四章:十、修羅苦羅
「
「そう思いてえだろうが、ありゃあ第八皇子の大魔だぜ」
「宮殿を妖魔から守る要塞として呼んだ、訳はないか」
「諦めろ。奴はどう見たって妖魔ごと中の人間を閉じ込める気だ」
「
闇は濃くなり、貝殻の波打つ紋様も目視できるまでになっていた。
紅運は眉間に深く皺を寄せ、地上に視線を向けた。
「狻猊、乗せてくれ! 皆が避難するまで食い止める!」
「すっかり英雄ぶるようになったじゃねえか。俺はまたまた主を失いそうだ」
「今お前、初めて主と……」
言い切る前に、炎の獅子に変貌した狻猊が紅運の襟首を加えて空中に放り投げた。燃える毛皮に落下した紅運は何とか狻猊の首筋に縋る。
獅子の足が地を蹴って飛び立ち、周囲の景色が溶けた。
見下ろす王城は獣に食い破られた骸のように、其処彼処が欠け、穴から煙と炎が上がっている。
鎧の兵士たちが打ち合う激闘の中、官吏が皇妃や女官の手を引いて逃げるのが見えた。
それより異質なのは地を自在に這い回る黒煙だった。煙の渦は獣じみた輪郭を帯び、狂気に陥った兵を呑み込み、鎮圧していく。
「どうなってるんだ、魔物が同士討ちしているのか?」
紅運は戸惑いながら呟く。
「さあな。それより何処に向かう?」
垂れ込める闇は刻一刻と暗さを増し、貝の上殻が閉じられていく。
「とりあえず爆発のあった伏魔殿に……」
紅運の頬を雨の散弾が打った。
「何だ、攻撃か!」
見開いた目が暗雲を捉えた。黒い霞は稲妻を纏い、地表から湧き出たように眼下に満ちていた。
「あれは……?」
雲が撓む。巻き起こった暴風雨は道理に逆らい、地から天に向けて飛んだ。
嵐が上空から降りる貝を押し上げ、炸裂した稲妻が外殻を弾いて煙を起こした。
「やるじゃねえか、爺さん。いや、今は爺さんじゃねえか」
狻猊が低く笑う。紅運は弾かれたように身を乗り出した。
嵐の目の中に誰かがいる。荒れ狂う風に髪と道服の裾を遊ばせ、女は空に向けて犬歯を見せた。
「
紅運の声に応えるように、大雨大風が唸りを上げた。天から迫る魔と地から舞い上がる魔が衝突する。
巨大な質量が緑の大魔を凌いだように見えたが、貝はそれより強大な重みで徐々に圧倒していく。
「やはり大魔を止めなければ駄目か」
首筋にしがみつく紅運に狻猊が金眼を向ける。
「手っ取り早いのは主を殺すことだな。死なせなくとも意識を奪うか、自分の意思で止めさせるかのどっちかだ」
紅運は燃える毛を握りしめた。狻猊の言に己を試す意図がないことはわかっていた。
「それしかないのか……」
鼓膜を貫き、脳髄を揺らすような荘厳な音が響いた。
王宮全域に鳴り渡るのは全ての始まりと同じ銅鑼の響きだ。続いたのは、残響に掻き消されない涼やかな声だった。
「王宮におわす全ての者に告げます」
音の大魔の権能を被せた銅鑼が衆人のどよめきを拾った。
「何故、貴方が……」
「死地に赴いたのは、弟の
聞き慣れた声音に紅運は口角を吊り上げる。有事の際も変わらない凛然とした立ち姿すら想像できた。
「
「我らが龍久国に仇成し、第八皇子の大魔すらも利用する不遜の敵は恐るるに足らず。双子の見分けもつかぬ愚昧なり。これより奸賊の計を取り除く!」
確かな声音が宮廷に鳴り渡った。
「動ける兵は伏魔殿で戦う皇子たちの加勢を。官吏、女官は己が主人を連れて避難を。そして、緑の大魔を防ぐ術は我が手に有り」
白雄は悠々と告げる。
「貝を模した魔は二本の柱を削げば動きを止めます。柱は南北にあり。南の一柱はこれより私が。北の一柱は獄中から生えています。どうか、全霊を賭として排除を!」
