結章:後、龍久国継承戦

 朱の透かし彫りから夕陽が差し、一段濃い赤が染み出していた。



 廊下を進む紅運こううんを、物陰から女官たちが覗いていた。彼女たちの視線は今まで向けられたことのない光があった。

「いらしたわ。何方に消えていたのかしら」

「御公務よ。これから更に取り立てられるのでしょう」


 紅運は纏わりつく視線から逃れようと足を早めた。

「嬉しくない変化ばかりがある。皆、急に何なんだ!」



 廊下を抜けたとき、若い女官とは違う質素な深衣が見えた。

琴児きんじ!」

「これは、息を切らせてどうなさいました」

 琴児は駆け寄った紅運に柔和な笑みを向けた。


「いや、何でもない。どこに行ってたんだ?」

「療養所でございます。兵の皆様の包帯を替える程度しかできませぬが」

 彼女が抱えた手桶には洗い立ての包帯が入っていた。琴児は女官たちのいた方を眺め、紅運を穏やかに見つめた。


「紅運様、此度の戦よく生きて帰ってくださいました」

「ああ……急にどうしたんだ」

「御武功を上げた貴方様はこれから望まぬ衆目を受けることもございましょう。ですが、周囲が幾ら変わろうと、私と亡き御母堂はここにおります」

 紅運は口元を緩めた。

「琴児は何でもわかってるんだな」

「年の功があります故」


 夜の冷たさを帯びた風が吹いた。


「少し行くところがあるんだ。すぐ戻る」

 紅運は踵を返しかけて再び琴児に向き直った。

「そういえば、馬に乗ったとは本当か?」

「お見せしとうございました」

 少女のように破顔した琴児に頷いて、紅運は歩き出した。



 伏魔殿の修復は後に回され、道のりは瓦礫と炎の痕が生々しく残っていた。


 紺碧の空が垂れる石段を登り切ると、赤の楼門が見える。

 紅運は散らばる破片を避けて石段に座った。首筋を撫でる冷風に、炎の熱が一条絡んだ。

狻猊さんげい


 赤毛の男が瓦礫に構わず隣に腰を下ろしていた。

「宮廷も巷も現金な奴ばっかりだな。景気よさそうじゃねえか」

「やめてくれ」

 狻猊は犬歯を覗かせた。火の色の髪に包まれた横顔は凶暴にも、寂しげにも見えた。


「お前はどちらなんだ。狻猊か、紅雷こうらいなのか?」

「とっくに魂が混ざっちまってわからねえよ。だが、普段は出てこねえが紅雷もずっと奥底にいる」

 男は指先で己の胸を叩いた。

「お前は屠紅雷を主と一度も言わなかった。心のどこかで自分が紅雷だと思っていたからか」

「さあな」

「どちらでもお前に変わりないか」

 紅運の答えに男は目を伏せた。


「礼は言っておくぜ。お前は俺と紅雷の無念を晴らした」

「俺だけじゃできなかったさ」

「謙虚だな。流石宮廷の影の支配者は違う」

「それも聞いていたのか」

 呆れ笑いを返し、紅運は城下を見下ろした。



 崩れた城郭に篝火が焚かれ、煌々と輝いている。ほぼ被害が及ばなかった城下町は酒楼が次々と明かりを灯った。狻猊が喉を鳴らす。


「城が焼かれたってのに市井は相変わらずだな」

「これでも犠牲者への追悼で自粛しているらしいぞ」

「それでこれかよ。都も随分栄えたもんだ。二百年前とは大違いだな」

「ああ、この国を治めるなんて想像がつかない」

「気弱なこと言うなよ。皇帝になるんじゃねえのか」

 紅運は首を振った。


「そう言ったが、やはり難しい。襲ってきた敵と戦うことはできても、常に国を守るのはまた違うからな」

「なら、お前はどうしたい?」

「……俺は宮廷に居場所がほしかっただけかもしれない。俺は国といっても、自分の周りしか見えてなかった。父や兄たちに認めてほしかったんだな。やっとそれがわかってきた」

「紅雷も似たようなことほざいてやがったな」



 渦巻く赤毛に鼻先をくすぐられ、紅運は小さく笑う。

「始龍も、ここは自分の国なのにと言っていた。あいつも俺と同じかもしれない」

「馬鹿言えよ」

「俺には周りにひとがいたけど、奴はずっとひとりだった」

 狻猊は金眼を細めた。


「情けをかける気か。奴はまたいずれ国を襲うぜ」

「わかってる。もっと狡猾なやり口も考えてくるはずだ。だから、今のままじゃ駄目だ。国を奴に返すことはできなくても、別の方法で居場所を作ってやらないと戦いは終わらない」

