三章:九、篝火孤鳴
雲海を彫った窓から、昨日の惨劇の痕が残る
白雄は天井を見上げた。
父から、玉座には上から剣が提げてあると思えと告げられたことがあった。義と勇を失えば、剣は自ずと王の首を落とすだろう。
「ただの籐の椅子だというのに……」
白雄の首筋には、既に冷たい刃の感触があった。
気忙しい足音が思考を打ち切る。
「申し上げます、北にて極光が観測されました!」
極光。それは、都を襲う炎の大蛇の現れを示す。
「すぐに向かいます」
白雄は声を繕ってから、椅子の背に額を押し当てた。
***
「
「後、二日保たず都へ到来するでしょう」
「麓の被害はどうだ!」
「山が焼け、炎の道ができております。延焼を防ぐ陣は既に敷いております」
首座の声に、道士たちが一同に集う。
一糸乱れぬ連携は蟻の大群を思わせた。霊峰に住まう全ての者が
「国軍の動きはあったか!」
「未だ動かず!」
––––また、俺は役立たずか。
耳飾りが風に揺れた。
今、音を鳴らせば都に危機を伝えられるだろうか。
紅運は思いを巡らせる。
黄禁の母が果てたことは大聖から知らされていた。都を脅かすのは外からの妖魔だけでない。今、王宮がその渦中にあるとしたら。
「大聖」
紅運は顔を上げた。
「無理を承知で頼む。兵を貸してほしい」
大聖は一瞬憂いを見せた。
「
「燭陰を
「未熟なまま死地に赴く気か?」
「俺の成長を待っていたら百年かかる」
「皇子ってのは……」
固く唇を結んだ紅運に、大聖は呆れて額を掻いた。
「
「有り難い。俺の追鋒車は……」
「馬なんぞで行ったらそれこそ百年かかるぜ。もっと早いのがいるだろ」
紅運は当惑し、辺りを見回す。大聖が指した先で、狻猊が不機嫌に眉を顰めた。
***
兵士たちは怒声を交わしていた。
「燭陰についての記述は残されてないのか!」
「先々帝の時代に焚書されています。口伝では岩で堰き止めようと燃え続ける巨大な蛇としか……」
黒帷子を纏った
「敵の進路は!」
「未だ不明!」
橙志が舌打ちする。
「僕に行かせてくれ、火なら水で対処できるはずだ」
「逸るな! 敵の動向もわからないまま出て何になる」
鋭い声に青燕は俯く。
普段の明朗さを失った弟に、橙志は些か語気を和らげた。
「翠春はどうなった」
「誰とも会いたくないって……」
「偵察、戻りました!」
鎧の兵士が膝をつく。
「北から都に向けて南下。山岳地帯を進行中のため、民への被害はまだありませんが……」
「予測の範疇を出ないな」
橙志は冷たく応え、左眼を牢の方へ向けた。彼処に繋がれている男に問えば、妖魔への対策がわかるだろうか。
橙志は首を振った。
座したままの白雄も、同じ想いに囚われていた。
「皆が君を待っているよ」
相対する
「黄禁なら燭陰を探知できるでしょう。しかし、皇族暗殺未遂の罪人を牢から出すべきではない」
藍栄は肘掛から離れない白雄の手に触れた。
「言ったはずだ。その「べき」というのをやめろとね」
白雄は己と瓜二つの顔を見返す。微かに濁った瞳には、白雄の視界しか映らない。
「白雄、君は私の眼なんだ。曇られては困る。君の仕事は敵を見定めることだ。弓を向ける先がわかれば、後は私が射る。今までもそうしてきただろう」
白雄は暫しの沈黙の後、立ち上がった。
「黄禁を牢から出すよう伝えてください」
彼の完璧な微笑に曇りは最早なかった。
剣を携えたふたりの兵に伴われ、黄禁が現れる。
「目隠しを取ってください。縛も緩めるよう」
地に座らされた黄禁が縛を解かれる。口に残る枷の痕から、青燕は目を背けた。
白雄は膝をついて屈み込んだ。
「燭陰が現れました。不遜は承知、力を貸してほしいのです」
黄禁は久方ぶりの陽射しに目を瞬かせ、憔悴しきった顔を上げた。虚ろな目は巨大なの洞のようだった。
白雄は額を伝う汗を髪を整えるふりをして隠す。
「炎の気配は……」
黄禁が乾いた唇を開いた。
「都より僅かに北東を目指している。この進路では王宮には来ない」
「何故?」
「信じないでください。彼は都を脅かす罪人です!」
背後の兵が声を張り上げた。
「廃城……」
衆目の中、青燕が言った。
「たぶん、二百年前の都を目指してるんだ!」
「成る程、燭陰は遷都されたことを知らない……」
白雄は頷き、姿勢を正す。
「北には廃城が残っています。それを使いましょう」
凛とした声が響いた。
「橙志。兵を回し、篝火を焚き、廃城を都に見せかけてください。別働隊で住民の避難を」
橙志は包帯を剥ぐ。
「
呼びかけられたのは、橙志の瞼に残る傷をつけた男だった。
「功績次第でお前の咎を定める」
若い兵は首肯を返した。
「青燕、同行してください。廃城の周りを水で埋め、即席の堀にします」
青燕は力強く頷いた。
「黄禁」
