断章:『竜星九子説話』二、贄の陳述

「さ、最悪だ……」

 青燕せいえんは唇の端を歪ませて呟いた。


「一番水の大魔を持っちゃいけないひとじゃないか! 兄弟や兵士への扱いも酷いし、王宮どころかどこにいても困るよ!」

 翠春すいしゅんは珍しく憤慨する青燕にたじろぎながら一度本を閉じた。

「そ、そうだね……」


 紅運こううんは傍に視線をやった。

狻猊さんげい……いや、紅雷こうらいはあんな兄とよくやっていけたな……」

 一言も漏らさず足元を見つめていた狻猊は、ようやく顔を上げた。


「お前も兄たちも大概だろ」

橙志とうしは恐ろしいが性悪ではないし、黄禁おうきんも偶に恐ろしいことを言うが悪意はないぞ!」

「誰とは言ってねえんだけどなあ」

 紅運は呻きを返しつつ、狻猊の犬歯を剥くような見慣れた笑みに僅かに安堵した。



 青燕は蓮葉茶を煽り、息を整えた。

「当たり前だけど、二百年前は今の僕たちとは全然違うね」

「講談は脚色が多いから全てを間に受けられないけど、個性豊かだったのは確かだね」

 翠春は古書の綴じ紐を弄ぶ。


「例えば、講談で最も人気の第四皇子・紫逵しき。性格は粗暴で、最も野卑な皇子と謗られたけど、名誉を一切求めず妖魔との戦いに尽力したんだ。紫の大魔と共に戦場を駆り続けて、紫旋風の異名を取った。生涯討伐した妖魔の数は凡そ三百」

