結章:前、龍久国継承戦

 災禍が去った。


 焦げた宮殿の梁は白に変わり、綻び落ちる灰に桃の花弁が混じった。

 紅運こううんは窓際で花とも灰ともつかない白い欠片が絡んだ風を受けていた。

 つい数日前の戦闘が嘘のような静寂だった。



「紅運、今平気?」

 青燕せいえんが扉から顔を覗かせ、紅運は文机に散らばった筆や紙を押し退けた。


「もう動き回っていいのか?」

「うん、僕は大した怪我もしていないからね。復興を手伝わなきゃ」

「相変わらずだな」

 紅運は窓外の破壊の痕を見た。

 城内は執務を行う外朝の三割、皇族の暮らす内廷の半分が焼失していた。

 国全土にも争乱は周知の事実となったが、混乱を収めるための公務どころか、皇族の住居すらままならない。



「酷い有様だからな。死者が三桁に満たなかったのは奇跡だ」

「皆、皇子が前線に立ったからこの程度で済んだって言ってくれてるよ。僕たちだけのお陰じゃないと思うけど。この状況でも士気が下がらないのはいいことだよね」

「ああ、兵士たちが張り切って燃え残った宮殿の即席の療養所に作り替えたんだろう。死者の埋葬も既に大方終わったようだし、俺の仕事は何もないな」


 青燕の気遣わしげな視線を感じ、紅運は肩を竦めた。

「戦いに参加してもすぐ全てが変われる訳じゃない。俺にできることをやっていくしかないさ」

「紅運は変わったよ。勿論いい意味でね」

「だといいが」


 紅運は文机の隅に寄せた紙に目を留めた。

「それは何?」

「いや、俺にできることはないかと琴児きんじに聞いたら、兄たちの見舞いに何かしてはどうかと言われて……詩や文は下手だし……絵ならまだマシかと……」

「きっと喜ぶよ。僕も丁度皆のお見舞いに誘おうと思って来たんだ」

 まだ残った仕事を片付けるからと青燕が去り、紅運は机上の紙を取り上げた。



 廊下には裂けた緞帳や破られた扉がまだ残っていた。

 皇帝が余暇に使った部屋を病室に変えたため、傷ついた兵たちの息が彼方此方から聞こえた。



 紅運は橙志とうしの部屋の前で足を止めた。

 入り口に先客がいた。服の下から火傷と刀傷を覗かせているのは、橙志の副官の王禄おうろくだった。


「師範、お裁きを受けに参りました」

 彼は後手に手を組み、紅運に背を向けていた。奥の寝台から橙志の声が答える。


「火砲の件なら左将軍が使用許可を出した。俺に責める権利はない」

「皇子に矢を向け、傷を負わせた件です。如何なる処遇も覚悟はできています」

「俺の言は全て受け入れるか」

 王禄の肩越しに橙志の姿が見えた。右眼は血の滲む包帯で覆われていた。


「ならば、俺の眼は龍に抉られた。それが全てだ。反論はないな」

 王禄は暫し硬直し、身を折るように深く礼をした。



 彼が部屋を後にし、橙志は寝台で上体を起こした。

「いつまでそこにいる気だ」

「気づいてたのか……」


 紅運は部屋に入る。窓から早春の風が吹いていたが、辺りには薬と血の匂いが残っていた。


「具合は?」

「大事ない。動けないがもどかしいだけだ。何か用か」

 紅運は迷いながら紙を差し出した。


「……見舞いに絵を描いてきたんだ」

「お前が?」

 橙志は紙を広げ、鋭い瞳で見つめた。

「これは……猪か?」

「馬だ。琴児はわかってくれたのに……」

 紅運は俯く。橙志はもう一度絵を眺め、紙を丸めて枕元に置いた。


「受け取った。もう行け」

 いつにも増して取り付くしまのない態度に、紅運は首をもたげたまま部屋を出た。


「少しは仲良くなれたと思っていたんだがな」

 暗い廊下で溜息をついてから首を振り、紅運は再び橙志の元へ進んだ。



「下手だと思ったならそう言ってくれても……」

 戸口から声をかけたとき、寝台に蹲り、肩を震わせる橙志が見えた。傷が痛むのかと思ったが、漏れ聞こえたのは呻きではなかった。


「笑ってる……」

 紅運の声に、橙志がハッとして顔を上げる。彼は顔を拭って表情を打ち消した。

「笑ってない」

「何で否定するんだ。別に笑ってもいい。驚いただけで……」

「ないと言っているだろう。早く行け。傷が開いた。少し休む」

「笑ったから傷が開いたんじゃないか!」


 橙志は背を向けて寝転んだ。絵は枕元に広げられていた。紅運は苦笑し、もう一度息をついた。



 黄禁おうきんの部屋に向かうと、既に入り口には青燕がいた。

「絵はどうだった?」

「笑われた」

「橙志兄さんって笑うの?」

「俺も初めて見た。傷が開いたからと追い払われた」

「何だそれ」

 声を上げて笑う青燕の後ろに、隠れるように翠春すいしゅんが立っていた。


「翠春も来ていたんだな」

「うん、謝らなきゃいけないと思って」

 鉄色の髪に隠れた瞳は怯えと決意がないまぜになっていた。紅運は頷き、扉を押した。



「おお、たくさんいるな」

 寝台の上の黄禁が虚な笑みを返した。

「具合はどうなんだ」

「問題ない。後は体力の回復を待つばかりだ」


 黄禁は一番後ろに立つ翠春に目を向ける。彼は両手で自らの肩を抱きながら進み出た。


