四章:七、貪食之儀

 雪に照り返す宮殿の夜光は、雪原の下にもうひとつの城が埋もれているように見えた。



 翠春すいしゅんは本を抱え、雪明かりを眺めていた。

「そんなに早く外に出たら身体が冷えてしまうわ」

 りゅう銀蓮ぎんれんは息子の手を取り、吐息を吐きかける。翠春の白い指が僅かに紅を差した。


「不安?」

 銀蓮は微笑んだ。

「上手くできるか心配なのね。初めての大仕事だもの」

 翠春の鼻先に柔らかな白が触れた。銀蓮は羽織った毛皮を翠春の首元に回して包み込む。

「大丈夫よ、またあの炎の化け物が来たら妾が追い払ってあげる。貴方は何も気に病まなくていいのよ」


 雪の音も吸い込む毛皮の中、翠春は母を見上げた。

「おれ、やっていいのかな。もう何が正しいのかわからないよ。青燕せいえん兄さんだって捕まって……」

「あの方が気に入ったのね?」

 銀蓮は朱を塗った眦を歪めた。

「いいわ。貴方が儀式を完遂したらあの方を牢から出してあげる。皇太子がいなくなれば皇貴妃の妾の言うことを皆が聞くわ。ご褒美があった方がやり甲斐があるものね?」


 翠春は顔を硬らせた。

「違うよ、そんな話じゃない」

 身を退きかけた翠春をしなやかな毛皮が捕らえた。銀蓮は彼の手を抱き寄せる。吐息が悴んだ耳を温めた。


「妾も貴方と同じよ。ずっと不安で寂しかったの。この国は妾のもののはずなのに嫌なひとたちが邪魔をして居場所がないんだもの。貴方もそうでしょう? 賢い翠春ならもっと上手く国を治められるのに、辛かったでしょう?」

 銀蓮は毛皮を広げた。毛に絡んだ雪が舞い散り、月と燈籠を反射して燦然と輝いた。


「何処にも行けないなら今いる場所を桃源郷に作り変えて仕舞えばいいのよ。明日からここは貴方と妾の国。素敵でしょう?」

 銀蓮は子どものように笑う。降り注ぐ光に翠春は目を見開いた。



 雪を被った銀蓮を見留めた女官が慌てて彼女を呼ぶ。羽織物を持ち寄った侍従に伴われ、銀蓮は微笑みを残して宮中に消えた。


 取り残された翠春が母の体温が残る毛皮を掻き寄せたとき、薄氷を削る足音がした。

紅運こううん……」

 雪光を背に立つ弟の姿に、処刑前夜に見た青燕の姿が重なった。


「決意は変わらないのか」

 鋭い眼光に射抜かれ、翠春は本を毛皮に隠す。

「だったら? おれを殺しに来たの」

「そんな訳ない。何故そう思う」

「恨んでるだろ。それとも軽蔑してるか。日陰者が今更皇位継承戦に参加して、なんて」


 卑屈に口元を歪めた兄に、紅運は目を伏せた。他人から見る自分も同じ顔をしていたのだろう。


「尊敬してた」

 翠春は肩を震わせた。

「何で……」

「俺と年も変わらないのに、何倍もの人生を生きたような知識を持ってる。宮廷から出なくても世界を知れると思い知らされた。妬む資格もない。俺が何もしない間にずっと学んでたんだから」


