序章:三、伏魔殿
「まだ見つからないのか!」
兵士と同じ鎧に兜は被らず、抜き身の剣を携えた
庭園の池に浮かぶ蓮は萎れて沈み、喧騒が水面に波紋を広げる。駆けつけた兵士たちの帷子も炎を映して輝いていた。
「恐れながら、犯人は……」
煤に塗れた兵士が噎せ返りながら答えた。
「死人です」
「何?」
「棺の警備の最中、兵士が急に胸を掻き毟って事切れました。そして、死んだ兵士が起き上がり、駆け寄った者の喉元に齧りつき、燭台の火を放ったのです。同じことがそこら中で……」
「宮中に妖魔が出るものか! 結界はどうなっている!」
「何者かに破られていました」
橙志が眉間の皺を深くする。
「二百年も破られなかった結界だぞ。死霊を使う道士如きに……」
「道士ではない、
割って入ったのは
「九柱がひとつ、黒の大魔・睚眦。悪心を見透かし、殺人に走らせる。睚眦の恨みと言うだろう」
ひと睨みされた程度の怨恨を指す言葉の元は、睚眦を従える皇子が国内に目を光らせ、叛意を抱く者をその権能で悶死させたことに拠る。
史書に通じる橙志は脳裏をよぎった故事を振り払う。
「大昔の話だ。今は刑部が廷内に出入りする者の可否を問うため……」
橙志は口を噤む。答えを見透かしたように黄禁は首を振った。
「生者に権能を使えばただ死ぬのみ。しかし、死人に使えば身が砕けるまで荒ぶる餓鬼となるらしい」
「……
「皇子にしか使えぬのはご存知のはず」
橙志は沈鬱に目を閉じた。風に火花が散り、熱に耐えかねた宮殿の悲鳴が響く。橙志は開けた目を兵士に向けた。
「一衛は白雄殿下を呼べ。二衛は避難誘導と翠春と紅運の安否の確認を。三衛は青燕が来るまで消火に当たれ」
「既に火の手が激しく倒壊の恐れ有り。優先順位は如何しますか」
「今から俺が聞く。来い、
橙志の影が光を帯び、釣り鐘のように膨らむ。洗朱の鱗の竜が地に降り立った。
「橙の大魔は音響を好む。啼け!」
雷鳴が轟いた。空気そのものが吼えたような咆哮は城郭に叩きつけられ、無数に反響する。鳴動がくまなく捉えた城内の凹凸全てを橙志の肌に伝え、彼は深く息を吸った。
「東の被害が甚大だ! 玉麟殿と天鵰殿は間も無く倒壊する! 女官は皇妃殿下を連れ、火の手の弱い南へ逃げろ。男は消火に当たれ。 兵は妖魔の討伐を続け、首謀者を走査せよ!」
銅鑼よりも鮮明に響いた声に兵士が素早く展開する。
「殿下、あちらが!」
兵のひとりが指をさす。
官吏が肩を貸し合って逃げる頭上で、燃える梁が火の粉を吹いた。逃げる間もなく傾いだ梁は落下する。
炎が官吏を捕える寸前、水晶に似た球体が空中で弾けた。大量の水が滴り、梁が水蒸気を上げて砕け散った。
「遅くなってごめん、怪我はない?」
「
青い衣を煤で汚した皇子が駆け寄る。背後には四脚を持った巨大な魚が侍っていた。
橙志は亡者たちと切り結んだ血濡れの刃を素手で払った。
「弟たちは?」
「
青燕は目を伏せた。
「黒勝がこんなことするなんて……そう思い込んでたのが駄目だったんだ。ちゃんと話す機会はいくらでもあったのに」
橙志が背を強く叩いた。
「過ぎたことを考えるな。今救える命があるだろう」
血豆が潰れた手の硬さと重みに青燕は顔を上げた。
「鎮火できない建物は崩して止める。下手人の誘導も兼ねたいが……」
「私が導線を引きましょう」
純白の喪服に黒鉄の蛇矛を携えた白雄が現れた。
「いつからそこに?」
「たった今です。ですが、橙志の考えなら兵法の最適解を選べば自ずとわかる。天鵰殿を崩して延焼を食い止め、瓦礫で東への経路を塞ぐ。南は兵士の守りがある故、無人で被害を最小限に抑えられる北の龍墓楼へ誘導できる。違いますか?」
「流石です」
ゆらぐ陽炎から亡者の影が滲み出した。白雄は蛇矛を振るい、頭上に茂る木を払う。枝葉が嚆矢の如く地に刺さり、鋼の硬度の柵となった。白雄は胸を張る。
「黄禁、頼めますか」
「ああ。霊廟に篭り、呪殺を打つ」
「青燕は引き続き消火を」
「わかった」
「橙志、足止めを頼みます」
「お任せください」
「宮廷は外敵の侵入を許さぬ精強さ故に、内敵との戦の経験は乏しい。皆、留意してください」
弟たちを見送った白雄は天鵰殿に向かった。催事の度花で彩られた宮殿を今飾るのは赤一色だ。
「白の大魔は重責を好む」
蛇矛が白銀の輝きを帯びる。重力を司る妖魔の権能を宿した刃が直線を描く。ひと突きで天鵰殿は砂のように崩れ落ちた。
