断章: 『龍星九子説話』一、古の火と水

 宮殿の廊下に漂う埃の匂いに、紅運こううんは顔を顰めた。


「掃除でもしてるのか?」

 紅運は辺りを見回す。

 祭りが終わり、今は近々開催される継承戦の手筈を整える期間だ。白雄はくゆうや六部や軍に携わる者は忙しなく働いているが、紅運含む年若い皇子たちには手持ち無沙汰の時期だった。


 廊下の奥から靄が噴き出しているのが見え、紅運は足を進めた。



 出処は翠春すいしゅんの部屋だった。

「一体何してるんだ……」

 紅運が覗き込んだ瞬間、緞帳の向こうにいた青燕せいえんと翠春が同時に青ざめる。

「紅運、危ない!」

「何が––––」

 答えの代わりに、緞帳が弛み、直方体の闇が紅運に向かって倒れ込んできた。


 紅運が押し潰される寸前、横から伸びた爪の長い手が倒れた書棚を支えた。

「戦いの前に事故死する気かよ、坊」

狻猊さんげい!」


 赤毛に埃を被った狻猊は不満げに牙を剥き出した。

「悪い、助かった」

 狻猊はぎっしりと本の詰まった棚を軽々と押し退ける。

「何だこりゃあ、第九皇子の暗殺計画か?」


 埃まみれの青燕と翠春が駆け寄った。

「ごめん、紅運……」

「大丈夫だった、怪我はない!?」

 紅運は曖昧に頷く。

「ああ、狻猊が止めてくれたしな。それより、何してたんだ」

「翠春の書庫の整理を手伝ってたんだよ。これから六部で必要になる書類もあるだろうしね」



 翠春の部屋には本が散乱していた。中には劣化が激しく、開いた瞬間に朽ち果てそうな古書もある。

「そこにある本は全部捨てるのか?」

「捨てる訳ないだろ」

 翠春が被せるように言った。


「ここには古代から度々の焚書で焼かれた書経、詩経、百家の書物が残ってるんだよ。捨てる訳ない。いい? 南方の思想家が本を焼く者はいずれひとも焼くと警鐘を鳴らしていて、書誌学を軽んじる者は……」

