四章:十六、烽火連天
「どうして……」
「無能は死ぬことすら仕損じた。形を変えて宮廷を脅かす始龍の存在を伝えなければ、と今際に未練が出た。俺は
薄く開いた唇から見慣れた犬歯が覗いた。
「だが、俺より愚かな誰かが俺を解き、俺の雪辱を晴らすと言った。お陰でやっと思い出せた」
金色の龍が低く笑った。
「思い出したわ。あのご老人の真似をしていたから気づかなかったけれど。大昔、妾に挑もうとした愚かなひと! 失うものなどなかったのに更に奪われた、可哀想な皇子が貴方ね!」
哄笑が雷鳴となって響く。
「うるさい……!」
踏み出しかけた紅運を男の手が押し留めた。
「気にするな。その程度のことは二百年間己に言い続けた。それに、言葉より行動で見せてやる方がいいだろう?」
紅運は周囲を見渡す。
紅運は深く息を吸った。
「やろう、
「命令しろよ、主だろ」
男は獰猛な笑みを浮かべた。黒髪を炎の赤が塗り替え、瞳孔が金を帯びる。犬歯が鋭い牙に変わった。
「やるぞ、狻猊!」
龍が吼える。
凄まじい音圧と彩光を炎が打ち消した。赤い獅子が炎の壁を起こし、猛攻を阻んだ。
「黄禁、頼みます!」
白雄が叫ぶ。黄禁は両手を地についた。
「九星の陣を発す!」
ひび割れた黒曜の床に清廉な光が走った。身動ぐ龍を囲って光は屈折し、芒星のような陣を描いていく。
「邪魔なひとたち!」
始龍が低く身を屈めた。紅運は狻猊に飛び乗った。
「龍は飛ぶ気だ。白雄、抑えてくれ!」
重責が始龍を押しつけ、金の翼を軋ませる。
狻猊が跳躍した。龍が放つ電撃を空中で避け、狻猊が火を吹く。雲海の如く天蓋に滞留した炎の渦に龍が呻いた。
「熱い空気は上に行くからな!」
龍の爪が床板を破り、瓦礫と砂塵が飛び散る。黄金の巨体が沈み始めた。それは熱と重圧のせいだけではない。紅運は目下を見る。
「龍の身体が……」
始龍は穴の空いた舟が沈没するように、徐々に地面に呑まれていた。暴れる巨躯を光芒の網が捕らえている。黄禁は震える手で地を抑えた。
「国土は龍の身体から成る……もう一度お前を土に返すのがこの陣だ……!」
始龍が絶叫した。
音圧が空気を震わせ、紅運の肌を痛いほど打つ。根源の恐怖を煽る叫びに耐えながら、紅運は狻猊を駆り続けた。
「そうよ、この国は妾の身体。全ては妾のものだった……」
始龍の怨嗟に地面が泡立ち、ぼこりと隆起する。黒い床が鱗じみた金に染まり出した。紅運は上空と地上に視線を走らせる
「まだ何か仕掛ける気だ、一度降りるべきか……?」
白雄が蛇矛を手に一歩進み出た。
「我らが国はとうに天子の所有物です。まだ気づきませんか?」
龍の巨大な眼球が彼を睨む。瓦礫が独りでに立ち上がり、龍に吸い寄せられるように収束し始めた。
「何をしたの!」
大地の金色が龍の喉に吸い上げられ、稲妻が瓦礫を破砕する。白雄は冷然と答えた。
「いえ、何も」
龍は目を見開く。防御から攻撃に妖力を回した龍の身体は更に地面に沈み込んだ。
「大魔の力を使っただけのはったりです。高貴な王とばかり戦った貴方には信じられないでしょう。私の半生はこれに費やしていましたから」
白雄は皮肉な笑みを浮かべた。上空の紅運は思わず苦笑する。
半身が殆ど埋もれた龍が全身を波打たせた。光の網が千切れそうに震える。黄禁が苦々しく呻いた。
「あと少し、始龍の力を削らなければ……」
始龍を地中に吸い寄せる網が保たない。紅運の額に汗が滴る。
「削ると言っても奴は硬すぎる」
「紅運、学んできただろ。魔物を殺すなら内側からだ」
狻猊の金眼が紅運を見た。
「やれるのか」
「そのために生きてきた」
紅運は頷き、天上から叫んだ。
「俺たちがやる!」
龍が怒りに任せて身を捻った。その首が膨れ、発光した。
僅かに残っていた壁が膨れ上がり、閃光と共に飛散する。無作為に放たれた電撃が一直線に炸裂した。
爆風に絡んだ瓦礫が狻猊を打ち、紅運ごと落下する。
黒煙の中に散弾のような破片が迫るのが見えた。白雄の権能が瓦礫の盾を作るが、細かなものは障壁を逸れて直進する。一際鋭い破片が紅運の心の臓目掛けて閃いた。
肉を抉る鈍い音がし、鮮血が飛び散った。
紅運の前に差し出された白い衣の袖を赤が染めていた。
「白、雄……!」
破片は白雄の構えた蛇矛を砕き、右腕に深々と突き刺さっていた。夥しい血を流し、白雄は荒い息を吐く。
「大事ありません。止血は既に……」
白の大魔の重責が白雄の衣を引き絞り、血を止めていた。
「でも……!」
「命に比べれば安い物です。紅運、私たちを生きて帰してくれるのでしょう……」
血の気の失せた顔で白雄が微笑した。
紅運は唇を噛み、狻猊の首を掻き抱いた。