白雄は伏し目がちに彼を見た。
「感謝します」
黄禁は弱々しい笑みを返した。
「厳重な縛は要りません。丁重に牢に返しなさい」
「彼は最早取るに足らぬ重罪人です。斯様な扱いは……」
白雄は微笑を返した。
「では、一介の罪人より皇太子を信じていただきたい」
藍栄が顔を背けて密かに笑った。
迅速に動く兵を見送り、白雄は双子の兄弟を見る。
「暫しの間、不在は任せました 」
「行くのか」
「都には皇帝がいなければ」
***
追鋒車には四人の道士が乗っていた。
「本来二人乗りなんだが」
紅運は苦笑した。
「
幼い兄妹が会釈する。紅運は狭い車内に飛び乗った。
「後は任せたぜ」
大聖は赤毛の行者の肩に手を置き、身を寄せて囁いた。
「その出で立ち、前々の俺の真似か?」
狻猊は答えない。
「しくじったのはお前のせいじゃねえ。罪滅ぼしに囚われるのはやめろ」
「何のことやら」
大聖はそれ以上問わず、彼を離した。赤髪が炎に変わり、燃える獅子が現れる。
馬車の軛を負い、狻猊が唸った。
紅運は窓から身を乗り出す。
「大聖、戻ったら秘儀を」
「必要ねえよ、狻猊が知ってる」
紅運が問い返す前に、追鋒車が発車した。大聖はその残像を見送った。
紅炎が驚き、馬車が霧を破る。
白が引いた空は火の色に染まり、裾野は黒ずんでいた。
「燭陰は同じ速度で南下中」
羅花と呼ばれた少女が淡々と言う。
「兄たちも動いているといいが」
「いざとなれば我々だけで」
壮年の道士、羅七が言う。
紅運は寿司詰めの車内から、周囲の光景が飛び退るのを見つめた。
***
廃城の周囲は、青燕によって水で満たされていた。
即席で固めた堀に映る篝火は都の夜によく似る。
「後は、待つばかりですね」
白雄は亡き皇帝の衣を纏い、蛇矛を携えていた。
「紅運も気づいているかな。泰山は無事だろうけど」
青燕が呟く。
「彼がいればって思っちゃってさ」
眉を下げて笑う弟に、橙志が頷いた。
「奴も同じ考えだろう」
朽ちかけた城を吹き抜ける風が、死にゆく者の声のようにこだまする。質素な鉄の耳飾りが揺れた。橙志は片割れだけの飾りに手をやった。
揺れる車内に冷たい音が響いた。
紅運は息を呑む。音の出処は耳飾り以外にない。
––––二度か、三度か。
触れた鉄が残響で震えた。次いで音が鳴る。
出立の際、告げられた「帰るな」の合図。
「今更ここで……」
唇を噛む紅運の耳元で更に音が響いた。
二度でも三度でもない。
奇妙な旋律を刻むように音は鳴り続ける。
「何だ……?」
羅九が気遣わしげに紅運を見た。
その音階に覚えがある。
都の朝、何度も紅運を苛み、奮い立たせた響き。
「通信だ!」
紅運は音に耳を澄ます。
音の大魔を使役する橙志の、音響による指揮。左翼に展開せよ、南方に敵あり、進め。
紅運は落ちんばかりに身を乗り出した。
「橙志が場所を伝えてるんだ! 狻猊、俺の言う通りに進め!」
追鋒車は矢の如く進む。
***
偵察の兵士が駆け戻った。
「北から炎が見えます! 物凄い速さでこちらへ進行中!」
「嘘だろ、早すぎる!」
青燕は目を見張った。煌々と照る炎が横顔を照らす。
「来たものは仕方ありません。弓矢隊、構えを!」
白雄の指示に兵士が弓を構えた。橙志が筆頭に立ち、降り始めた夜の帳を睨む。
「お待ちを。あれは違う」
白雄は怪訝に眉を寄せた。
鈍色の闇に一条の炎が赤を佩く。火の粉は風に乗り、皇子たちの前を舞った。
恐れを成す兵士の中で、橙志だけが口角を上げた。
「来たか!」
燃え盛る獅子が、重みで傾ぐ追鋒車を引きながら駆け抜けた。
闇の中を炎が跳躍し、兵士が蜘蛛の子を散らすように避ける。馬車は炎と土煙を巻き上げて白雄たちの前で止まった。
その窓からひとつの影が飛び降りた。
「紅運!?」
青燕が裏返った声を出す。
「今、帰った!」
煤と泥で汚れた紅運は、それでもしかと地を踏んだ。
橙志は弟を見下ろす。
「遅い」
「これでもか!?」
紅運は抗議しかけて、彼の瞼の深い傷に目を止めた。
「擦り傷だ。妖魔のせいでもない。軍での事故だ」
王宮でも動乱があったのは自明だった。追及を拒む硬い表情に、紅運は努めて不遜な声を繕った。
「恨みを買ったんじゃないか。稽古が厳しいから……」
橙志は一瞬虚を突かれ、唇を吊り上げた。
「お前との稽古は甘すぎたらしい」
「紅運」
白雄は静かに頷いた。
「疾く戻りましたね」
紅運も首肯を返す。
「ここで妖魔を迎え撃ちます。覚悟のほどは」
「充分だ。援軍も連れてきた」
道士たちが馬車から降りる。
そのとき、北の空が慟哭した。
真紅の極光が夜を染め上げ、上空に人面が浮かび上がった。
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