四章:十三、絶体絶命

 薫香が紅運こううんを包んだ。


「ここは……」

 魔物の体内とは思えない神聖な光景が広がっていた。薄霧の向こうに墨色の楼閣が連なり、隙間に桃の花が咲いていた。

 水墨画の中の宮殿のような光景に紅運は溜息をつく。


「これは、翠春すいしゅんの描いた世界なのか?」

「感傷に浸ってる暇はねえぞ」

 狻猊さんげいが首をもたげる。

 爆破の残響が聞こえた。遠くが仄かに発光している。楼閣の一部から放たれた赤光を霧が乱反射した。

「向こうで戦闘が起こってるんだ。急ごう」

 狻猊は紅運を乗せて飛び立った。



 爆音が近くなる。目下の屋根瓦が裂け、突出した閃光が雲海を焼き払った。

 砕けた屋根の隙間から黄金の川が覗いた。水面は波のひとつひとつが蠢き、濁流のように流れている。巨大な龍の背だった。



「降りるぞ!」

 狻猊は地上に墜ちる星のように加速する。

 乱れる視界を光熱が灼いた。着地の寸前、横一文字に薙ぎ払われた光の刃が紅運の額を掠めた。無作為に乱射される光線を狻猊が旋回して避ける。空中での回避は遅い。

 花開いた無数の光に呑まれかけたとき、紅運の全身を重力が襲った。不自然な速度で急降下した狻猊が五体を地につける。狙いを外した光線が空中で爆発した。


「動けますか、紅運!」

 狻猊の不機嫌な視線の先で蛇矛が閃いた。重力負荷による緊急回避。紅運を庇うように立つ白雄はくゆうは相変わらず汗ひとつかいていない。


「助かった!」

 紅運は体勢を立て直した狻猊の上で気丈な声を繕った。墨色の宮内は既に半壊していた。

 燃える天蓋を藍栄らんえいの銀矢が駆ける。黄禁おうきんが手をついた床板から湧き上がった骸骨の群れが光線の盾となり、無惨に弾ける。死闘は息つく間もなく続いている。



 橙志とうしが連れる鈍色の竜が波状の音圧で炎を掻き消した。紅運が命じるより早く狻猊が地を蹴り、橙志の背後へ身をつけた。

「橙志、戦況は今どうなってる!?」

「龍の攻撃は威力も範囲も落ちている。だが、俺たちの大魔もだ」


 漆黒の天蓋が震動する。地鳴りに似たくぐもった響きに甲高い声が混じった。

「愚かなひとたち」

 黒煙の中で龍が嗤った。口元から赤い口腔が覗く。

「大魔は妾の子よ。力の根源は龍脈なの。妾を抑えようとすれば貴方たちの大魔の力も弱くなるの」

「九子全てに歯向かわれるとは、余程酷い母だったのだな」

 皮肉を返す黄禁の額から汗が滴った。彼を狙った閃光を、白雄が弾いた瓦礫の断片が防ぐ。



「大魔は人間に与する同胞ですが、力の源は妖魔と同じ。しかし、黄禁の道術は違う。それは妖魔に対抗すべく生まれた力だからです」

 白雄は蛇矛の柄で割れた床を打った。

「私と藍栄で足止めをします。橙志、紅運、黄禁の術が整うまで持たせてください」

 紅運は首肯を返す。

「わかった、囮は任せろ」

 橙志は無言で末弟と視線を交わした。


 紅運を乗せて駆け出した狻猊を金の光条が追う。

 破砕された壁が落下し、床板に突き刺さった。瓦礫の合間を縫って、無数の矢が放たれる。

 重力を乗せて作った防壁は藍栄の射撃を合わせて攻城兵器と化した。


 紅運は狻猊の首にしがみつき、ひたすら駆ける。雷撃が間近に落下し、地を焼いた。細かな破片が肌を打つのも構わず紅運は前方を睨んだ。煙幕の先に黄金の河が見える。


「狻猊!」

 獅子が吼え、濃縮された炎が龍の腹を穿った。金貨のような鱗が散り、緑の眼が紅運を捉える。

「回避しろ!」

 旋回した狻猊が足場にしかけた壁が電撃で砕かれ、燃える踵が宙を掻く。反転する紅運の視界に雷雲の如く光を纏う煙の膜が映った。豪雷が放たれた。


 雷鳴を掻き消すほどの轟音が響き、紅運の聴覚から一瞬音が消える。

 地上から発射された音波の砲弾が稲妻を相殺した。釣鐘じみた橙の大魔が喉を震わせ、着地した狻猊の横に並ぶ。


「助かった!」

「油断するな」

 橙志は眉間に皺を寄せ、憮然と答えた。金の龍の呻きが地を揺らす。

「乱暴な方ね……数多の皇子を見てきたけれど、貴方のような野蛮な者は初めてよ」

「奇遇だな。俺も多くの貴妃や皇女を見てきたが、お前のような毒婦は初めてだ」


 哄笑が雷鳴に変わった。垂直に降り注いだ光が地表で爆ぜる。狻猊と橙志が同時に跳躍した。

 畝る電光が波状に壁を走り、下半分を残して爆砕する。狻猊が宙の瓦礫を爪で掴んで更に跳躍した。


 炎が雷と衝突し、打ち消し合う。漏れた電撃を下からの音の壁が掻き消した。爆音が絶えず続く中、雷の摩擦で起こった火が地上を焼き始めた。



 高速の移動を続けていても感じる熱風に紅運は顔を顰めた。

 ––––戦況はほぼ膠着状態だ。だが、本当か? 銀蓮ぎんれんは狡猾だ。何か企んでいるのでは?