「黄禁兄さん、謝りに来たんだ。許してとは言わないけど……」

「何をだ?」

「何って、おれと母上のせいで死んだかもしれないのに……道妃どうひだって……」


 翠春は背を丸め、自分の足元を見下ろした。

「恨んでるよね」

 黄禁は彼を見つめ、静かに告げた。

「誰も恨んでない。寂しいだけだ」

 翠春が僅かに視線を上げる。


「お前はどうだ? お前の母は俺が殺したようなものだろう」

「それは…….」

 割って入ろうとした紅運の袖を、翠春の手が掴んだ。細指から想像できない力だった。

「おれも、寂しいけど恨んでないよ」

「そうか」

 黄禁は微笑んだ。



 病室に白と黒の模様の猫が入ってきた。

 太った身体を皇子たちの脹脛に擦り付け、足をばたつかせて黄禁の寝台に登る。

「お前も無事だったか」

 黄禁は猫を抱き上げた。


「彼の名は考えてくれたか?」

 紅運はあっと声を上げる。

「すまない、忘れていた」

「いいんだ。俺がつけようと思った名がある。黄星おうせい。闇夜を導く光になる。そういう名だ」

「猫の名前にしては大袈裟じゃないか?」


 翠春がか細い声で呟いた。

「大昔の道士が好んでつけた名前だ。子どもが闇に連れて行かれないように守るための幼名として……」


 黄禁は一瞬肩を震わせ、目を細めた。

「そうなのか、知らなかったな」

 彼が眺めた窓外には皇妃が眠る龍墓楼の楼閣が聳えている。猫が喉を鳴らした。



 紅運は青燕、翠春とともに皇太子の部屋へと続く長い廊下を歩んでいた。


 失われた宮殿の代わりに内務を行う場として解放されているとはいえ、一歩踏み入ったときから辺りは厳粛な静寂が満ちていた。


 青燕が苦笑する。

「何だか緊張するね。ここだけ何の声もしないや」

「ああ……」


 扉に手をかけたとき、重い空気を金切り声が断ち切った。

紫釉しゆう殿下も少しは手伝ってください! 貴方は何の怪我もしてないでしょう!」


 開けた扉から烏用うように肩を揺さぶられる紫釉の姿が覗いた。

「普段の百倍は働いたよ。しばらく動けない」

「普段が働かなさすぎるんですよ。怪我人に手伝わせて恥ずかしくないんですか?」


 烏用が指した方には、寝台に文机を置いて書物の山に向き合う白雄はくゆうと、傍に立つ藍栄らんえいがいた。

「いつも通りだね」

 青燕が眉根を下げた。



「弟たちが来たぜ。丁度いい。手伝わせよう」

 紫釉が手招きする。白雄は寝台から微笑を返した。


「ふたりとも寝ていた方がいいんじゃないか」

 藍栄が軽薄な笑みを浮かべた。

「私はもう平気さ。白雄はまだ休ませたいが、山積みの公務を放り出して寝てはいられない性質だからね」

 烏用がぼやく。

「皇太子殿下の勤勉さを見習ってほしいですよ」


「こんなときでも変わらないな」

 寝台まで歩み寄った紅運に、白雄が囁いた。

「変われないのです」

 ふたりは秘密を共有した物同士、口角を上げた。


「右腕は……?」

「繋がってはいますが、動くかわからないそうです。切り落として義手をつけることも考えています」

 藍栄が肩を竦める。

「完全無欠の皇太子が何てことだろう」

「これで見分けがつくでしょうか」

 白雄は皮肉めいた表情を浮かべた。

「私と君が似ているのは顔だけだろう?」

 紅運は憮然と口を挟んだ。

「似た物同士だ。誰にも相談しないで誰かの身代わりになろうとするところは特に」

 藍栄は肩を竦めた。

「参ったな」



 翠春が伏し目がちに歩み寄った。

「おれ、できることなら何でもするよ。全部おれと母上のせいだから、償いにもならないけど」

 寝台から紙片がはらりと落ち、翠春がそれを拾う。白雄は左手で受け取った。


「親の責を子に問うのはやめにしましょう。ですが、助力は願ってもないことです」

 重なる書類の上に置かれた彼の右腕は骨董のように動かなかった。


「書は得意ですね? 私の手は動きません。貴方の知識で民を安らげ、国を纏めるための書を書いていただけますか」

「でも、おれが知ってるのは空想の小説ばかりで、政治のことは……」

「いいのです。数多の血が流れた今、必要なのは荒唐無稽でも信じたいと思える夢想ではないでしょうか」

 白雄はいつもより幼い笑みを浮かべた。



「僕たちも手伝うよ。皆でやる方が早いからね」

 青燕が持ち上げた書類から一枚引き抜き、紫釉は歯を見せた。


「紅運も頼むぜ。宮廷の影の支配者なんだからな」

「何だそれ」

「巷のビラだ。読んでやろうか? 『今まで全貌を隠していた第九皇子こそ、燎原の炎を操る最も強大にして皇太子すらも凌ぐ権力を持つ』……」


 紅運はビラを引ったくった。

 紙面では、獅子のような髭を蓄えた巨漢の男が身の丈ほどの剣を携えていた。


「誰だ、これは……」

 紅運は暗澹たる息を吐く。見たこともない武人の下には己の名前が黒々と記されていた。

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