 白い肌の血の気が更に失せた翠春に、紅運は背を向けた。

「でも、儀式をやるなら止める。それとこれは別だ」

 紅運はそう言い残して駆け出した。翠春の髪から溶けた雪が滴って頬を濡らす。彼は毛皮に鼻を埋めて嗚咽を漏らした。



「説得失敗かよ。まあ、そうだろうな」

 柱にもたれた紫釉しゆうが紅運を出迎えた。

「決意は堅そうだ」

「お前の話術も問題だろ」

 紅運は不平を漏らしかけた口を曲げた。


「話して駄目なら実力行使だ」

「嫌だ嫌だ、本当に橙志とうしに似てきたぜ。あいつはまず喋らないか」

 紫釉は大袈裟に肩を竦める。柱の奥から烏用うようが顔を覗かせた。


「これからどうする気ですか。私は化け物と戦う気なんかありませんよ」

「そりゃそうだ。ここからは俺たちでも危ない賭けだからな」

 羅真らしん大聖たいせいは道服の帯を締め直す。


「お前は宮中の人間を逃す手筈を整えてくれ。恐らくここが主戦場になるからな」

「わかりましたよ。大人しく官道を歩みたかったのに何故こうも……」

「安心しろ。これで勝てば大出世だぜ。今皇族に恩を売って損はねえ」

「悪役みたいだな」

 口を挟んだ紅運に、大聖は犬歯を覗かせた。


「大聖の言う通りここは危険になる。紫玉たちを逃さないと」

 紅運の声に、紫釉は腕を組んだ。

「異論はないけどな」

「まだ何かあるのか」

「俺は残るぜ。混乱に乗じて牢屋で干からびてる馬鹿どもを拾わなきゃまずいだろ」

 紅運ははっとしてから、口元に笑みを浮かべた。


「頼んだ」

「こっちの台詞だ。牢破りしてもわからないぐらいさんざん暴れてくれよ」

 紫釉は指を鳴らす。紅運は頷き、吹雪き出した北の空を見上げた。

「貪食の儀はもうすぐだ。行かなければ」



 黄禁おうきんの処刑とは打って変わって、伏魔殿は赤の燈籠と金の宝具で絢爛に飾り立てられていた。その全ての色を掻き消すような雪が降りしきっている。


 白雄は黄金の輿から身を乗り出し、天を見上げた。

 奥行きのない夜の闇から落ちる針のような雪は地に触れる前に消え、この世の何処にも繋がらない場所にいるようだった。

 溶け出す水の微かな音が鼓膜に染みた。



「白雄殿下」

 神官が顔を覆う布の下から気遣わしげな視線を送る。白雄は微笑し、天鵞絨張りの輿に座り直した。


「神酒でございます。痛みを消し、恐れを失わせる」

 金の杯に濁酒が注がれた。水面に映る己の顔を暫し見つめ、白雄は酒を煽った。


「泰然自若ですね」

 神官の嘆息が微かに布を揺らした。

「皇子とは万民の命の負って立つもの。己が命ひたつ揺ぐ程度で騒ぐべきではないでしょう。それに……」

 白雄は片手を閉じた。

「古書を訪えばあるとはいえ、私には初めてのことです。どうせならば楽しまなくては。少々思う所もありますので」


 その仕草に戸惑う神官の手が、杯に残った雫を数滴零した。鳳凰を掘り抜いた屋根から雪が落ち、再び輿が持ち上げられた。



 伏魔殿の門を潜ると、深々たる雪の音すら消え、無音の闇に包まれた。


 地下へと進む輿の内部は神官たちの息遣いと提げた錫の鳴る音だけが響いた。鼻先に息が詰まるほど甘く濃密な香が漂った。



 規則的な振動が止み、輿が地面に降ろされた。

「こちらを携えていくのは許されますか」

 扉を開けた神官に、白雄は布に包まれた筒のようなものを見せた。

「母の形見です。これを届けに行くと思えば、半ばで挫けずに事を成せるでしょうから」

 古くから彼を知る神官のひとりが静かに頷いた。



 神官に手を取られ、白雄は幾重にも陣が描かれた地に踏み出す。


 燭台の火影が伸び、赤い舌で壁の凹凸を舐めた。薄桃色の煙が濛々と立つ香炉の傍に、翠春がいた。すれ違う瞬間、白雄は彼の耳に唇を寄せた。


「陣の外にいなさい。ここからは何が起こるかわかりません」