 呼吸の苦しさと肌に纏わりつく熱気が紅運を苛む。主に影響を及ぼさない狻猊の炎では起こらない弊害だ。額から滴る汗が視界を奪い、紅運は目を擦る。


「まさか……!」

 幾重もの赤い暖簾のように揺れる炎を雷が裂いた。矢の軌道が龍を大きく逸れて飛んでいく。

 ––––大魔は皆、龍の子だ。龍はその権能を把握している。

 煙に燻された喉を震わせ、紅運は叫んだ。

「気をつけろ、狙いは藍栄だ!」



 一際激しい雷撃が地表を貫いた。

 橙志が上体を捻って剣を跳ね上げる。光の奔流は音よりも速い。白雄が築いた瓦礫の要塞が一瞬で押し潰された。紅運の赤に染まった視界が白に塗り替えられる。次いで爆音が轟き、宮殿を破砕した。


 黒曜の床が乾いた土のように捲れ上がり、紅運の身体が爆風に煽られる。煙で目を開けることも叶わない。

 煙幕から飛来した瓦礫が腕を打ち、思わず狻猊に縋る手を離す。宙に投げ出された紅運を風圧が荒波の如く押し流した。



 炎が燻る音がする。

 瓦礫の山の上に落下した紅運は、全身の鈍痛を堪えながら目を開いた。融解した床が墨汁のように流れ、熱気で泡立っていた。

 ––––くそ、火で雷の軌道を隠したんだ。その上、俺たちの視界を奪って、矢を打ち損ねた藍栄の場所を探っていた。


 痛む身体を無理に起こすと、か細い息が聞こえた。血と汗で曇った目が傍で倒れる影を捉えた。

「橙志!」

 うつ伏せに倒れた橙志の鎧は雷撃で破れ、端々から煙を上げていた。

 助け起こすと、紅運の手が赤く濡れた。夥しい血が橙志の顔面を染めている。額からの流血は右目があるはずの眼窩の空洞に溜まり、湖水のように紅運の顔を映していた。


「そんな……」

 興奮状態で忘れていた恐怖が背筋を這い上がった。橙志の体温が抜け落ちるように生温かい血が流れ続けている。

「考えろ、どうすればいい……」

 無意識に口元を覆った手から鉄錆の匂いが濃く立ち上る。狻猊が紅運の傍に降り立った。


「このままじゃ死ぬな。目が完全に潰れてやがるし、頭からの出血も酷え」

 何度も試すような視線を向けてきた金眼は真っ直ぐに紅運を見据えていた。

「最初に会ったときを思い出せよ。お前は宮殿を捨てて人命を選んだ。今はどうすればいい」

 紅運は血を塗りたくった己の頬に触れた。


「目と額の傷さえ塞げれば……」

 狻猊が喉を鳴らす。紅運は橙志の身体を揺すった。

「少し我慢してくれ、焼いて止血する!」

 橙志が微かに首肯を返した。

 狻猊が進み出、前脚を潰れた右目に押し当てる。肉の焦げる匂いと細い煙が上がった。橙志が呻き、唇に血の雫が玉を作る。紅運は祈るように目を伏せた。


 狻猊が身を引いた。

「これで命だけは助かるだろ」

「ありがとう、助かった」

 狻猊は肩を竦めるように燃える毛を震わせた。

「そうだ、他の皆は……」

 破壊の痕の先には残火と煙が燻っている。紅運は橙志の脈を確かめてから、瓦礫の山を乗り越えた。



 泡立つ床に白雄が膝をついていた。杖代わりに縋る蛇矛は罅が入り、白い衣は焦げついていた。彼が見上げる上空に黄金の影がある。


 竜は無防備な皇子を見下ろし、五本の爪を弾いた。

 藍栄が地上に放り出され、砕けた矢筒が遅れて転がる。浅い呼吸を繰り返す彼の藍色の袍は爪跡で裂けていた。

「厄介な弓兵は消えたわ。双子は死に顔も同じかしら?」


「藍栄……」

 白雄は呆然と片割れを見つめていた。

「白雄、しっかりしてくれ!」

 紅運が肩を掴んでも反応はない。竜の喉が鈍く輝き、とどめの雷撃に備える。


「くそっ……狻猊、俺たちだけでも」

 紅運が銅剣を構えた瞬間、竜に光の網が絡みついた。緑の瞳が嫌悪に見開かれる。清廉な光条は羅真大聖の術に似ていた。


「黄禁!」

 紅運に応えるように九角の光芒が範囲を狭めていく。弟の奮闘で我に返った白雄が片膝で立ち上がった。彼が蛇矛を握ったとき、竜が吼えた。


 怒りに任せて放たれた閃光は無造作に地を抉った。爆風が紅運と白雄に迫る。粉塵が目の前に広がり、全身に強い衝撃が走った。 



 紅運の左右を暗闇が流れる。何枚もの壁を破って水平に弾き飛ばされた紅運の身体を縦の重力が襲った。受身を取る間もなく地面に叩きつけられる。


 紅運が身を起こすと、途方もない闇が広がっていた。

 上方に波のような光の線が一筋走っていた。目を凝らすと、炎に包まれた真紅の宮殿が見える。

 椒図の結界がそこだけ破れ、現実の光景が覗いているらしい。


 紅運は辺りを見回した。狻猊が鳴き声で応える。

「白雄は?」

 あれほどの衝撃を受けて無事なのは白の大魔が防護したに違いない。闇の中でも煌々と輝く狻猊が灯火となって、奥に佇む影を映した。


「無事だったんだな!」

 紅運は駆け寄って白雄の顔を覗き込む。瞳は虚で、乾いた唇は震えていた。

「白雄……」

「もう、駄目だ……」

 返った声は、今まで聞いたことのない弱々しい響きだった。

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