「三百……!」

紫釉しゆうとは真逆だな」

 紅運は苦笑した。


「後は、星見の術に通じた第二皇子・藍瑞らんずい。後に出家して、世俗を好まず清貧を尊ぶ様は、今でも仙人と重ねられたり……」

藍栄らんえい兄さんと大違いだ」

 青燕は声を上げて笑う。


「藍栄兄さんや紫釉兄さんに近いのは、第七皇子・黒廉こくれんかな。色好みの美男子で、若い頃は派手に遊んだらしい。七兄が来たら嫁と娘を隠せと言われるくらいに」

「流石にふたりもそこまででは……」

「でも、始龍討伐後、彼の名前はほぼ一切記録にないんだ。後世の創作で宮廷の汚れ仕事を受け取ったとされるけど」

 紅運は一瞬瞑目した。黒の大魔により、傀儡と化した屍が闇から這い出す様が脳裏を過ぎる。


 青燕の明るい声が思考を遮った。

「君と同じ第八皇子はどうだったの?」

「第八皇子・翠清すいせいも文人だよ……冷静沈着、合理性を重んじ、鉄の男と呼ばれたって……おれは遠く及ばないけど……」

「ちょっととっつきにくそうだね。僕は翠春みたいな方がいいな」

 翠春は本で口元を隠してはにかんだ。


 紅運は茶の表面に浮かぶ埃を見下ろした。

「それで……あの後、紅雷はどうなったんだ」

 翠春が本を開く乾いた音が響く。

「じゃあ、読むよ。次はちょうど彼の陳述の場面なんだ。さっき言った皇子たちも集結するしね」




 ***



 宮殿に降り積もる雪は薄明の光を照り返し、黄金の玉麟殿を茫洋と輝かせていた。


 吊り燈籠の明かりが、金色の細工を濡れたように染める。

 風もない殿で燈籠を微かに揺らすのは、橙和の琴の調べだった。



 皇太子・白凰はくおうは冕冠を目深に被り、玉座に座していた。彼の常時の威厳と品格は疲労で曇り、目の下には青黒いくまがある。


「どのような時も、お前の琴の音だけは変わらんな」

 白凰は僅かに微笑んだ。橙和とうわは演奏を止め、恵まれた体躯に似つかわしくない穏やかな笑みを浮かべた。

「某にできることはこれくらいのものだからな」

「このところ、宮廷を騒がすのは凶事の報せだけだ。偶には音楽しか響かぬ朝もよかろう」



 琴の調に代わって黒曜の床を打つ靴音が響き、青泉せいせんと紅雷が玉麟殿に踏み入った。

 青泉は扇で口元を隠して笑った。

「随分と陽気な調だったな。此処には鎮魂歌の方が相応しかろう。この半年で天子と第五皇子の死体が置かれた血塗れの殿なのだから」

 橙和は答えずに眉根を寄せる。紅雷は青泉に諌めるような視線を向けた。


 片眼鏡をかけ、艶のない髪をひとつに束ねた翠清が殿の奥から現れた。

「青泉兄上、聞いたぞ。右将軍並びに兵士たちに過大な責を与えようとしたとか」

「吏部のお前が刑部の俺の采配に口を出すのか? 翠清ほどの教養人が三省六部の分権制度をご存知ないと見える」

「小官が言っているの、兄上の憂さ晴らしに付き合うための部はないということだ」

「書呆子め」

 青泉は肩を竦めた。


 険しい空気を断ち切るように、静かな声がした。

「おやめなさい、ふたりとも」

 長い髪を垂らした藍瑞は、度々女と間違われるほどの痩身を震わせた。

「我が身を賭して兄を救った黄明が兄弟の争いを望むとでも?」



「その通り! 奴の死は誰も悪くねえ。運が悪かったのさ!」

 騒がしい声と共に、玉麟殿に濃い鉄錆の匂いが漂った。藍瑞が眉を顰める。

「紫逵、妖魔の血も濯がずに……」


 紫逵は第四皇子とは思えない、浅黒い肌と血塗れの衣で、手には人頭を提げていた。

「飛頭蛮だぜ。門楼のすぐそばを飛んでやがった。いよいよ都に妖夢が来るとはな」

「捨てよ」

 被りを振った白凰に、紫逵は飛頭蛮を投げ捨てた。


 庭の玉砂利に血が飛び、青泉が口角を吊り上げる。

「獲物を自慢する猫の子のようだな」

「猫に妖魔が狩れるかよ! 俺の大魔が虎だからか?」

 紫逵は獰猛な笑みを返した。

「黄明は本気で運が悪かった。俺が同じ戦場にいりゃあ、敵なんて全員ぶっ殺してやったのによ」

 呆れて顔を背けた藍瑞の肩を、橙和が叩いた。

「そう憂うな。奴なりの哀悼だろうよ」



「あとひとり来ていないな」

 橙和が視線を巡らせたとき、庭をふらふらと進んでくる影があった。白凰が溜息をつく。

「遅いぞ、黒廉」

 現れた第七皇子は緩くうねった髪を垂らし、派手な刺繍の平服を着崩して、眠そうな目で笑った。


「早く戻ろうと思ったんだけど、柳師師が離してくれなくてさ。龍との戦になったら今生の別れかもしれないと泣きつかれたら……」

「また妓楼か……」

 翠清は神経質そうに額に手をやった。