「……おれを気遣わないで」

 翠春は深い薫香に顔を覆い、遠ざかる白雄の背から目を背けた。



 皇帝の棺は中央に鎮座したままだった。

 黄金の装飾は、先日の一件でどす黒い滴りが泥を指で塗ったように何条も走っていた。


 白雄は躊躇わず地に座し、包みを傍に置く。棺に額ずいた彼の頭上で、厳粛に銅鑼が打ち鳴らされた。



 錫と鼓が激しく掻き鳴らされ、勢いを増した香気に蝋燭の火が揺れ動く。

 どぷりと汚濁した河水が溢れるように、黒い汁が独りでに棺の蓋を押し上げた。


 白雄は背筋を正し、身動ぎひとつせず黒い水が膝に迫るのを見る。

 棺の蓋が弾け、靄が噴出した。燭台の灯火を吸う完全な闇が形を帯びる。闇は獣のような輪郭を作り出した。


 金属を爪で掻くような耳障りな異音がした。

「お久しぶりです、父上」

 白雄は端然と告げる。

「白、……」

 奇怪な音は確かにそう応えた。法具を鳴らす神官たちの手が一瞬止まる。白雄だけは動じぬまま言葉を紡いだ。


「貴方の責を負うため長子が赴きました」

「白、雄……」

 獣が蠢き、黒い触腕を伸ばす。

「だが、その必要はないようですね」

 触腕が宙を掻いた。乱れた音律が洞窟に反響する。



「御壮健で何より。生きてきた頃よりお元気そうだ。しかし、目だけは蘇らなかったのですか」

 白雄は眼前に聳り立つ闇の獣を仰いだ。


「私も視力に自信はないが、他人を見る目には自負があります。我らが父は––––」

 彼は素早く布の包みを解いた。

「双子も見分けられぬほど盲人ではなかったな!」

 現れた短弓に番た矢が銀の閃光を放ち、魔物の眉間を貫いた。



 ***



 伏魔殿を轟音が貫いた。

 吹雪が地上から遡るように、衝撃で舞い上がられた雪が天を衝く。


「嘘だろ……」

 北の楼門への道のりを駆けていた紅運は足を止めた。

「遅かったのか……!?」

「いや、逆だ。誰かが時間を稼いでやがる」

 羅真大聖は顎に手をやって笑った。

「この国にまだ骨のある奴らがいるみてえだな」

 紅運は戸惑いながら北の空を見上げた。



 ***



 神官たちは宝具を取り落とし、呆然と佇んだ。


「白雄じゃない……!」

 翠春は壁に背を預け、震えながら声を上げた。闇に慣れた目が弓を構える皇子を捉える。流れるような黒髪は染粉が熱で溶け、地の白が覗いていた。

藍栄らんえい!」


「皆には見えただろう!」

 藍栄は声を上げ、神官を見渡す。

「あれは最早皇帝ではない、討つべき魔物だ!」

 靄が再び形を作った。藍栄は次の矢を番える。



 周章狼狽する神官のひとりが呟いた。

「敵うはずがない。白雄殿下でなくてもいい。儀式を完遂しなければ……」

 その声に他の神官たちが頷き、中央へにじり寄る。藍栄は溜息を漏らした。

「こういう処だな、宮廷というのは」


 前の化生と後ろの神官との間合いを測りながら、藍栄は汗で滑る弓を握る。双方が包囲の輪を狭めていく。

 視覚の代わりに聴覚を研ぎ澄ました彼の耳にだけ、重厚な足音が聞こえた。



 地上から洞穴を疾風の如く駆け抜けた影が吼える。

「藍栄、耳を塞げ!」

 彼は弓を持つ両腕で咄嗟に耳を塞いだ。神官たちが飛び出たのが何者かも視認できぬ間に、鋭い一声が響いた。

「橙の大魔は咆哮を好む。鳴け、蒲牢ほろう!」



 密室たる地下に大音響が鳴り渡った。咆哮は波状に展開し、稲妻のように全てを音の刃で貫す。燭台が弾け飛び、陣が掻き消え、神官が倒れた。

 唯一意識を保った藍栄は、只今の破壊の主に顔を向けた。


「大胆だね、橙志」

「お前ほどじゃない」

 不服げに剣を携えた橙志に、藍栄は常の軽薄な笑みを返した。

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