「ひとだけじゃなく妖魔も治めようってか」

 紅運は肩を竦める。


「皇位なんて夢のまた夢の第九皇子なんだ。ひとつ夢が増えても変わらないだろ?」

「傲慢だな。暴君になるぜ、紅運」

「そうなったら民の前にお前に殺されそうだ」

「まさか、俺が従順なのは知ってるだろ。逆徒の方を殺してやるよ」

「どっちが暴君だか」


 紅運は笑って、燦然たる夜光に目を向けた。

 国を滅ぼす炎が鎮まり、護国の篝火が不夜の輝きを照らしていた。



 七日後の早朝、宮廷は大火以来初めての騒がしさだった。


 皇太子直々に一連の騒乱に対して声明を出す場が設けられる。

 まだ夜半の色が残るうちから官吏は末端に至るまで集められ、外朝に並んでいた。


 皇子たちは一足早く荘厳な錦虎殿きんこでんに集った。

 紅運は金雲を描いた柱を見上げる。ここで己を含む皇子たちの生死について会談が幾度も設けられた。

 今、その面々が誰も欠けずにいる。



 白雄はくゆうが皆の前に立った。

「不遜とは知りながら、僅かの間、私が皇帝に代わり政を行います。先んじて伝えることが幾つか」

 彼は傷ついた腕を錦で隠し、常の乱れひとつない姿で胸を張る。


「執務の取り纏めは翠春すいしゅん、そして、此度の功績を鑑み、烏用うようを宰相として行います。藍栄らんえいの臣籍降下は正式に棄却し、彼を皇太子補佐に任命します」


 藍栄は目を閉じて一礼した。翠春は書物を抱えて、小さく身を折る。紫釉しゆうが口笛を吹いた。

「烏用の奴、本当に出世しやがった。こき使ってやれよ。どうせ俺で慣れてる」

 白雄は思わず笑いかけ、咳払いで誤魔化す。



「父の葬送も正式に行うつもりです。そして、黒勝こくしょうの弔いも」

 紅運は目を伏せた。唯ひとり救えなかった兄がいた。もっと早く自分が力を得ていたら、何か変わっただろうか。


 溜息をついた紅運に、青燕せいえんが囁いた。

「そういえば、知ってる? 刑吏が言ってたんだ。黒勝兄さんの葬儀のために、お墓を改めたら……」


 言葉は銅鑼の音に遮られた。皇太子の陳述の刻を知らせる響きだった。


 青燕は紅運の肩を叩いた。

「後で話すね」


 殿の扉が重々しく開け放たれる。皇子たちは外へと踏み出した。


 橙志とうしは正面を見つめたまま言った。

黄禁おうきん、俺に言うことはないか」

 黄禁は彼を見上げる。橙志の右目には武骨な黒眼帯が巻かれていた。

「何の話だ?」


 紅運は慌てて近寄る。

「橙志は責めてるんじゃない。たぶん、処刑のことでいろいろあったからわだかまりを……」

「何で同じ国で通訳がいるんだよ」

 口を挟んだ紫釉を睨んだとき、黄禁が微笑した。


「では、兄上。眼帯は下を向いてつけると髪が邪魔にならないらしいぞ」

 橙志は残った目を見開き、観念したように首を振った。

「覚えておこう」



 初春の風と眩しい朝日が皇子たちを包んだ。

 紅運は息を呑む。


 宮殿の大路を埋め尽くすほどのひとが整列していた。その奥に見える城郭が蜃気楼の如く歪み、紅運は気が遠くなる。


 白雄は毅然と彼らの前に進み出た。

 無数の目が一斉に向けられる。



「お集まりいただき感謝を。最早警句は不要。皆が知るべきことをお伝えします」

 詩を誦じるような声が響いた。


「此度の騒乱の全ては、龍久国りゅうくのくにを長きに渡り脅かした始龍によるものでした。それが目覚めたのは、我らが皇帝陛下が薨られたためです」

 周囲がざわめく。白雄の重責に耐えるように左手の拳を握ったのを紅運だけが捉えていた。


「皆の協力により、元凶は打ち倒されました。しかし、全てが終わったわけではありません。王なき今、妖魔は依然として我々を脅かすでしょう。そして、一体の強大な魔獣が逃げ去り、未だ行方が掴めていません」


 宮殿が民にまで開放され、全てを明るみに出すなど、有史考え得ないことだった。衆目を一身に受けながら、白雄は顎を上げた。



「我々は命を賭して国を守ってきました。民なくして国はなし。ですから、皆にもどうか力を貸してほしいのです」

 彼の声は震えていたが、口元には微かな笑みがあった。陶磁器じみた微笑ではなく、恐れから自分を守る、ただの青年の笑みだった。


「魔獣の正体は妖魔と化した先帝。討つのは不敬に当らず、善く国を治めたかの王へ最後の敬意を示すものだと考えます。我々は、国を護る勇士を募りたい」

 紅運は目を泳がせる。

「何を言う気だ。白雄……」

 彼の後ろに立つ翠春が口角を上げた。


「我らが父の遺言の一部を公開しましょう。魔を統べる者が国を統べる。私は父の意志を尊重したい。故に、かの魔獣を討った者を次の王とする、龍久国継承戦をここに開幕します!」 


 集められた者たちは一同にどよめく。

 皇子たちも声を失った。


 青燕が翠春に駆け寄った。

「ねえ、これって君が見せてくれた本にあった……」

「うん、仕事の合間に少し話したら読みたいと言われて……でも、まさか本当に使うなんて……」

 翠春は小さく笑った。


 周囲は口々に意見を交わし、紙に筆を走らせている。

 喧騒の中、紅運は白雄に歩み寄って囁いた。


「とんでもないことを考えたな」

「賛辞として受け取りましょう」

「褒めてるけど呆れてる。本当にこんな形で皇位を譲る気か?」

「まさか。我々が勝てばいいのです。私は常にそう仕向けるよう生きてしましたから」

 白雄は片目を瞑った。


「紅運、これで貴方も競争相手です。善く競い合いましょう」

 紅運は溜息混じりに苦笑し、首を振った。

「あんたにそう言われる人が来るなんてな」



 八人の皇子たちは当惑の表情を浮かべるものもあれば、満足げに笑うものもいる。


 紅運は空を見上げた。

 蒼天に舞う花弁に、己にしか見えない炎のような髪が揺らいでいる。

 傍に視線をやると、赤毛の男が獰猛に歯を見せた。



 九人の皇子が並び立つ宮殿に、銅鑼の音が響いた。

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