は恐れの色を打ち消し、胸を張った。

入雲廟にゅううんびょうを走査してください」


「何があったの」

 駆け寄った青燕に藍栄が沈鬱に返す。

「霜で隠れていたが血の跡があった。大量だ」



 張り詰めた空気を銅鑼の音が震わせた。

 有事を知らせる響きに皇子たちは息を呑む。


 担架を担いだ兵士たちが、官吏や女官を押し退けた。

 振動で担架が跳ね、土気色の手がだらりと垂れる。その拍子に黒眼帯が地に落ちた。

 乗せられているのが何者か悟らぬ者はいなかった。


 女官たちの鋭い悲鳴がこだまする。

「静粛に! 我々が取り乱すべきではありません」

 白雄が声を張り上げる。

「亡くなられたのは昨夜かと」

 老いた侍医が告げた。

「全身が切り裂かれています。化生の業としか思えません」

 白雄は担架の幌を捲って検める。

「まさか……」



「母上……」

 人集りの間から虚ろな声が響いた。

「黄禁?」

 寝衣のままの黄禁が覚束ない足取りで一歩ずつ進む。膝まで泥に汚れ、手や頰には霜で焼けた赤い筋があった。

 異様な風体に兵士の幾人かが武器を握る。


「今までどこにいたのですか」

 空洞のような目に白雄の姿は映らない。

「あの女は……」

 鉄錆の臭気が強く漂った。


「気を確かに。これでは貴方の立場が悪くなるばかりです」

「あの女はどこに行った」

 黄禁の声には誰も聞いたことのない怨嗟が宿っていた。藍栄が一歩白雄の前に出る。



 緊張の糸を弱々しい足音が弛ませた。

りゅう皇貴妃!」

 女官が再び恐れの声を挙げる。

 銀蓮が足を引きずりながらひとびとの陰から現れた。艶然たる美貌は血と疲労で曇って見えた。


 唖然とする皆に、銀蓮ぎんれんは乾いた赤を纏った腕を差し出した。

「道妃が昨夜……わたくしは翠春が心配で……呪詛返しの札を貼っていたのだけれど……」

 彼女は身を折って咳き込む。唇から血が零れた。



「龍銀蓮!」

 黄禁が吼えた。

 錦虎殿が軋む。漆塗りの柱が戦慄き、装飾の金箔が砕ける。

 咄嗟に伏せた青燕の上を天蓋の破片が掠めた。


「黄禁、止めなさい!」

 踏み出しかけた白雄の足元で黒曜石の床が弾け飛んだ。王宮が咆哮に呼応する獣のように震える。


「お前だけは……」

 黄禁が手を翳した。道服の背から黒い靄が滲み出し、螺旋の渦となって跳ぶ。

 暗黒が捻れ、母の前に佇む翠春を襲った。



「翠春!」

 獰猛な渦は、息子を庇った銀蓮の腕を裂き、血煙が割れた天井へ噴き上がる。黄禁は一瞬たじろいだ。


「母上……」

 銀蓮の腕の中で翠春が声を震わせた。新たな血に塗れた銀蓮は哀願するような目を向ける。

「妾はどうなさってもいいわ。この子だけはどうか」

「どの口が!」


 靄が獰猛に隆起し、傾ぎかけた殿を黒く染め上げた。

「兄さん、止めてくれ!」

 青燕の制止は震動に掻き消された。


 駆けつけた兵士が弓を構えた。

「待つんだ、白雄!」

 藍栄の声に、白雄が視線を上げる。放たれた矢が上空で叩き落とされた。


「皆は動かず! 私が止めます!」

 白の大魔の権能が四方から湧き出した闇を堰き止める。幽鬼の呻きに似た律動が不可視の壁を震わせた。



 黄禁は己が首を絞めるように喉に手をやる。

「報いを受けろ、龍銀蓮。黄の大魔は––––」

 兵士のひとりが矢を放った。軌跡が弧を描き、唸りながら飛ぶ。



 銀の先端が静脈の浮いた頸を貫く寸前、疾風の如く駆けつけた影が黄禁を弾き、捩じ伏せた。


 狙いを外れ、柱を穿って砕けた鏃が橙志とうしの目蓋を切りつける。地に組み伏せられた黄禁に一筋の血が注いだ。

「兄上……」

 黄禁は押さえつけられながら視線を向ける。


「師範、私は……」

 矢を放った兵士が弓を取り落した。からりと間の抜けた音が振動を止めた殿に響いた。



 橙志は怒声を上げた。

「黄禁は捕らえた、武器を下ろせ!」

 衛兵が当惑しながらも素早く黄禁の身柄を確保する。


 白雄は姿勢を正し、周囲を見舞わした。

「呪禁師の武器は印と呪詛です。手枷と口枷をつけ、牢に繋ぎなさい。殺す謂れはありません」

 落ち着き払った声に辺りも平静を取り戻す。


 橙志は裂けた目蓋で兵士を睨め付けた。

「皇子に矢を向けた責は後で問う」

 兵士が震えながら頷いたのを確かめ、彼は血の滴る目を片手で抑えて立ち去った。



 藍栄は茫然自失の青燕の肩を叩き、双子の片割れの元へ向かった。

「行動が全て後手に回ったね。大丈夫かい」

 白雄は唇を噛んだ。

「後ろ盾の不確かな妃がふたりいると言いましたね。ひとりは龍皇貴妃。もうひとりは道妃だったのです」

 彼は陰鬱に崩れかけた錦虎殿を見渡した。


 傾いた柱の影で、銀蓮は息子を抱きしめながら唇に笑みを浮かべた。



 ***



 羅真らしん大聖は烟る空を見上げていた。


羅十四らじゅうしが逝った」

 傍に侍る羅九らきゅうは表情を曇らせた。

「嵐が来ますな」

「もっとまずいものかもな」


 不動の泰山に轟然たる大音響が鳴り渡った。

 大聖は薄く目を閉じ、靄の向こうを睨む。全てを見透かす金眼に赤の極光が反射した。

「紅運を呼べ」



 大地の鳴動は紅運の元にも届いていた。

 汲みかけの水瓶を投げ出し、険しい坂を駆け下りる。

 家々の周りには既に道士たちが集っていた。


「何があった」

 紅運が肩を並べると、大聖は空の端を指す。霧に一筋の帯を巻いたような極光が赤く揺蕩っていた。


「光……?」

「よく見な」

 紅運は更に目を細める。光の波の中に隈取をした面のような顔が浮かんでいた。


「何だ、あれは……」

燭陰しょくいん。遂に出やがったな」

 狻猊が低く呟いた。


「燭陰?」

「あぁ、古来は火神や太陽神とも思われた大物だ。実際は馬鹿デケぇ妖魔だがな」

 大聖が言葉を引き継ぐ。

「国が傾ぐ凶兆だ。奴は必ず皇帝が崩御した後現れ、都を襲う」


 紅運は弾かれたように都の方角を見た。

 人面は浮遊しながら極光の波に乗って徐々に南下していた。

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