四章:十四、群雄割拠

 紅運こううんは声を失って長兄を見下ろした。


白雄はくゆう……?」

 彼は顔を覆った。

「もう終わりだ。二百年も何事もなかったのに、何故私の代で……」

 上ずった声に普段の朗々たる響きは欠片もなかった。髪が乱れるのにも構わず白雄は頭を掻き毟る。


「皇太子が双子だから不吉なことが起こると、ずっと言われてきた。それでも必死でやってきたのに。本当は藍栄らんえいの方がずっと相応しいとわかっていたけれど、辞められなかった。私にはこれ以外何もないから!」

 唖然とするばかりの紅運に、白雄は手を下ろし力なく微笑んだ。


「軽蔑しましたか? これが本当の私です」

 溶け出した煤で黒ずんだ顔の、卑屈な笑みだった。

「本当は何もかも人並みでしかない。どうとでも取れる警句を弄して問題を見送り、賢い振りをした。学は翠春すいしゅんに遠く及ばない。政の才も黒勝こくしょう紫釉しゆうの方がある。橙志とうしとの試合も大魔の力を使って互角に見せていただけです」

「それでも、あんたは皇太子として完璧だったじゃないか。父が死んだ日の夜だって真っ先に……」

 白雄は首を振った。


「あの夜、真っ先に気づけたのは怖くて眠れなかったからです。黄禁に呪術を使われたら? 橙志や大魔の活用が上手い青燕に闇討ちされたら? 勝てる訳がない。そうされない自信もありませんでした。私には弟たちを信じる善心すらないのだから」



 闇が質量を持ったような重い沈黙が降った。黒暗を押し殺した嗚咽と煙だけが流れる。

 紅運は皇太子の震える肩に手を伸ばしかけてやめた。

「一番遠いと思ってたあんたが、あの夜俺と同じことを言ってたんだな……」

 白雄が僅かに顔を上げた。


「俺からしたら完璧を演じられるあんたは充分何かを持ってるひとに思えるけど、やっぱり同じだ。俺は無能だから、宮廷にいるために何かがほしかった。皇位でも才能でも何でもよかったんだ。でも、それじゃ駄目だ」

 紅運は視線を下げた。


狻猊さんげいの昔の主が同じことを言って、独りで死んでしまったから……何も持たなくても生きてていいと証明したい。そのために生きて帰らなきゃいけないし、帰るために敵を倒さないと」

