四章:九、魑魅魍魎
「
無邪気な微笑みに、
「ずっと前から、貴方達が邪魔をしていたのね」
銀蓮は表情を打ち消した。
「そんな酷い方々は、
五感全てが掻き消されるような衝撃が走った。天地を揺らす雷撃に似た黄金の光が迸る。
銀蓮が片手を振るっただけで、宮殿の一角が倒壊した。その背後で無数の光が尾のように揺れていたた。
「マジかよ……」
身を逸らした紫釉の真横で雷光の鞭が爆ぜる。遅れて爆煙が巻き起こった。
光が貫通した壁は黒く燻る丸穴を描き、兵士の焦げた遺体が覗いていた。
「紫釉様、大魔を使えないのね?」
銀蓮が喉を鳴らして笑う。
「可笑しいわ、何故? 貴方は皇子ではないのかしら?」
「確かに皇子なんて願い下げだけどな!」
何条ものの電撃が紫釉を襲った。紙一重で回避する紫釉の髪が一房焦げ、煙を上げる。
「兄上!」
紫釉の前に飛び出した黄禁を庇うように饕餮が顎門を開いた。黄の大魔が螺旋の如く押し寄せた電光を呑み込んだ。獣の牙の間から黒煙が漏れる。
「本当に何でも食べるのね。でも、いつまで保つかしら」
宮殿の重みに耐えかねて傾いだ柱が自壊する。
天鵞絨の緞帳と竹細工の窓が崩れ落ち、隠れていた小さな影を露わにする。半分折れた柱に褐色の皇女が縋っていた。
「
「兄さん……黄禁様……」
紫玉は青ざめた顔で唇を震わせた。
「そんなに怯えないでちょうだい」
銀蓮は彼女に目を向け、獲物を痛ぶる猫のように微笑んだ。
「死を恐れることはないでしょう? だって、貴女はとうの昔に死んでいるはずだもの」
「何を言っているんですか……」
戸惑う紫玉に、紫釉と黄禁は顔を伏せた。
「母娘一緒に冥府に行けるように同じ毒を使ってあげたのよ。なのに、お母様だけが亡くなって、何故貴女は生きているのかしら?」
紫玉は愕然と目を見開き、上ずった声をあげた。
「やはり、母さんは病気じゃなかったんですね……貴女が……!」
「紫玉!」
飛び出しかけた妹を、紫釉が遮った。
「これで誰が敵かわかっただろ。俺たちも取り繕うのはやめにしようぜ」
紫釉の声に冷たい怒りが満ちていた。紫玉は頷き、崩れかけた宮殿から一歩踏み出す。
銀蓮が音もなく放った閃光を、黄禁の大魔が再び呑み込んだ。
「愚かだな。お前は先に気づくべきだったぞ。戦う術のない妹が戦地に踏み込んだならば、紫釉が止めぬはずはないだろう」
銀蓮の頰が引き攣った。紫玉は既に兄の傍にいた。渦のように流れる煙の中で紫釉は彼女の背に手を触れる。
「ごめんな、紫玉」
「いいの。私はそのためにいるんだから」
紫玉の褐色の肌が薄い光を帯びた。煤で汚れた衣に包まれた体が膨れ上がる。
「紫の大魔はただ力のみを好む。出ろ、
倒壊した宮殿も、雪が染める夜闇も埋め尽くすような巨獣が現れた。微かに紫を帯びた全身の毛を逆立てた虎がそこにいた。
「やれ!」
巨獣が跳ねる。それだけで地面が爆ぜ、石畳が陥没した。豪速の風が銀蓮に突進する。防御の構えを取った彼女の身体が纏った光ごと吹き飛んだ。
白亜の壁が激震し、瘡蓋を剥がすように屋根瓦が落ちる。紫の大魔は身を屈めて唸りを上げた。
狴犴は大魔の中で唯一炎や水などの権能を持たず、純粋な破壊力のみで九柱に名を連ねる。権力も戦力も好まない皇子が与えられた魔生がそれだった。
「狴犴……!」
瓦礫の間から身を起こした銀蓮が呻いた。額から黒い血が流れ落ちていた。