***
破壊の残響は紅運の耳にも届いた。
「紅運様、疾くお逃げを」
周囲は煙が充満し、肉と木の焦げる臭いがたなびいていた。遠くで皇帝を安置する宮を炎が包み、黒煙が夜空の暗雲に合流した。
「黒勝、本気だったのか」
紅運が見逃した兄が殺した者たちが廊下や庭に倒れている。あの後、他の兄に伝えていたら違っていただろうか。
「紅運様!」
思考を琴児の声が引き裂き、真横から二本の腕が突き出す。間一髪で交わした紅運の前を唾液を滴らせた上下の歯が噛んだ。
「何だ、こいつは!」
男は鎧を纏っていたが黒いのは帷子ではない。裂けた腕や背から骨が見えるほど焼けて焦げている。常人なら立つことも叶わない火傷だ。再び躍りかかった男の腹を紅運の踵が打つ。男は勢いのまま頭から白壁に突っ込んだ。骨が砕ける音がしたが、二本の脚がまだばたついている。
「死霊か……!」
紅運は自分の腰を見下ろす。とうに稽古をやめた剣など帯びているはずがない。紅運は舌打ちし、隅に転げていた黒い鞘を拾った。
「道が塞がれている。北へ逃げよう」
紅運は琴児の手を引いた。
道の向こうで亡者が次々と倒れる。黄禁が廟から呪術で生ける屍を死者に還しているのだろう。紅運は頼りない黒鞘を睨んだ。
朱塗りの楼門が見えた。それと同時に煙より一段暗い黒の塊が映る。死者の軍勢が門の下に蠢いている。琴児が手をそっと解いた。
「貴方様だけでお逃げください。老体は足手まといです」
「何を言うんだ!」
咳き込む紅運の声に、亡者たちが白濁した目を向けた。呻きがこだまし、無数の腕が押し寄せた。
「死に損ないが……!」
死者の拳撃が紅運の構えた鞘を弾き飛ばす。
押し寄せる顎門に紅運は目を瞑った。
痛みは襲ってこない。
目を開くと、亡者たちが焼けた梁に押し潰されてもがいていた。瓦礫が広がる中に白髪の老婆が倒れている。
「琴児!」
未だ燃え燻る天鵰殿から老体とは思えぬ力で梁を抱え、亡者の群れに投げ落とした腕は赤く爛れていた。
「どうして……」
煤と火傷で覆われた彼女を抱き起すと、力無い笑みが返った。紅運は琴児の衣に点いた火を手で消して背に負った。
火膨れした指がひりつく。鉛のような重みに耐えながら紅運は一歩ずつ進んだ。
「何で俺なんかを庇うんだ」
「今も覚えております……」
熱く細い息が耳にかかり、琴児が笑ったのだとわかった。
「私の脚を見た紅運様が……『皇帝になったら女官も馬を使えるようにしてやる。馬が走れないところは俺が背負う』と……」
紅運は息を呑んだ。
「何もないなど仰いますな……私にはずっと何より大事で特別な……」
琴児が肩からずり落ちた。駆け寄ると、まだわずかに息があった。風と炎の共鳴に怒号が混じる。自分には何もできない。助けを求める相手すら今はどこにもいない。
紅運が唇を噛んだとき、獣の唸りが胸中の声に応えた。振り返ったが、変わらず赤い楼門があるだけだ。その奥から低い唸りが聞こえてくる。皇帝たちの墓の先にあるのは――。
「伏魔殿……」
紅運は琴児を楼門の下に寝かせた。
「すぐ戻る」
赤い支柱を潜り、紅運は気が遠くなるような石畳を駆け上がった。肺が鋭く痛む。豪奢な廟の前を擦り抜けた先に、石を積み上げた、崩れそうな塔があった。
白い縄で幾重にも封じられた入り口には天子すらも立入を禁じる札が揺れている。紅運は躊躇ってから縄に手をかけると結び目は呆気なく解けた。
歪な石の門を肩で押し開けると、湿気と熱が押し寄せた。魔物の胎内に呑まれたようだった。紅運は闇の中を手探りで進んだ。
闇の先に光が覗いた。足を早めるほど、熱は濃くなり息が詰まる。薄暗がりの中、赤光が煌々と照らすものが見え、紅運は息を呑んだ。
獣でも妖魔でもない。炎のような赤い髪をした男だった。うねる髪の奥に擦り切れた行者の服と、項垂れた顔がある。胸には深々と銅剣が突き刺さり、地に縫い止めていた。
「これが赤の大魔か……?」
呟きに呼応するように男が顔を上げた。
「お前、皇子か……?」
掠れた声だった。赤毛から険しい面差しが覗き、目蓋が開く。
「それとも、皇帝か?」
炎の芯のような金の瞳が爛々と光った。
紅運は額から滴る汗を拭い、男を貫く銅剣の柄に手をかける。
「いずれそうなる」
紅運は銅剣を引き抜いた。
紅蓮の炎が噴き出し、獣の咆哮が北の空を揺らした。
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