 狻猊が低く喉を鳴らす。暗闇に細かな火の粉が鱗粉のように舞い、仄明かりを散らした。



「白雄。逃げても、逃げるのをやめてもいい。でも、生きて帰らなきゃどっちもできないんだ」

「もう私たちが帰る場所は……」

 白雄が掠れた声を漏らした。

 遥か高みから射す光は、燃え盛る宮殿の赤を写している。現の世界を見せる亀裂から聞き慣れた声が微かに漏れ聞こえた。



 ***



 紫紺の光を帯びた虎が、暗雲のような妖魔の群れを爪で切り裂く。


「いいぞ。遠慮なくやっちまえ。宮中の奴らの避難はどうなってる!」

 紫釉が虎の上から声を張り上げた。散開する兵士が魔物と斬り結びながら叫ぶ。


按察司の馬車が先刻王宮を発ちました。江妃こうひ殿下と直属の女官、並びに紅運殿下の乳母も同乗なさっています!」

「よし、その調子だ。親父の愛馬も使え。死んだら名馬もクソもないからな!」



 漆喰塗りの蔵の後ろから黒い霧が蠢いた。

 犬に似た妖魔が現れ、逃げる女官たちに飛びかかる。

「くそっ、あっちに行ったぞ!」

 紫釉の声に兵が反応するより早く、黒光りする巨体が踊りかかった。甲高い悲鳴が上がる。

 空中で閃いた刃が魔犬の腹を横一線に薙ぎ払った。弾かれた妖魔が蔵に衝突し、霧散する。


「何たる醜態。女子とは言え宮に仕えるなら主を守る術くらい持たずどうします」

 火の粉と煤を細い青龍刀で払い、香橙こうとうが憮然と眉を顰めた。


「流石橙志の姉だ。妖魔よりおっかない」

 紫釉は歯を見せると大魔に乗って宮殿の屋根へ駆け上がった。



 香橙は地上を見遣り、陽炎の揺らめく大路に躊躇いなく踏み出した。

「お前たち、火砲の準備はまだなのですか!」

 駆け寄った兵が彼女の傍を守りながら答える。

「恐れながら、先の戦いで大半が故障しております。これ以上許可なく使うことは……」

「ならば、左将軍の権力に溺れた妻が独断で使ったことにしなさい。それならば私個人の咎で済むでしょう!」


「それは困る。妻に責を負わせるなど面目が丸潰れだ」

 大路に並べた火砲の前で、豊かな髭を蓄えた将軍が豪快に頷く。

「貴方」

 香橙は眉間の皺を打ち消し、彼に肩を並べた。


「妖魔どもを蹴散らしたいところだが、あの貝の中の皇子に響いたらと思うと難しいのう」

「大魔の中の皇子たちは殻で守られているのでしょう。配慮は要りません。橙志も火砲如きにやられる鍛え方はしていませんから」

「弟君は案じておらん。だが、中には藍栄殿下もいるぞ」

「それが何か」


 左将軍は髭面に似合わない繊細な笑みを浮かべた。

「彼は御前の最初の想い人ではなかったかな」

「それが何ですか。最後の御人は貴方でしょう。余計な気を揉まず、やればいいのです。私が死ぬときまで貴方の側にいるのですから、顔に似合わぬ杞憂はおやめなさい」

 平然と答える香橙に降参するように手を挙げ、左将軍は火砲に向き直った。


「とはいえ、儂もこれの扱いには慣れておらん。詳しい者がいればいいのだが」

「僭越ながら、私は実戦で扱ったことがございます」

 名乗り出たのは橙志の部下、王禄おうろくだった。彼は火傷の残る腕で砲弾を積み上げ、砲口を宙に向ける。

「必ずこの危機を乗り越え、皆様にも戻って来てもらわねばなりません。私はまだ師範から罰を受けていないのですから」

 砲声が轟いた。



 幾多の楼閣を乗り越えて着弾した火薬が爆裂し、魔物の群れを一瞬で灰に変える。

 青燕は煙幕に噎せ返りながら余波で崩れた建物を見上げた。


「兄さん、大丈夫?」

 青い顔の翠春が彼の肩を支えた。

「僕は大丈夫。でも、消火が間に合わない……!」

 青燕は胸を押さえた。傍の大魚は絶えず水を渦巻かせていたが、炎はそれより早く赤い手で宮殿を撫でていく。


「空気が乾燥すぎてるんだ。せめてもう少し水があれば……」

 雪すら熱気に溶かされて地表へ届かない。青燕が赤い空を睨んだとき、蹄の音がした。



 揺らめく炎を踏み越え、一頭の馬が駆けてくる。

 無人に見えた葦毛の背には小柄な老婆が縋っていた。

 蹄鉄が焼け解けた石畳を蹴り、馬がふたりの皇子の前に降り立つ。馬上の琴児きんじが身を乗り出した。


「青燕様!」

「どうしてここに、母上と逃げたんじゃなかったの?」

「お伝えしなければならないことがあり、無理を入って馬をお借りしました」

 琴児は荒い息で手綱を握りしめた。


「江妃様が湖の水門をお開けになりました。もうすぐ大河からの水が城へ流れ込みます」

 青燕は大きく目を見開いた。琴児が皺の刻まれた眼尻を下げた。

「御母堂からの伝言です。『貴方ならできると信じています。どうか母を城を沈めた悪人にしないでね』と」


「母上が……」

 青燕は顔を綻ばせた。

 遠くから波打ち際にいるような雄大な響きが聞こえ出す。青燕は翠春の肩を借りながら、大水に向かって手を翳した。押し寄せた白い波濤が紅炎を塗り潰した。



 ***



 破滅で彩られていた現の世界に砲声と波音が満ちていく。


「皆戦ってる……」

 紅運は光を見上げながら呟いた。いつの間にか立ち上がった白雄が同じように顔を上げていた。

「私は、己の度量も測れないほど幼い頃ですが……皇帝になったら、誰も殺されないで済むよう、妖魔を根絶したいと思っていたんだ……」

 髪も衣も乱れ果てた、常時の姿は見る影もない、幼子のような苦笑だった。


 紅運は微笑み返す。

「いいじゃないか。俺なんて宮廷女官を馬に乗せたいって言ったんだぞ」

「お互い豪気で愚かでしたね」


 皇太子と末弟は視線を交わした。白の大魔と赤の大魔が其々頭を垂れた。ふたりは同時に地を蹴って己が従僕に飛び乗る。

 重力の波が撓み、炸裂した炎が皇子たちを舞い上げた。



 全身に風が吹きつける。

 闇が豪速で飛び退り、雷鳴と炎光の狂宴が近づく。

 白雄と紅運は武器を構え、地を削って着地した。



 再びの地獄絵図が広がっている。

 墨色の宮殿は火に包まれ、捩じくれた炭に変貌しかけていた。

 瓦礫の影に倒れた藍栄と橙志がいた。


 荒れ狂う竜が咆哮をあげ、天蓋を走る雷が爆ぜる。

 黄禁は両腕を地につけ、光の網で竜を凌いでいた。


「只今戻りました!」

 白雄の叫びに黄禁が顔を上げる。顎から滂沱の汗を垂らしながら彼は虚に微笑んだ。



「可哀想なひとたち。生き残ってしまったのね。潰れていた方が焼け死ぬより穏やかだったのに」

 竜が雷鳴を絡めた哄笑を上げる。

「無駄なのよ。皇子はもう八人。どれだけ足掻いても陣は完成しないの」


 紅運は唇を噛み、兄たちに視線をやる。

 白雄の虚勢が再び陰りを見せていた。黄禁は無言だが、両腕の震えが限界を示す。


「それでも……」

「無駄なものか」

 紅運の隣で掠れた声が響いた。

 男の姿に戻った狻猊が紅蓮の髪を暴風に泳がせ、踏み出した。



「貴方は……」

 竜が低く唸る。

「この姿ではわからないか。それとも、使い道のない木端など覚える気がなかったか」

 いつもの粗暴さが消えた、静かで思慮深かげな声だった。


 紅運は赤毛に包まれた横顔を見つめた。

 見慣れた面差しが儚い記憶の像と線を結び始める。


 狻猊の髪から炎の色が退き、黒に変わった。金眼から光が薄れ、鋭い犬歯が唇に収まる。

 紅運は既にその姿を見ていた。ちょうど今のように貝の魔物の中で。


 古の時代、玉座に叩頭き、面を上げた、その横顔は––––

紅雷こうらい……」



 彼は紅運に首肯を返し、黄金の竜を見た。

「九星は揃った。始龍よ。皇子ならば此処にいるぞ」

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