地を這った金の光を饕餮が踏み潰す。その背を蹴って跳躍した虎が瓦礫の中に飛び込んだ。土煙と轟音が起こった。
金属を引き裂くような悲鳴が上がった。粉塵から巨獣が上半身を現し、血に染まった頭を振るう。牙の間には引き千切られた女の腕が挟まっていた。
「紫玉、退け!」
煙幕の中から放たれた光が大魔の頭を掠める。虎は空中で旋回し、距離を取って着地した。落ちた腕が血飛沫を上げて、雪で染まった地面を汚す。
「貴方たち、そう……」
地の底から這い上がるような暗い声が響いた。鉄色の髪は解れ、衣を赤に染めた銀蓮が残る片腕で傷口を抑える。
「貪食の儀を行ったのね……死にかけの皇女に大魔を入れて命を繋いだ……!」
「皇帝の血を引く者ならば、できるぞ」
黄禁は視線を敵から逸らさずに答えた。
「何てひとたちなの、皆して妾を……」
銀蓮の瞳が歪んだ。泣き出しそうな子どものような目に皇子たちが一瞬戸惑う。
突風がうねりを打った。
銀蓮を包む光彩が瞬く間に天に昇り、雲を穿って消える。後には切断された腕と破壊の痕だけが残っていた。
「行かせるか!」
追いかけようとした黄禁の肩を紫釉が押し留めた。
「馬鹿、深追いするなよ。お前も限界だろ」
黄禁は己の下肢を見下ろした。獄中で萎えた脚が震え、剥がれかけた爪から血が滲んでいた。
「奴がこのまま逃げる訳ないだろ。探すついでに適当な所に加勢しようぜ。お前はそのデカブツに乗れよ」
饕餮が猫のように黄禁の背に頭を押しつける。その鼻先を撫でながら黄禁は微かに笑った。
「デカブツじゃないと怒っているぞ」
紫釉は呆れたような笑みを返した。
***
深々と降り積もる雪に紅梅の花弁に似た血が落ちる。
湿った足音を立てながら銀蓮は宮殿の壁に縋って進んだ。彼方此方で苦悶の声と戦闘の残響が響いていた。
綿雪を被った人影が現れたのを見留め、銀蓮は足を早めた。
「
翠春は血塗れの母を見て声を上げる。銀蓮は片腕で息子を抱きすくめた。
「妾の可愛い息子、今までどこに行っていたの?」
「母上、血が……腕、どうして……」
「紫釉様と黄禁様よ。ふたりして妾を殺そうとしたの。妾は怖くて逃げてきたの……」
翠春は青ざめる。傷口を塞ごうとした彼を制止し、銀蓮は涙を溜めた目を向けた。
「お願い、翠春。大魔を使って。このままでは殺されてしまうわ。魔物と一緒に彼らを閉じ込めて、封じ込めてしまいましょう。ふたりで生き残るにはそれしかないのよ」
長い睫毛に絡んだ涙が月光を帯びて妖しい光を放つ。翠春の蒼白な頬を生温かい血が濡らした。
「おれは……」
言葉を区切り、彼は下を向く。足元の血痕を雪が消していった。翠春は俯いたまま口を開いた。
「わかった」
銀蓮は口角を吊り上げた。
「いい子ね。翠春。貴方だけが妾の味方よ」
母の腕に絡め取られながら翠春は目を閉じる。
「緑の大魔は閉塞を好む。来てくれ、
空が翳った。
闇は皇子たちにも境なく降り注ぐ。宮廷の隅にいた紅運にはその余波が遅れて届いた。
「何だ、雲か……?」
「違えな。よく見ろ」
傍の
月も星も雪灯りも打ち消し、宮殿に影を落とすのは暗雲ではない。
それは皇帝の服喪の宴を行った夜、この場所を襲った悪夢に似ていた。空中に浮かぶ巨大な二枚貝の上殻が城に蓋をするように、ゆっくりと大地に迫っていた。
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