四章:十一、水火無情
僅か前の刻、獄中に微かな音が響いた。
闇に研ぎ澄まされた聴覚で音を拾った青燕は顔を上げる。
「誰……?」
守衛の答えはない。
檻に手をかけると何の抵抗もなく鍵が開いた。青燕は逡巡してから扉を押した。
ざらつく石畳が裸足の足裏を刺す。
「これくらい何だ……
上へ続く階段を踏み出そうとしたとき、天地を裏返すような震動が起こった。揺らぐ視界に地上と獄中を隔てる鉄格子の先に聳え立つ絶壁が映る。
「何だあれ……」
壁に縋る青燕の手元を不快なざわめきが撫でた。虫か鼠のように壁の亀裂から湧いた何かが出口を目指して駆ける。
「
大魔を呼んだ青燕の全身から力が抜ける。
「どうして……」
黒い亡者の群れは格子から這い出し、出現した柱の根元に吸いついた。あれを出してはいけないと直感で悟った。
青燕は錆びた檻を揺すった。抜け落ちた一本の鉄棒を拾い上げて振るう。
先端にぶつかった餓鬼の体が弾け、膿のような液体が飛び散った。飛沫が飛んだ腕が煙を上げる。青燕は痛みに呻いて傷口を抑えた。餓鬼たちは次々と牢を出て柱へと合流していく。
「あいつら、魔力を吸い上げるんだ……止めないと、もっとまずいことになる……」
青燕は闇雲に鉄棒を振り回した。餓鬼を砕くたび、濃酸のような飛沫が肌を焼く。
激痛に耐えながら魔物の群れを掻き分け、石段を登り切ったとき、声が聞こえた。
「青燕!」
檻の向こうに眩しい赤の光が走った。焦げる臭いと煤塵が牢に流れ込む。
「
再び爆音が轟いた。閃光と暴風が餓鬼の群れに呑まれて消える。青燕は鉄格子の間から身を乗り出したた。
「紅運、聞こえる?」
「そこにいるんだな!」
壁に阻まれて姿は見えないが、確かに弟の声がした。
「来ちゃ駄目だ! 近づいたら魔力を吸われる!」
「わかってる、今何とか……」
「牢獄ごと焼いてくれ。魔物は地中から出てるんだ。根こそぎ焼き払えば消せるかもしれない!」
「何言ってるんだ、それじゃお前まで……」
「いいんだよ」
青燕は檻を掴む手に力を込めた。ささくれた鉄が掌に刺さり、爛れた手の皮に血が滲んだ。
「君と
絶え間ない爆音の合間に紅運の荒い息遣いが聞こえた。
「見捨てる訳ないだろ。お前はいつだって俺たちを助けてくれたのに……」
声には疲労と苦痛が滲んでいた。
「ごめんね、紅運」
青燕は深く息を吸い、呼気と共に吐き出した。
「ああ、もう……うざったいな」
紅運の息が微かに跳ねたのがわかった。
「いい加減にしろよ。お前なんかが全員助けられるはずないじゃないか」
「何を、言ってるんだ……」
「無能な第九皇子が僕を気遣うのが気に入らないって言ってるんだよ!」
青燕は悶える亡者の群れを見据えた。
「ずっと見下してた。気づかなかったの?優しくしておけば何か得があるかと思ってただけなのに、調子に乗って…………打算がなきゃお前に声なんかかけるはずないじゃないか。もう付き纏うのはやめろよ。本当に……嫌いだったよ、紅運」
音が止んだ。宮廷を軋ませる破壊の残響だけが鼓膜を舐る。
「わかった……ずっと騙してたんだな」
紅運が静かに答えた。
「うん、それでいいんだ……もう僕に構わないで……」
青燕は血に濡れた手で目尻を拭った。
「母上、僕は悪人になれたかな」
握った鉄格子が仄かな熱を帯びる。青燕は目を瞑った。
「お前みたいな非道い奴の言うことはもう聞かない。俺の好きにする」
鋭い声に青燕は目を見開く。鋼鉄の檻が飴細工のように歪んだ。
「退がってろ、青燕。本当に巻き込むぞ!」
豪雷の如き熱と光が弾けた。青燕は思わず飛び退る。
一瞬で充満した煙が黒風に浚われた。砕け散った檻の残骸が広がっている。呆然と立ち尽くす青燕の前で、炭の欠片じみた鉄格子が残り火で赤く染まっていた。
