四章:十二、凋零磨滅

 九角の陣が黄金の獣を更に眩い光で包み込む。

 紅運こううんは顔を衣の袖で覆った。

 光条が収束する。国を平らげた皇帝たる魔物が光彩に呑まれ、消えた。


 光に焼かれた目を冷ますような暗闇が染み渡り、静寂が満ちる。辺りには瓦礫の残骸と、石段に獣の爪が付けた五本の痕が残っているだけだった。

「消えた……?」


 紅運は目を見張る。他の皇子たちも声を失って奇跡の跡を見つめていた。

 羅真らしん大聖たいせいはくたびれたように肩を回した。

「こんなのは間に合わせだぜ。いつ破られるかわからねえ。だが、目下の問題を片付けるには––––」


 彼女の顔の右半面が傾いた。ふたつに裂いた紙をずらしたような奇妙なずれ方だった。

「羅真大聖!」

 紅運が叫ぶ。大聖の半身が血の一滴も流さふずにずり落ちた。

「くそっ……来たか! 紅運、忘れるなよ。陣の完成はお前次第だ。皇子はまだ……」

 女の身体が風に散り、千々に裂けた紙の人形が宙を漂った。黄金の爪が閃いた。



「相変わらず嫌な御老人ね。今は御老体ではないようだけれど」

 藍栄らんえい橙志とうしが咄嗟に武器を構える。千切れた腕の付け根から光の爪を蠢かせ、りゅう銀蓮ぎんれんは艶然と笑った。


「龍皇貴妃……」

 青燕せいえんが唇を震わせる。

「これは……後宮の華があんまりな姿じゃないかな」

 軽薄な笑みを浮かべる藍栄は既につがえた弓を銀蓮に向けていた。彼女はただ微笑みを返した。

「あんたが……」

 紅運が言いかけた言葉を銅鑼の音が遮った。


「王宮全域に告ぎます!」

 白雄はくゆうの声が空気を震動させる。

「此度の下手人は龍銀蓮。かのは最早皇貴妃に非ず。大胆不敵の賊徒なり。亡き皇帝に忠義を誓う者ならば疾く打ち倒しなさい!」

「聞こえるか、兄弟。奴は俺たち殆どのお袋の仇だ。遠慮はいらないぜ」

「この際忠臣でなくても母を殺されていなくても頑張ってほしい」

 紫釉しゆう黄禁おうきんの声が重なった。



 皇子たちは改めて眼前の敵を見た。国全てを敵に回した女は、柳のような痩躯を微かに曲げた。


「非道いことを仰るわ、陛下もお悲しみになるでしょうに……」

「抜かすな、国父が賊に垂れる憐憫はない」

 橙志が剣の鋒を向けた。銀蓮はひとの形を保った片手を頬に当てる。


「こんな国要らないわ。一度壊して造り変えないと。妾の味方が誰ひとりもいないんですもの」

翠春すいしゅんは?」

 青燕が細い声で言った。紅運の制止を振り切り、彼は前に進み出た。

「翠春は貴女を一番に考えてるよ。自分の望みも押し殺して、本当はしたくないことだってして……」

「翠春?」

 冷え切った鋼を叩いたような、表情のない声だった。

「そんな子もいたわね」


 眼球から脳の芯まで貫くような衝撃が走った。

 音と光の波濤が全てを塗り潰す。

 五感が麻痺する中、紅運が認知できたのは唯一狻猊さんげいに襟首を掴まれたことだけだった。



 視界が回転し、身を切るような冷気が脳を冷却する。

 紅運の前に渦巻く星と雲海があった。衝撃の余波が届く前に空中に退避した狻猊は、炎の推進力のみで飛行していた。


「皆は!?」

「皇子どもは全員回避した」

 紅運の眼下に広がる墓楼に一条の線ができていた。巨人が悪戯に指でなぞったように楼門も石段も境なく破砕されている。


「それより向こうがまずいぜ。ついにやりやがった」

 紅運は伏魔殿から宮廷に視線を移し、息を呑んだ。



 黄金の炎が闇を焼いて駆ける。

 それだけで、皇族が暮らす内廷の一角が消失した。悲鳴も音響も、黒煙すら上げさせず、瞬く間に雷光が平らげていく。


 大路から駆けつけた禁軍の一衛が火砲を構えた。水面に小石を投げ込むように金の軌道が跳ねた。

 地上に触れた光が炸裂し、兵士たちを光の爆弾で散らす。血肉は一瞬で蒸発し、焼け焦げて潰れた火砲が石畳に張りつく。遅れて爆音が轟いた。


「滅茶苦茶だ……」

 紅運は呆然と呟く。

 鱗粉のような火の粉が雪に歯向かうように地上から空へ舞い上がった。乾いた空気に触れた火の欠片が擦れ合い、燎火となって膨れ上がる。禍々しい光彩が宮廷を見下ろす影を映し出した。


