四章:八、蛟竜毒蛇
その奥に黒い靄が蠢いていた。
「あれが本当に父上か?」
「もう違うさ。私と白雄を見分けられぬようではね」
藍栄の額に熱で溶けた染粉が滴り、目に落ちた。彼は瞬きひとつしない。橙志は小さく眉を顰めた。
禍々しい影が翼にも触手にも見える腕を広げた。
「という訳だ、橙志。遠慮はいらない」
「当然だ」
巨獣が身を屈めた。靄の中心が渦巻き、火坑じみた口が開く。藍栄は咄嗟に座り込む
「
巨獣の咆哮が轟き、橙志の命で大魔が吼える。音の波濤に逆回転の鳴動が衝突し、激震が伏魔殿を揺るがした。
震動が全ての音を掻き消し、濛々たる土煙を奪った。
橙志の肌に跳ねる小石がぶつかる衝撃と、白煙を押し流す冷気が刺さる。徐々に開けた視界に映ったものに彼は息を呑んだ。
頭上にあるのは地下で見えるはずのない夜空だった。
星と雪が白く染める夜空の天蓋が垂れている。
見回した周囲はすり鉢のように抉れた地面と、惨憺たる瓦礫の山だった。
地中深くにあったはずの伏魔殿は匙で抉ったように貫かれ、地下も地上も境のない巨大な穴と化していた。
瓦礫の隙間から神官の白衣と血が覗いていた。
「藍栄!」
「いるとも」
橙志の叫びにいつもより余裕のない声が返った。
土と煤で汚れた藍栄は抱えていた翠春を下ろした。
「翠春、宮廷に戻って禁軍を呼んでくれ」
藍栄は虚空に弓を構えた。矢の先端が睨む方から重々しい呻きが漏れた。夜の闇が更に暗く翳る。
「早く!」
呆然としていた翠春は声に弾かれ、瓦礫で捩れた道を駆け出した。足音が聞こえなくなったのを確かめ、彼は橙志と共に空を見上げた。
跡形もない伏魔殿を守る朱の楼門に、怪物が取り付いていた。
屋根を掴む爪は剣の輝きを持ち、全身は金の鱗に覆われている。獅子に似た面を持つ黄金の異形が皇子たちを見下ろしていた。
「私が地上まで誘導する。何とかここで食い止めよう」
「命令するな」
橙志は剣を構える。橙の大魔が再び吼えた。
翠春はもつれる足で石段を駆け降りた。
目尻から滲んだ涙と汗が、霜に変わって張りつく。一心不乱に駆ける彼を柔らかな胸が抱き止めた。
「まあ、どうしたの。そんな顔をして?」
「母上、ごめんなさい。おれ、失敗した。
泣きじゃくる翠春を見る銀蓮の瞳孔が細く引き絞られる。
「そう……」
感情のない声に翠春は身を竦めた。叱責か拒絶か、震える彼の予想に反して返ったのは朗らかな声だった。
「陛下がお目覚めになったなら、妾がお迎えしなくちゃ」
銀蓮は屈託なく微笑む。
「妾は皇貴妃ですもの。陛下の御意向に従って支えるのが努め。陛下は破壊をお望みなのでしょう? 」
「母上、何を……」
「さあ、まだ使える子がいたかしら」
銀蓮は息子を抱きしめる腕に力を込め、遠くを見つめた。
***
急ぐ
「禁軍、もう待機してたのか! 手を貸してくれ、伏魔殿が……」
「待て!」
駆け寄ろうとした紅運の腕を
「何を……」
兵士が身悶える。彼は打ち上げられた魚のように飛び上がり、関節を無視した動きで立ち上がった。鎧の中でごり、と鈍い音がした。
「こいつら……」
大聖が歯を軋ませた。
兵士たちの瞳は白濁し、口から涎が滴っていた。常軌を逸した顔つきに全ての始まりの光景が重なる。
「まさか……黒の大魔、
起き上がった兵士が力任せに腕を振るった。紅運は銅剣の柄でそれを防ぐ。兵士の地獄の亡者のような呻きは、
「何でだ、黒勝も睚眦ももう……!」
「元々大魔は始龍が産み落としたもんだ。皇子の手を離れれば好きに使えるんだろ」
大聖が素早く韻を結ぶ。兵士の群れが縛られたように動きを止めた。足掻く兵士たちの口から唾液の泡が飛んだ。
紅運は唇を噛み、大聖に向き直った。
「ここは俺が抑える。宮殿に行ってくれないか。あっちも騒ぎになってるはずだ。俺には
羅真大聖は暫しの間、兵士と宮廷を見比べた。
「死ぬんじゃねえぞ」
「そっちも」
「餓鬼が、粋がんな」
足音もなく大聖が姿を消した。
兵士たちがもがきながら紅運ににじり寄る。
「狻猊、こいつらを……」
赤毛が視界に広がったとき、兵士の口から呻きではないものが漏れた。
「おやめください……」
紅運は目を見開いた。
「紅運殿下、どうか……」
「お許しを……」
兵士たちが口々に慈悲を乞う。
「まさか、生きたまま操られてるのか?」
「まやかしだ。死人が生者の振りしてるだけだ」
狻猊が冷たく答えた。