「檻だけ溶かせなんて面倒な命令しやがる。お前もズタボロだってのに」
煙幕の向こうで炎の獅子が煩わしげに呟く。霧散した餓鬼たちが集合しようとするたび、高熱で溶けていく。紅運は狻猊の背に縋りながらふらつく脚で青燕に近づいた。
「お前でも苦手なことがあるんだな」
髪と衣を汗で張りつかせながら紅運は不遜に笑って見せた。
「猿以下の芝居だった」
青燕は牢から踏み出し、爛れた手を伸ばす。
「ごめんね……」
「何が、あんな下手な嘘で騙せると思ったことか?」
紅運はその手を握り返した。青燕は泣き出しそうに微笑んだ。
「お前の言った通り、牢獄を灰にする。その熱が冷めないうちに青燕の大魔を使ってくれ。加熱と冷却を一度に行うとどんな物も脆くなると聞いたことがある。あの柱も崩せるかもしれない」
紅運は巨大な支柱と群れなす魔物を睨んでから歯を見せた。
「火と水が揃えば最強、だろ?」
「ああ!」
青燕は力強く首肯を返した。
狻猊が前肢を一歩引く。
餓鬼たちは奇怪な溶岩のように柱に連なっていた。
紅運は痛む胸を抑え、呼吸を整える。
「狻猊、この牢ごと亡者の群れを焼き払え!」
業火が地から湧き上がり天を突いた。石牢の隙間から猛煙が噴き上がる。爆破の余波が全ての餓鬼を灰に変えた。
「青の大魔の権能は水、力を貸してくれ!」
青燕が叫び、怒涛の波がとぐろを巻いて柱を包んだ。炎に次いで大水を浴びた柱に罅が入る。
巨壁じみた大魔の支柱が石灰のように脆く崩れ落ちた。
雪と見分けのつかない破片が舞い散り、紅運と青燕は視線を交わした。
「青燕、まだ動けるか?」
「そっちこそ」
汗に塗れた皇子たちは疲れ果てた顔で笑みを繕った。
「伏魔殿に向かおう。全部終わらせるんだ!」
ふたりは各々の大魔に乗って宮廷を駆け抜けた。
風の中で雪の白と煙の黒がせめぎ合う。多方から現れる魑魅魍魎を凌ぐ黄禁の妖魔の攻防も激しさを増していた。
針のような細雪に目を細め、紅運は滲む朱塗りの楼門を見据えた。
「もうすぐだ!」
大魔が石段を蹴り、伏魔殿への道を駆け上がった。
最後の一段を越え、紅運と青燕は地上に降り立つ。
「兄さんたち、無事かい!」
地に膝をついた
彼らの前に地上の月のように輝く鱗を持った金色の異形がいる。そして、ふたりを背に庇って立つ女がいた。
「
紅運は声を上げる。
「お前も上手くやったみてえだな。支援した甲斐があった」
「大聖、この女が……?」
驚嘆する橙志に大聖は犬歯を覗かせて笑った。
不老不死の仙人とは結びつきようもない女が、指先ひとつで魔生を抑えている。彼女が現れた途端、黄金の獣は網にかかったように動きを止めたのを橙志は目の当たりにしていた。
「何故、泰山の神仙が此処に?」
藍栄は弓に矢をつがえたまま問う。鏃の先は大聖と魔物の間を彷徨った。
「やり残してたことをやりに来た。大昔の馬鹿弟子がひとりで背負っちまったことをな」
彼女は首を傾げて見せた。視線の先の狻猊が尾を引くような唸りを返した。
金の魔物が鋭い爪で石畳を掻く。羅真大聖は手を翳した。
「いいか、俺の身体は泰山にある。加えて、必要な条件が少し足りてねえ。だから、この術は不完全だ」
彼女の足元の小石が真っ二つに割れた。閃光が線状に走り、空間を隔絶するように不可視の壁を作る。魔物が歯を打ち鳴らし、怨嗟の声を上げた。
「後の一手はお前にかかってるんだぜ、紅運」
「どういうことだ……?」
羅真大聖は答えず、指先で印を結んだ。屈折した光が九つの角を描く。
獣の鱗より遥かに強い光芒が、白昼の如く闇を照らした。
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