「必ず!」
狻猊が炎を纏って飛び立つ。
龍が甲高い叫びを上げ、無数の雷が鞭となって荒れ狂う。
雷撃を掻い潜る紅運を、龍の瞳が捉えた。黄金の鱗が蓄電の光を帯びていく。
「あと少しなんだ……!」
白雄は残った左腕を持ち上げた。攻撃の力は残っていない。彼は震える指で銀の髪留めに触れ、爪で弾いた。
鈴のような音色に、藍栄が目を開く。
「橙志……!」
彼の弟は地を這い、転げた弓と最後の一矢を掴んだ。橙志の肩に藍栄が手を添えた。
「私が見定める。射ってくれ。まだ弓は覚えているだろう……」
橙志は引き寄せるように弓を番える。弓弦に血が伝い、矢尻が震えた。
「無論!」
「今だ!」
銀の閃光が金の雷を抜けて飛ぶ。紅運だけを捉えていた龍の緑眼を矢が貫いた。
龍が痛みに声を上げる。叫びとともに漏れた電撃は地を這って瓦礫の山を塵に変えただけだった。
「行ける!」
紅運は狻猊と視線を交わした。叫び続ける龍の顎門は迎え入れるように大きく開いている。
地獄の火坑の如き口腔に狙いを定め、狻猊は一直線に跳ぶ。
生温かな空気が吹きつけ、紅運を闇が包んだ。
五感の消えた世界で紅運は呼吸を整える。
「闇と熱気、あの日の伏魔殿と同じだ。炎は俺の味方だ……!」
暗黒の中で狻猊の髪が灯火のように輝いた。
紅運は頷き、足元で脈動する龍の喉に銅剣を突き立てた。
「狻猊、焼き払え!」
豪炎の赤が全ての黒を拭い去った。
火が潮のように引き、周囲が消炭となって瓦解する。
開けた視界に映った黒は完全な闇ではない。星と雪が煌めく夜空だった。
ふらついた紅運を赤毛の行者が支えた。
皇子の顔か、妖魔の顔か、確かめたかったが視界が渦を巻いてわからなかった。
「戻ったのか……?」
「おう」
ぐらついて見える宮殿は無惨に焦げた骨組みを晒し、瓦と漆喰が僅かに張り付いていた。
辺りは水で濡れ、夜空の光を朧げに映していた。
「皆は……」
水が薄氷が変わり始めた大路を
「紅運、戻ったんだね! 兄さんたちは……」
紅運に代わって狻猊が背後を顎で指した。
白雄は血塗れの片腕を庇いながら、藍栄に残る手を貸していた。
黄禁は背負った橙志に殆ど押し潰されかけていた。
「手を貸してくれるだろうか……」
「馬鹿、生き残ったのに圧死してどうするんだよ」
「雑に扱わないでくれ、重傷なんだ!」
ざわめきの中、翠春が細い声を上げた。
「母上、いや、始龍は……」
紅運は戻ったばかりの現の世界を改めて見た。
「終わったはずだ。現に緑の大魔も––––」
地面が蠢いた。
皇子たちの前で地表が破れ、黒い影が飛び出す。全員が息を呑んだ。
龍がそこにいた。黄金の鱗は剥がれ、黒炭が代わりに覆っていた。身体は大路の端に並ぶ宮殿の半分ほどもない。しかし、焦げた体躯を引きずり、こちらへ近づいていた。
青燕が声を震わせる。
「そんな……もう皆戦えないよ……」
紅運は剣に手を伸ばしたが、指が開かなかった。白雄が絶え絶えの息を吐く。
「私が……」
そのとき、一匹の妖魔が屋根を飛び越え、龍の首筋に噛みついた。子犬のような妖魔はすぐ靄になって消えた。
それだけで龍の脆い喉は煙を噴き上げた。千切れた首がごろりと転げ、水溜まりに落ちて霧散した。
紅運は狼狽える。
「今のは……」
「百八のひとつ、確かに命に届いたようだな」
振り返ると、黄禁が無理に口角を上げて見せた。
炭化した龍が綻び、風に吹かれて散る。
黒い煤が舞う中、全身を血に染めた女が立っていた。
「
紅運は今度こそ銅剣の柄に手をかける。狻猊が首を横に振った。
一同の視線を身に受ける銀蓮の瞳は、ひとりに向けられていた。
「母上……」
翠春は視線を返した。
「ごめん……」
「非道い子ね」
銀蓮は瞳孔を細める。
「貴方みたいな恩知らずは連れて行ってあげないわ。精々人の世で足掻きなさい」
女は艶然と微笑み、灰塵となって消えた。翠春が痛みに耐えるように瞑目した。
煤が舞う夜空に星より眩い輝きが走った。
宮殿の屋根瓦を黄金の獣が駆けていく。魔物に変貌した皇帝は息子たちを一瞥し、月を喰らうように夜空に飛び去った。
紫釉が呟いた。
「流石に奴を追うのは無理だよな」
白雄が頷く。
「後のことはいずれ。生きていればどうとでもなります……」
「何か今の皇太子らしくないぜ」
紅運は密かに微笑んだ。
「これで、ひとまず終わりだ……」
狻猊の吐いた熱い呼気が寒風に絡む。紅運は魔物の消えた夜空を見上げた。
全てを燃え尽きた後の黒い煤は闇に溶け、白雪の欠片が静かに舞い降りていた。
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