「何故わかる?」
「そう思わなきゃ戦えねえだろ」
金の瞳は鋭く兵士たちを睥睨した。禁軍の兵は口で助けを乞い、手足は殺意に震えている。
「わかった」
紅運は銅剣を強く握った。
「お前は手を出すな。このくらい俺が抑えて見せる」
狻猊の瞳が小さく震えた。
「雑兵に負けたんじゃ後で橙志に殺されるからな!」
紅運は二本の指で前方を指した。
兵士が上体を捻り、後手に取った槍を振り抜く。紅運は翳した手を後方にやり、入れ替えるように剣先で弧を描いた。刃が槍を空中に弾いた。
倒れた兵を躱し、左から迫るひとりの足を払う。死角を狙った三人目の方へ押し出し、衝突させた。続く乱撃の勢いを剣の背で殺し、柄のひと突きで昏倒させる。
「やれる」
紅運は言い聞かせるように呟いた。
「
次々と現れる鎧帷子に紅運は剣先を向けた。
***
宮殿の内部は既に狂騒に陥っていた。
血走った目の兵士が緞帳を切り裂き、女官たちが悲鳴を上げる。
「逃げろ!」
兵士は悲痛な声で叫びながら刀を振るい、真紅の調度を傷つけた。腰を抜かした女官の上に刃が迫る。
刀が女官を裂く寸前、兵士の身体が真横に飛んだ。
脇腹を蹴り抜かれた兵士は壁に衝突し、昏倒する。女官が顔を上げると、褐色の皇子が不機嫌そうに倒れた兵を見下ろしていた。
「どいつもこいつも血迷ってんな」
紫釉は女官に手を貸し、助け起こす。
「阿呆の第五皇子はどこで干からびてる?」
「黄禁様ならこの先の部屋に……」
女官が震えながら最奥を指す。紫釉は散らばる瓦礫を避けて廊下を進んだ。
黄禁が眠る部屋を閉ざしていた守衛は既にいない。
紫釉は近くにあった壺を手に取り、門の錠前に叩きつける。壺が砕けると同時に、錠が落ちた。
室内は澱んだ空気が滞留していた。寝台に死装束を纏ったままの男が横たわっている。
紫釉は弟の額を掌で叩いた。
「ひとが珍しく働いてるのにいつまで寝てんだよ、この馬鹿」
「兄上……?」
黄禁は目を開き、虚な笑みを浮かべた。
紫釉は黄禁に肩を貸し、裏門から殿を後にした。
周囲の屋根から細い煙が上がり、雪が水となり滴っていた。鋼の打ち合う音とくぐもった叫び声が聞こえる。
「化け物だらけかよ」
「黒の大魔を使っている奴がいるな。他にも……」
黄禁が紫釉の袖を引いた。言葉も交わさず、紫釉は弟を抱えて後方に跳躍する。彼のいた場所を蒼い炎が薙ぎ払った。
「今度は何だよ!」
不穏な羽ばたきが響き、屋根瓦が落下した。死臭を纏った化鳥が宮殿の上にいた。
「
妖魔は毛髪の絡んだ嘴で鳴く。
「知ってるだろうけど俺は今大魔を使えないぜ」
「兄上はもう充分働いた。普段からは想像がつかない。あとは俺がやる」
紫釉に肩を組む手を外され、黄禁はよろめきつつ何とか立ち直った。
「一言告げてから手を外してほしい」
「お前は一言余計なんだよ」
黄禁が片手を翳すと、降り注いだ火が俄に掻き消された。嘴が黄禁の肉を抉る寸前で止まり、化鳥が剥製の如く硬直する。
陰摩羅鬼は翼を広げたまま火に包まれ、灰と化した。
黄禁は眉根を寄せ、残炎の揺らぎを見た。
「本性を表したな」
視線の先には柳のように嫋やかな影がある。
「何のことかしら」
銀蓮は雪面と月の光を受けて笑んだ。
「紫釉様、咎人を解くのは大罪よ?」
「戯けるな。兄上もとうに存じている」
紫釉は表情を硬くする。銀蓮は静かに息を吐いた。瞳孔は温度のない蛇のように狭まっていた。
「案外しぶといのね。獄中で直ぐに儚くなるかと思っていたのに。だって、そんなお身体でしょう?」
「俺が何故こんなに痩せているか、教えてやろうか」
黄禁の唇から燐光に似た輝きが溢る。
「妖魔を出せるのがお前だけと思うなよ。黄の大魔は暴食を好む。来い、
光が膨れ、夜を塗り潰した。
稲穂のような毛に覆われた巨大な獣が、闇に沈む宮廷の庭を輝かせた。頭の双角は黄禁を守るが如く眼前の敵に向けられていた。
饕餮が哮る。その喉から怒濤の黒い妖気が溢れ出た。
身構えた銀蓮を擦り抜け、妖気は流星のように四方へ飛び散った。
「何をしたの?」
黄禁は大魔に手を触れる。
「俺が饕餮に食わせ、腹に隠した妖魔の数は百八。お前が呼んだ魔物どもを殺すには充分だ。そして、そのどれかひとつはお前の命に届くだろう」
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