四章:六、雪上加霜
春も程近い
灰色の空から千切れて落ちる綿雪は、雲の色を吸ったように黒ずみ、真紅の王宮を汚した。
埃を被ったような庭は無音だった。
処刑が中止され、混迷を極めた宮中では誰も口を開かない。魔物に変貌した皇帝と、二百年封印された大魔を目の当たりにした後、ひとにできることは何もなかった。
土に張った霜を踏み締め、
一欠片の雪が蝶のように舞い、橙志は矢を放った。矢は薄紙の的を貫いて重い衝撃で梢を揺らし、枝から雪が滑り落ちた。
「上手いものだね」
背後からの声に橙志は振り返る。
「節穴か、それとも嫌味か」
橙志が弓を下ろす。矢は的の中央を外れ、端を射抜いて木に突き刺さっていた。藍栄は肩を竦めた。
「思い出すな。私が君に弓を教えていた頃を」
「昔の話だ」
ふたりの唇から言葉の代わりに白い息が漏れ、沈黙を埋めた。
「
「ああ、歩けるほどに回復したらしい」
「
橙志は口を噤む。貪食の儀は成されなかった。その責を負うのは皇太子に他ならない。
「真の咎人は私だな。最小の犠牲で済ますためと嘯いて、弟たちを救おうとしなかった。処刑に反対していれば、今のように手遅れになる前に策が見つかったかも知らないのに」
「それは俺も同じだ」
藍栄は眉を下げて笑った。
「知っているかい? 他国では双子が生まれたときの序列が違うそうだ」
唐突な問いに橙志は首を振る。
「我らが国では先に生まれた方が弟になるだろう。先に母の胎内に入った者は腹の奥にいるから後から出てくるはずだ、とね。しかし、他国では先に生まれた方が兄になる。兄が外の世界を知って、弟に『出てきても大丈夫だ』と教えるために生まれるんだ」
藍栄は橙志の手からそっと弓を奪い、矢を射た。風を切った鏃は的の中央を貫いた。
「私もそうすべきだった」
橙志は雪と同じ色をした兄の髪が顔にかかるのを見て目を逸らした。
「すべき、というのをやめろと言っていたのは自分じゃなかったか」
「その通りだ」
藍栄は苦笑する。
「紅運が」
橙志は独り言のように呟いた。
「もう誰にも死んでほしくないだけだ、と」
「そうだね。すべきことよりしたいことを考える方がいい」
藍栄は白濁した目を細める。雪が弓弦に降り積もった。
雪よりも白い衣を纏った
宮中で何が起ころうとその姿だけは不変だった。
「皆も知る通り、先日の処刑は取り止められました。誰の不徳の致す処でもなく、命運を違えた故の当然の運びでしょう」
末席の紅運は苦渋に耐えてただ前を向く。その横顔を盗み見た
「今一度天命に従い、全ての憂いを祓うべき時が来ました。貪食の儀を改めて行います。此度は古に倣い、私が」
皇子たちが皆到達ながら口にしなかった答えだった。兄弟は一様に瞑目する。
「俺は、反対だ」
沈黙を破って紅運が声を上げた。震える手を隠し、紅運は胸を張る。
「ただの我儘じゃない。この全てに黒幕がいるなら奴は皇太子を殺したがっている。それに乗るのは敵の思う壺だ」
「一理あるな。敵の嫌がることをし続け、敵の望むことをしないのが戦の本懐だ」
答えたのは橙志だった。
「だが、百の内の一理だ。お前は事をどう収める?」
「黄禁が起きるまで待って全てを聞く。俺たちのために隠していることの中に答えがあるはずだ」
「紅運」
白雄の涼やかな声が響いた。
「事は急を要します。今宵か明朝にでも行わなければ」
「でも……!」
彼は全てを受け入れたように首を振った。
「兄弟が死ぬのはこれで終わりだと申しました。その最後が私というだけです。父の責は長子が負うのが道理。黄禁が目覚めたら私からの謝罪を伝えてください。そして、後は皆に頼みます。私は兄弟を信じています」
白雄は言葉を失う紅運の耳元で囁いた。
「感謝します。弟を見殺しにした私を案じてくれた。貴方の真意は最期の一刻まで忘れません」
見慣れた穏やかな笑みだった。胸から迫り上がる痛みに紅運は唇を噛む。
そして、白雄が一歩退いたとき、紅運は顔を上げ、凶暴な妖魔の笑みのように犬歯を剥いた。
「俺も忘れてないぞ」
白雄が戸惑いの目を向ける。
「俺はあんたと違う。あんたみたいに聞き分けが良くないからな!」
紅運は背を向けて駆け出した。兄たちは暫く呆然と見送った後、ひとりずつ踵を返した。
最後に残った白雄の元に藍栄が歩み寄り、近くの御簾を引き寄せた。