「白凰兄上が即位するまでは遊び倒すって決めたからさ。もう、禅譲は済んでたっけ?」


 黒廉は服の襟を整えながら、白凰の冕冠を指す。

 玉座の皇太子は自嘲の笑みを浮かべた。

「父上の冠と衣を纏い、我が身で玉座を埋めてはみたがなしの礫だ。都に妖魔が訪れた。天子の亡骸の変貌も止まらん。傀儡に価値はないということか」



 皆が沈黙する中で、紅雷が口を開いた。

「皆、今一度お聞きください」


 常は兄弟の集まりでも意見を口にしない紅雷の張り詰めた声に、全員の視線が集まる。

「白凰兄上の仰る通り、このままでは龍脈の乱れは整わず、国は滅びを迎えるでしょう」


 紅雷は玉座まで進み、奴婢のように傅いた。

「私に貪食の儀を行わせてください」


 白凰は冕冠の下の目を閉じて言った。

「それは、第一皇子たる私がやるべきことだ」

「兄上は平和が訪れた後、国を収める役目があります。対して、末子の私には何もありません」


 青泉が溜息をつく。

「珍しく意見を述べたと思えば、皇太子の大役を強請るとは豪胆だな。第一、末弟に貪食の儀を行えるのか? 最も天子の血を引く皇太子しかできないのでは?」

「その術は既に師父から学びました」



 殿の奥から薄い靄が広がり、黄金の調度を霞ませながら、白髪の老人の姿を姿をとった。

 紅雷以外の皇子が息を呑む。


「何処から入った。何者だ」

 白凰の問いに、老人は喉を鳴らして笑った。

「入っちゃいねえよ。幻術だ。俺は霊峰・泰山の道士、羅真大聖。お初にお目にかかる」


 老人らしくない堂々たる声と溢れる神気に、皇子たちは口を噤む。羅真大聖は傅く紅雷を見下ろして続けた。

「奴の覚悟は半年の修行生活で一度も揺るがなかった。紅雷は本気だぜ。隠居老人に宮廷のことはわからねえ。後はあんた方で話し合え」

 青泉は忌々しげに羅真大聖を睨んだ。



「皇太子以外にもできるなら」

 橙和が低く穏やかな声で言った。

「某がすべきだ。紅雷には狻猊がいる。某の音の大魔より炎の方が戦いに必要なのは明白だろう」

 紅雷は微かに顔を上げた。

「宮廷の者から民草まで兄上の琴を待ち望んでいます。戦いの渦中ではなく、後にこそ必要なものです」


 紫逵が呟いた。

「要る要らないじゃなくて、気に入らねえ。黄明の次に紅雷まで死なせますって? そうでもしなきゃ始龍に勝てねえ弱兵の集まりかよ。妖魔が来るたび兄弟殺してたら宮殿は空っぽになるぜ、紅雷」

「始龍は強大です。このままでは徒に死者が増える。私ひとりで事が収まるのが最善です」



「うん、俺は賛成かな」

 軽く答えたのは黒廉だった。青泉が鋭い視線を向ける。

「睨むなよ、兄ちゃん。紅雷が自分で何かしたいって言ったことないだろ。それだけの覚悟なら外野がやいのやいの言うのも悪いかなと思ってね」

「したいことが自決でもか?」

「実際これ誰かしら貪食の儀やらないともうどうにもならないだろ。そんとき、皇太子にやらせるっていうのはちょっと陰謀感じるんだよな」

「陰謀……?」


 眼鏡の奥の目を細めた翠清に、黒廉は手を振る。

「おれの大魔の知らせみたいなもんかな。まあ、何にせよ、今までと違うことしてみたら、今よりいいことがあるんじゃないかってわけ」

「ありがとうございます」

 紅雷は再び頭を垂れた。



 白凰は重苦しい息を吐き、ずれた冕冠を持ち上げた。

「今一度考え直せ。為損じれば死よりも酷い結果が待つぞ」

「よいのです。兄上」

 紅雷の束ねた癖のある黒髪が揺れる。


「私には文武の才もなければ民を想う寛大な心すらない。この申し出も奏上する間も、己の知る父母や兄弟と僅かな侍従の顔しか浮かばなかった矮小な者です」

 紅雷の肩が小さく揺れた。青泉は目を伏せた。弟のいつもの卑屈な微笑みを想像したのだろう。


 紅雷は、白凰と後ろに侍る六人の兄、師の幻影に告げた。

「この機を逃せば皇子の責務を果たすことは生涯ない。どうか私に邪なる龍を討たせてください」


 白凰は今一度溜息をついた。

「狻猊と共倒れるつもりか。紅雷」

 紅雷は静かに項垂れた。首肯であることは皆にわかった。



 痛みに耐えるように俯いていた藍瑞が、羅真大聖に目を向けた。

「必ず、成功するのですか?」

 老人は頷いた。

「紅雷にその意思さえあればな」


 紅雷は答えを待つ。

 永遠にも思える沈黙の後、黄金の殿に皇太子の声が響いた。

「屠紅雷の陳情を承認する」

 紅雷は崩れるようにもう一度頭を垂れた。

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