間章:継承戦前夜祭〜祭後〜

 龍舟競漕の後も、祭りは続いた。



 明日から来賓を招く及時雨殿も、今は皇族だけの酒宴が開かれていた。

 朱の卓は金の器や水差しを反射して輝く。竹編みの窓の向こうには張子の飾りが七色の彩りを煌めかせていた。



 末席に座る紅運こううんの隣に黄禁おうきんが椅子を寄せた。

「黄禁、席が違うぞ」

「そうか? 今日はまだふたりで行動するものだと思っていたのだが」

 ぼんやりと笑う黄禁に、紅運も呆れて苦笑を返す。


「決まりじゃないんだ。気にするなよ」

「俺は来たくて来たのだぞ。これを渡したくてな」

 黄禁は一目で王宮のものでないとわかる、黄ばんだ麻袋を押し付けた。


「何だこれ……」

 袋を紐解くと、市場で買った月餅や揚菓子、杏仁酥などが溢れていた。紅運は目を見張る。

「自分の分まで妓楼に置き忘れるところだった」

「よかったな。取りに行くとまた兄上に呑まされるからな」

「……ありがとう」



 黄禁が席を立ったとき、皇妃、皇女たちも宴の間に入ってきた。


 青燕せいえんが腰を浮かせる。

「母上!」

 緋の暖簾を潜った江妃こうひは酒瓶をふたつ抱えていた。

「もう始まっているかしら。紫玉しぎょく様が東南のお酒を取り寄せてくださったのよ! 皆でいただきましょう。楽しみだわ」

 背後の紫玉が眉を下げる。

「そんな大したものじゃないんですよ。兄さんがもらってきたもので……」


 紫釉しゆうが椅子から身を乗り出した。

「どっかの大使の貢物だな。何が入ってるかわからないけど、みんなで回して飲めば毒も薄まるだろ」

「兄さん、悪い冗談はよして!」


 妹に肩を小突かれて、紫釉は危うく椅子から落ちかける。

 黄禁が卓上の銀の杯に手を伸ばした。

「では、俺が先に飲もう。毒にも呪いにも慣れているからな」

「お前の話はいちいち重くて暗いんだよ」

 今度は紫釉に小突かれた黄禁の椅子が大きく音を立てた。


 喧騒を横目に、青燕が心配そうに呟く。

「母上、また呑みすぎたら駄目だよ」

「あら、少しなら大丈夫よ」

「母上はそんなにお酒に強くないんだから」

「だって、皆様と呑むと楽しいんだもの!」

 江妃は息子に似た屈託のない笑みを浮かべ、酒瓶を抱きしめた。



 女官が円卓を回し、次々と酒が注がれる。

 紅運は溜息をつく青燕を見上げた。

「青燕は呑まないのか?」

「少しは呑むよ。でも、僕も母上に似てあまり強くないからね。みんなの世話をしてる方がちょうどいいんだ」

 紫玉が控えめに微笑んだ。

「私もです。だいたい酔い潰れた兄さんの回収係なの」

「ふたりがいるお陰で酒宴は何とかなってるんだな」


 宴の間に瑶琴の調べが響き、漆塗りの雲海が施された天井に反響する。

 円舞も余興もない酒宴だが、長い戦乱をようやく終えた皇族たちには華やかな雰囲気が流れていた。


 上座の白雄はくゆうは、紫釉に波波と注がれた酒盃を差し出され、微笑を浮かべた。

「あまり強い酒はやめておきましょう。まだ仕事も残っていますから」

「硬いこと言うなよ。祭りの日ぐらい休もうぜ」

 紫玉が肩を竦める。

「兄さんも少しは見習ったらどう?」


 白雄が困ったように眉を下げたのを見て、藍栄がその盃を奪った。

「では、代わりに私がいただこうかな」

 喉を鳴らして勢いよく酒を煽る藍栄らんえいに紫釉が歓声を上げる。

「すごいな。妓楼で俺より飲んでたのに」

「兄さん、また妓楼に行ったの!」


 紅運は遠くの席から様子を見ながら苦笑した。

 恐らく、白雄は酒に強くないのだろう。催事のとき、白雄は自分が飲むよりも周囲に気を配っているように見えたが、悪酒に酔うのを避けるためだったと今はわかる。

「皇太子は大変だな……」


 呟いた紅運の前の卓が音を立てて揺れた。

 見上げると、香橙こうとうが弟によく似た鋭い眦で、酒瓶を金棒のように卓に突き立てていた。

「香橙公主……」