「わ、わかったわかった。大事な本なんだな」

 紅運は両手を振って翠春を押し退けた。


 青燕がくすりと笑う。

「本当に珍しい本が沢山あるよね。つい読んじゃって整理が進まないんだ。といっても、翠春の解説がないとわからないものだらけだけど。狻猊なら読めるのかな?」

「俺は読むより焼く側だぜ」

 狻猊の金眼を向けられて、翠春が本の山を抱き抱える。紅運は溜息をついた。

「いい加減悪ふざけはよせよ……」


 翠春の手から一冊の古書が溢れ落ち、黄ばんだ紙面を広げた。狻猊の瞳孔が細くなる。長く赤い爪が本を摘んで持ち上げた。

「これは?」

 翠春は身を竦め、おずおずと答える。

「母上の書庫にあった物で……二百年前の大衆小説らしいんだけど、作者もわからないし、謎の多い本で……」


 狻猊は喉を鳴らし、翠春の寝台に勝手に腰を下ろして本を広げた。

「あ、あんまり乱暴に扱わないで……」

 金の瞳が複雑に絡んだ筆の跡を追って動き回り、狻猊は諦めたように寝台に本を投げ出した。


「読めるけど読めねえな。文官の中でも相当高位の奴しか使わねえ語で書いてやがる。本当に大衆小説かよ」

 紅運は狻猊の手から本を取り上げる。

「勝手に他人の物を盗るな」

 古書が翠春の手に帰っても、狻猊は本の背をじっと眺めていた。


「気になるのか?」

 紅運の問いにも応えず、狻猊は黙り込んでいる。青燕が埃で汚れた手を叩いた。

「ふたりも来たし、休憩しようか。僕もどんな話か気になるな。翠春、読んでくれる?」

 翠春は小さく頷いた。



 侍従が四つの茶器を乗せた盆を運んできた。

 皇子たちは蓮葉茶を啜りながら、本と煤を押し退けた空間に腰を下ろす。


「二百年より前からいる大魔に聞かせるのは恥ずかしいんだけど……」

 翠春は戸惑いながら本を開いた。

「構わずどうぞ。気に要らねえ誤謬があったら勝手に焼くからよ」

「狻猊!」

 青燕が笑いながら拳を握る。

「大丈夫だよ、火消しなら任せて!」

「焼かれないのが一番いいんだが……」

 かぶりを振った紅運を横目に、翠春が口を開いた。



「この題は『龍星九子説話』。分類では二百年前の始龍との戦いを描く鉄騎児……軍記なんだけど、戦いより王宮での描写が多いし、当時の高官でも知らないような皇族の日常が仔細に描かれている奇書の類なんだ」

 青燕が頷く。

「不思議だね。皇帝の侍従か誰かが書いたのかな」

「うん、そのくらい詳しい。あと、その……」

 翠春は紅運と狻猊に目を向けた。

「二百年前の逆徒、紅雷こうらいについて好意的に書かれてるんだ」


 紅運は息を呑む。

「どういうことだ……」

「通俗小説で屠紅雷を英雄とするものも偶にあるけど、普通はどれも庶民のお巫山戯の域を出ないものだよ。でも、本作では彼を謙虚で自己犠牲的な青年として描いてる。類を見ない書き方だ」


 狻猊は無言で青磁器の茶の表面を見つめていた。紅運はその骨張った手首をそっと握る。



 青燕は努めて明るく言った。

「他の皇子はどんな風に書かれてるの?」

 翠春は不安げな少し表情を和らげた。

「面白いよ。今とは全然違う。例えば、三男の橙和とうわは最も温厚な皇子と謳われた琴の名手。春の園遊会では音の大魔を使った演奏を行って、平民たちも音色を聴いたんだって」

橙志とうしと正反対だな……」


白凰はくおう帝は白雄兄さんに近いかな。出自に捉われず能力を重視した登用や、正しい税制のため戸籍を整えた政治的手腕が高く評価されたんだ」

「僕も知ってる。重力の大魔を使った空中庭園を造った皇帝だよね。皇位を息子に譲った後はそこに隠遁して、家族以外誰も立ち入らせず暮らしたって」

「それには闇を感じなくもないが……」


「それから……」

 翠春は本に視線を落とした。

「青燕兄さんと同じ大魔を持つ青泉せいせんも全然違う。最も苛烈で冷酷な皇子とされて恐れられてたんだ」

 狻猊が小さく息を呑む音が聞こえた。


「代々水の大魔を使う皇子は最も大魔の扱いに長けると言われるんだけど、彼の使い方は酷かった。水温を上下させ、氷の防壁を作ったり、河を蒸発させたり。妖魔を狩るだけじゃなく、敵対する民族や逆賊の土地には、干魃や洪水も起こしたんだって」

 青燕は眉を曇らせる。

「そんなひとなんだ……」


「ちょうど今開いてる章にも出てくるよ。時期は大寒。第五皇子の黄明おうめいが始龍との戦いで命を落として、兵士たちがその責を問われる場面だね」


 紅運は狻猊の表情を盗み見る。赤毛に隠れた瞳は遥か遠くを見つめていた。



 ***



 宮殿の外では剣のような細雪の混じった暴風が吼えていた。


 鎧姿の兵士たちは皆、黒い帷子に雪の白を絡ませ、宮殿の前に片膝をついていた。彼らの震えは寒さによるものだけではない。

 平伏する兵士たちの前にいるのは、雪の化身の如く蒼白な顔で、青の礼服に毛皮すら纏わず佇む第六皇子・青泉だった。


「連帯で責を負い、皆で凍え死ぬつもりか?」

 青泉は雪が濡らす黒髪を掻き上げ、氷のような声で告げる。

「お前たちにそれほど殊勝な考えがあるとは思えんが」

 手足の感覚を失った兵士の幾人かが倒れ伏す。青泉は錫杖で彼らの足を打って立ち直させた。


「言え、我が弟を死に追いやったのは誰の采配か? 右将軍、お前か?」

「恐れながら……」

 黒い髭と兜を雪で染めた武者が白い息を吐く。

「黄明殿下は皇太子殿下が撤退なさるお時間を稼ぐため、自ら始龍と一騎討ちを行い……」

「成程!」

 青泉は錫杖を鳴らして笑った。


「つまり、責は撤退が遅れた皇太子にあると! 大胆な陳述だ。剰え、お前たちは第五皇子を囮に使い、みすみす敵を躱して逃げ果せたという訳だ。ここまで素直だとかえって小気味いい。国軍は逆徒の巣窟か」