 財と栄華の結晶たる宮廷を高みから見下ろし、塵芥のように焼き捨てるのは、月や日輪よりも煌々と輝く黄金の龍だった。



 紅運は灰塵と化す王宮を見下ろした。

 かつて戦った幻影の竜はあれより遥かに小さかった。滅国の予兆の炎もあれほどの破壊力を持っていなかった。今までの戦いは、兄たちならば勝てると思えた。

「あんなもの……どうすれば……」


 打ち上げられた銀の軌道が、夜闇を垂直に穿った。

 黄金の龍の瞼を掠めた一矢は稲妻の狙いを僅かに逸らした。逃げ惑う女官たちのすぐ脇を炎が走り、楼閣が崩壊する。


「藍栄の矢だ」

 紅運は拳を握りしめた。

「宮廷に向かえ。皆がまだ戦ってる!」

 狻猊は諧謔のひとつも漏らさなかった。炎の獅子は紅運を乗せて跳んだ。



 乱舞する銀矢が篝火のように紅運を導く。

 合間を縫って空中を蛇行する狻猊が地上を睨んで加速した。着地の衝撃が地を削り、熱で溶けた石畳が歪む。

 紅運は素早く周囲を見回した。


 橙志が指揮する兵士が焦げた盾を構え、大路を逃げる者たちを守護していた。

 傍の藍栄は盾の柵の間から上空へ向けて矢を放っている。

 少し離れた場所で白雄が大魔を使役し、絶えず崩落する瓦礫を要塞の如く連ねていた。電撃は間断なく降り注ぐ。


「加勢するぞ、白雄!」

 狻猊が白亜を蹴立てて駆け抜ける。重壁の如き向かい風の圧力に耐えながら紅運は銅剣を突き出した。

 切っ先から巻き起こった炎が雷光と衝突し、爆発する。

 粉塵が屋根瓦を捲り上げて散らしたが、巻き込まれたものはいない。


「感謝します、紅運」

 瓦が宙で陣形を作り、次いだ稲妻を弾いた。何世紀も宮殿を守り続けた重厚な瓦が跡形もなく融解する。


 空気が爆ぜ、地上に落ちた雷が炸裂せず、鞭のように地を這った。

 波状の光は蛇の如く畝り、兵士たちの中央を目指す。

「橙志!」

 紅運の声に反応するより早く、電光は橙志の足元に迫っていた。


 至近距離で放たれた矢が稲妻の蛇の頭を潰し、地面が炎を噴き上げる。

「間一髪、だったかな」

 割って入った藍栄が袖に浴びた火の粉を払い、弓弦を震わせた。橙志が目を剥く。

「剣士の前に出る弓兵がいるか!」

「弟を庇わない兄がいるかよ」


 橙志の歯軋りと藍栄の微笑が爆音の中でも聞こえ、紅運は口角を吊り上げる。 


 屋根をふたつの影が飛び越え、大魔に乗った紫釉と黄禁が降り立った。

「前言撤回だ。こんなの逃げるしかないぜ」

 肩を竦める紫釉に黄禁が眉を下げる。

「早すぎるのでは」


 雷の鳴り渡る空から滂沱の雨が降り注いだ。雫は即座に蒸発し、水蒸気が曇らせた周囲を新たな光が撃ち抜いた。

 到着した青燕が唇を噛む。

「これじゃ足りない。空気が乾燥しすぎてるんだ……」

「悪戦は承知です。範囲が広すぎる。せめて敵の攻撃を一手に絞れればいいのですが……」

 白雄が表情を曇らせたとき、黒煙燻る大路の角から少年が現れた。



「母上……」

 翠春は虚な目で空を仰ぎ見た。兄弟が口を噤む中、青燕が彼に駆け寄った。

「翠春、しっかりするんだ。そこに立ってたら殺される」

 翠春は譫言のやつに繰り返した。

「おれは、死んだ方がいいよ。母上もみんなも傷つけて、何の役にも立てなくて……」

 悲痛な声に紅運は目を背ける。


「役に立たなきゃいらないなんて、道具と一緒じゃないか!」

 翠春は弾かれたように顔を上げた。兄の青い瞳が彼を見据えていた。

「僕の牢の鍵を開けてくれたのは君だろ?」

「兄さん、おれは……」

「翠春は自分で動けるんだよ。それで間違ったら僕たちが叱る。そのための兄弟じゃないか」


 魔と魔の攻防は間断なく続いている。翠春は薄く目を閉じ、開けた。

「ごめん……母上の理想の場所には一緒に行けない。その代わり、同じ地獄に行くから」


 長い前髪に覆われた瞳を上げ、翠春は龍を見た。

「攻撃の範囲を限定できればいいんだよね」

 彼の声から気弱さは消えていた。

「緑の大魔は閉塞を好む。椒図しょうず、母上を止めてくれ」


 紅蓮の空が暗く翳った。

 現れた巨大な二枚貝は先刻よりも迷いなく、滅びの龍を閉じ込めるために殻を閉じていく。

 輝く上殻に頭を押さえられた龍が憤怒の咆哮を上げた。


「これが最後の決戦です」

 静かに告げる白雄の声は微かに震えていた。

「青燕は消火のため残ってください。紫釉も。貴方ならば官吏との連携も容易いでしょう」

「楽していいのはありがたいけど、死ぬなよ」

 白雄は完璧な微笑を作り、首肯を返した。

「後の者は椒図の中へ、我らで邪竜を討ち滅ぼします!」


 貝の大魔が宮殿ごと圧砕し全てを包み込む。

 藍栄と橙志が真っ先に内側へ飛び込んだ。白雄が続いて地を蹴る。



 踏み出した翠春は急に転倒した。彼は膝をつき、自分の肩を弾いた男を見上げた。

「黄禁兄さん……どうして……」

「皇子が死ねば大魔は消える。お前にはここで踏ん張る方がいい。それに」

 黄禁は目を細めた。

「母が死ぬのを見るのは辛いぞ」

 道服の裾を翻し、黄禁は中に消えた。


「俺たちも行くぞ」

 紅運は狻猊の背に腹をつけた。

「お前の前の主の因縁もここで終わりだ!」

 上殻は最早地面に触れるほどに近づいている。

 彗星の如く加速した狻猊が滑り込み、貝は閉塞した。

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