外の雪の照り返しで輝く冷たい床を蹴り、紅運は宮中を走り回った。
「くそ、誰に助力を乞えばいい。
髪を掻き毟る紅運を、擦れ違う女官が奇異の目で見る。侍従の囁きに低い嘲笑が混じった。
「第九皇子はご乱心か」
「
赤毛の男が肩を並べた。
「どうすればいいと思う。力を貸してくれ」
「化け物に相談かよ」
狻猊は喉を鳴らした。
「そういや、お前と同じで処刑の日に駆けずり回ってた奴がいたな。夷狄の使者まで呼びつけてやがった」
「
紅運は来賓を持て成す
「まさか叔父上が来てくださるとは」
叢雲と燕が透かし彫りされた机を前に、紫釉は茶の杯を軽く掲げた。
「紫釉殿下のお誘いとあれば無碍にはできませんよ」
向いに座すのは、褐色の肌をした貫禄のある堅太りの壮年だった。紫釉の後ろに立つ
「しかし、随分と急でしたな。折行ってお話があるとか」
「ここだけの話、宮中がごたついてまして。是非力をお借りしたい」
「成程」
紫釉は、茶を啜る男の口元に鋭く視線を向けた。
「時に、叔父上。礼節に厳しい貴方が先に茶を喫するとは。其方では家主が茶器に口をつけるまで客は待つのが決まりでしょう」
男は肉付きのいい頬を緩める。
「郷に入っては郷に従え。殿下の御国に合わせますとも」
「今言ったのは俺が適当に考えた作法ですが」
紫釉は唇を吊り上げる。男は顎髭を撫でた。
「ひとつ伺っても聞いてもよろしいですか」
烏用が嗜める前に紫釉は唇を開く。
「誰だてめえ」
男は糸のように目を細めた。
来賓の間の戸の影で身を潜めていた紅運は息を呑む。
紫釉と烏用が石で固められたように硬直し、微動だにしない。見慣れない男が彼らを見下ろして笑っていた。
「狻猊、行くぞ」
低く声をかけたが、狻猊は答えない。紅運は懐に隠した銅剣を確かめ、戸を蹴破った。
「何者だ!」
紫釉と烏用が視線だけを動かす。紅運は銅剣を抜いて男に突きつける。
「名乗れ、何の用でここに来た!」
男は不遜に肩を揺らし、紅運を見下ろす。
「もう忘れちまったのか? 水汲みからやり直しだな」
男にしては高く、女にしては粗暴な声が返った。紅運の前で男の姿が溶け、道服と流れるような黒髪が現れる。
「数百年ぶりに来たがろくでもねえ国だ。だが、踏ん張ってるようじゃねえか、紅運!」
「
紅運に輝きが灯る。女が歯を見せて破顔した。
「いや、本当に誰だよ……」
「私に聞かないでくださいよ」
見えない拘束を解かれた紫釉と烏用は顔を見合わせた。
「そこの按察司が手当たり次第に文を送ったらしいな。泰山にまで報せが届いたぜ」
羅真大聖は雪が音を吸う静寂の中を進みながら、親指で後ろを指す。背後を歩く紫釉が烏用を小突いた。
「何考えてんだよ、烏用」
「ツテを全部当たれと言ったのは貴方じゃないですか!」
「誰が伝説の仙人まで呼べって言ったんだよ」
紅運は苦笑しながら大聖に歩調を合わせた。
「来てくれて助かった。相当まずい」
「身体は泰山にあるぜ。流石に間に合わないんで念を送ってるだけだ。今お前に見えてる俺は幻術だ。大したことはできねえぞ」
「それでも充分だ。ありがとう」
女は鷹揚に頷き、白化粧をした宮廷を見渡した。
「ナリだけは上等だが気色の悪い場所だな。邪気が渦巻いてやがる」
「皇帝が変貌したんだ。貪食の儀が一度失敗していつ魔物が出てもおかしくない。白雄が犠牲になろうとしている。止めないと」
紅運が表情を引き締めたとき、重厚な足音が聞こえた。
常とは異なる濃淡の白の装束を纏った白雄が、数名の神官を伴い、廊下の向こうから現れた。神官は皆覆面で顔を覆い、各々純金の法具を携えている。
厳粛な空気が波のように寒気を退けて忍び出した。
「白雄……」
紅運が思わず伸ばした手を、白雄が静かに払う。指先が漆黒の髪に触れ、紅運は神官に押されてたたらを踏んだ。
白雄は振り返りもせず、確かな足取りで通り過ぎた。
「何か今のおかしくなかったか」
紫釉が独り言のように呟いた。紅運は今しがた白雄の髪を掠めた手を見下ろす。指先は墨を触ったように黒ずんでいた。
「まさか、な……」
白装束の集団は雪に溶け入り、瞬きの間に見失いそうになる。
紅運は汚れた指を衣で拭い、烟る伏魔殿を睨んだ。
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