紅運は狻猊の背に腹をつけた。
「牢獄に向かうぞ。あそこには
炎の獅子が彗星の如く駆け出した。
全身を打つ風雨の中を飛ぶ紅運の視界を巨影が塞いだ。
宮廷の南の大門の前にもうひとつの巨大な柱が聳え立っている。途切れ目のない壁のような支柱はざらついた表面をわずかに波打たせていた。
「あれが
紅運の声に狻猊が速度を落とす。目下に散らばる黒い帷子の兵士の中、一点の白が進み出た。
蛇矛を携え、胸を張って立つ姿は何ひとつ変わらない。
「白の大魔は重責を好む。宮殿の礎となる大役、耐えてみせなさい」
空中の紅運の髪を風が跳ね上げ、狻猊の炎が逆巻いた。
重力の壁が圧倒的な質量で地上から立ち上がる。透明な防壁が貝殻に衝突し、鋼を削るような轟音を上げた。
白雄の周囲の地面が陥没する。壁は揺らがない。巨大な貝の柱は内側からこじ開けられるが如く軋み、筋の組織が裂けて弾けた。
白雄は上空の影を見つめたまま微動だにしなかったが、一瞬視線を横に向けた。目と目を合わせた紅運は無言で頷く。
「こっちは任せよう。狻猊、早く牢へ!」
視界を塗り潰す嵐と不可視の壁が天と競り合う。攻防の残響すら消える速度で狻猊が再び駆け出した。
牢に近づくほど死闘の騒めきは遠くなり、兵や妖魔すらもまばらになった。
宮廷の影に沈む小さな石造りの地下牢へと続く道に、残雪だけが微かな灯りを反射していた。
その先に、楼閣の支柱よりも遥かに太い、禍々しく脈動する柱がある。
「降りてくれ、ここだ!」
狻猊が屋根瓦を蹴り、着地に備え四肢を広げた。炎に包まれた足が地を蹴る前に宮殿の壁を蹴って旋回する。
紅運の全身に重力の負荷がかかった。
「何のつもりだ!」
「見ろ」
石牢から距離を置いて着地した狻猊が、顎で先を示す。
「何だこれは……」
目を疑ったのは大魔の柱そのものではない。その根元に縋る無数の影だった。
焼け爛れた赤子のような異形の塊が枯木じみた腕で柱に縋っている。魔物どうしがもつれながら這い上がろうとするたび、脆い皮膚が剥がれ、毛髪や骨のようなものが露出した。
醜悪な光景に紅運は思わず口元を抑えた。
「これも大魔の力なのか? 」
「いや、違う。ずっと昔から仕込まれてた訳だ」
呻くように言った狻猊の口元から炎が漏れる。
「ありゃあ餓鬼だ。仕掛けを作るために牢の地中深く生き埋めにされた人間の怨霊だろ。奴らの飢えは際限なく魔力を食い尽すぜ」
「何てことを……」
「皇子どもが脱獄のひとつもできねえのは妙だと思ってたが、あれが獄中の奴の魔力を封じる仕掛けになってたみてえだな」
「じゃあ、青燕は……!」
紅運は歯軋りし、這い回る餓鬼の群れを睨む。
「狻猊、炎だ。魔物になった者は救えない」
「ああ、お前の兄貴のついでだ。奴らも解放してやろうぜ」
狻猊が吼えた。
赤光が全てを染め、炎熱が餓鬼を一瞬で灰燼に変える。魔物の残骸が風に散り、白雪に煤の黒が混じった。
陽炎がうねり、歪んだ景色が徐々に元に戻る。柱に縋る亡者の群れは変わらない。
「もう一度だ!」
再び炎が迸る。焼き払われた同胞の穴を埋めるように餓鬼たちが瞬く間に湧き出した。
「くそっ……」
紅運の胸に鈍痛が走った。体内を素手で抉られるような痛み。魔力が吸い取られるのを感じた。
紅運は襟元を握りしめた。
「青燕……!」
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