 右将軍は乾いて血が滲んだ唇を噛む。


 青泉は錫杖を鳴らして雪を蹴った。

「宜しい。誠にお前たち皆に責がある訳だ。ならば……」

「青泉兄上」

 吹雪に掻き消されそうな声が響いた。


 赤い衣の青年が寒風に身を震わせながら、青泉の背後から現れた。彼は癖のある黒髪は雪に濡らし、下民のように俯いて述べた。

「黄明兄上の死は誰のせいでもありません」


「紅雷」

 青泉は呆れたように息を吐く。

「お前が意見するとは珍しい。奴らを庇い立てするのか?」

 紅雷は俯いたまま続ける。

「兄上の遺詔が見つかりました。戦場で我が果てた際は己の非力のみが所以。誰にも籍を問うなとのことです」

 凍えた兵士たちが顔を上げる。青泉は口元を扇で隠し、溜息をついた。

「つまらん」


 第六皇子が青衣を翻した途端、吹雪が止み、曇天の空は凪いだように無風となった。

 兵士たちは震えながら覚束ない足で立ち上がる。

 紅雷は彼らを見て目を伏せ、青泉の跡を追った。



 炉暖に火が灯された宮殿は、外とは別世界のように暖かかった。

 竹編みの窓の外から、第三皇子の橙和が兵士たちに手を貸し、殿の内部に導くのが見える。


 紅雷は項垂れたまま、廊下を歩む青泉の後を進んだ。

 背を向けた青泉が低く呟く。

「つまらん男だな、紅雷。度胸もないのにひと死には嫌う。それも気弱さ故か」

「申し訳ございません」

「すぐ認めるところもつまらん」

「本当のことですので」



 辿り着いたのは、青泉の自室だった。

 少し迷って足を踏み入れた紅雷に、彪の毛皮が投げつけられた。

「兄上がお召しになってください」

 青泉は濡れた衣を脱ぎ捨てながら言う。

「下民のように凍えた面をして貧相だ。被っておけ。俺の吹雪の中に割って入るとは」

「申し訳ありません」

 紅雷は毛皮で濡れた髪を拭った。

 炉火で熱された白彪の毛は生きているように温かかった。


「俺にかけてくださる情けを兵士たちにも少し分け与えては?」

「お前は従順だ。不遜の兵と同様に扱えと?」

 紅雷は苦笑する。

「お気持ちはわかります。兄弟の死に対する怒りと悲しみは、当てる場所がなければ耐えられませんから」

 青泉は諸肌脱ぎで眉を顰めた。

「知ったような口を」

 紅雷は目を伏せて謝意を示した。


 青泉は侍従も呼ばず、新しい衣を羽織った。

「その通りだ。黄明は明朗快活。俺のことも慕っていた。兄弟皆が持て余す俺を」

「兄上の手腕には皆敬意を払っております。時折、苛烈すぎるだけで……」

「今では兄たちも皆俺から目を背ける。何を言われてもついて回るのはお前くらいのものだ」

 口角を吊り上げる兄に、紅雷は笑みを返した。



 青泉は椅子に腰を下ろした。

「そのお前もいなくなる」

 紅雷は瞑目する。

「本当に貪食の儀を行うつもりか」

「はい、俺は一番失って痛手のない人間です」

 青泉は舌打ちし、窓の外を睨んだ。

「俺の話相手はどうなる。つまらんお前でもいた方がました」


 紅雷は答えなかった。

 彼の臣籍降下が受理され、屠姓を名乗る日は翌日に迫っていた。



 外は先程の荒々しい吹雪と異なる綿雪が降っていた。

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