「敬称などなくて構いません。今宵は無礼講です」

 橙志とうしとは違い、目を細めて笑う仕草に紅運は面食らう。


「私も夫からの手土産の酒を持参しました」

 彼女が携えた酒瓶には『屠龍剣』と書かれていた。

「強そうな酒だな……」

「始龍討伐に尽力した貴方に相応しいでしょう。お飲みなさい。さあ、貴方も」


 香橙に急に呼びかけられ、隅にいた翠春すいしゅんが身を竦める。

「おれ、酒は全然……」

「貴方はこれから政に関わるのでしょう。六部での付き合いは酒が呑めねば始まりません。さあ、一杯」


 金の盃に注がれた酒の雫が跳ねる。

 紅運と翠春は顔を見合わせた。


 盃の底が見えないほど濁った酒は、乳香のような臭いがする。

 紅運は意を決して盃を口元に近づけ、一口啜った。

 酒が喉を下るより早く頭を殴りつけられたような衝撃が脳に走った。


 紅運は椅子からずり落ちかけて、卓に縋りついた。

「本当に酒か? 毒ではなく……?」

 香橙は眉ひとつ動かさず酒を飲んでいる。歪んだ視界に青ざめる翠春が映った。



「紅運、翠春」

 耳鳴りが響く脳に橙志の低い声が響いた。彼は無表情に盃を携えて言った。

「先ほどの宝物庫の展示について話がある。来い」


 紅運は這うようにして橙志の元へ向かった。

 おずおずと移動する翠春に、香橙が惜しげな視線を向けた。

 紅運は橙志の隣に腰を下ろした。

「話って……?」

「ない」

「ない?」

 唖然とする紅運に、橙志は沈痛な面持ちで首を振った。


「逃げておけ。姉上の趣味は……飲み比べで相手を潰すことだ」

「本当か?」

「禁軍の一衛を全員潰して呑み続けられる、大蛇のような女人だ。捕まったら終わりだぞ」

「誰が大蛇です」


 香橙が酒瓶を持ったまま、三人を見下ろしていた。橙志は重たい息を吐く。

「酒の相手なら俺が」

「貴方は私に似ていくら呑んでも潰れないのですから面白くありません」

「姉上、弟を玩具にするのは……」

「紫釉殿下を呼びましょうか。彼は酔い潰れても、吐いてまた飲みに戻るので面白いのですよ」


 橙志と紅運は同時にこめかみを抑えた。

 翠春が宴の間を見回し、縋るような声を上げた。

「青燕兄さん……」


 遠くの席から青燕の声が返る。

「どうしたの、翠春? ちょっと待っててね。こっちを片付けたらすぐ行くから……母上、紫玉公主に絡むのはやめてよ!」

「いいではありませんか! 紫玉様もお嫌じゃないわよね?」

 江妃は顔を赤くし、衣の片袖もはだけた状態で、紫玉の肩を組んでいた。紫玉は困ったように微笑む。


「ええ、勿論……」

「でしょう! ねえ、後宮で育てている蚕から絹が採れるのよ。私が衣を仕立ててあげましょうね。何色がいいかしら?」

「私は皆様のような衣は似合いませんから……」

「そんなことないわ! でも、貴女なら太陽のような黄色か、いっそ濃い夜空のような青か藍色も……」

「母上、困ってるじゃないか!」

「何です、私の仕立てた絹が着られないというのですか!」


 香橙が口角を吊り上げてそちらに視線を向けた。

「彼方は楽しそうですね」

 彼女が武器のように酒瓶を携えて消えると、同時に何かが倒れる大きな音が響いた。

「まずい、黄禁が無言で倒れた!」

「兄さん、何を飲んだのさ!」


 上座は酒を運ぶ女官たちが行き交う。

「白雄、君も少しくらい飲むといい」

「ええ、飲んでいますが……先程のことを忘れていませんか? 藍栄、酔っているでしょう」



 騒がしい広間を見渡しながら、紅運は僅かに目を伏せる。

 七番目の席には空の器だけが冷えたまま据え置かれていた。


 紅運の膝から、先程黄禁に渡された麻袋が落ちかけた。紅運はそれを持ち直し、立ち上がった。

「すぐ戻る」

 橙志は視線を上げただけだった。


 緋の暖簾を潜ると、瑤琴の音と騒ぎ声だけが紅運の背を追いかけてきた。



 反響する声を聞きながら、紅運は駆け足で自室に戻った。

 琴児きんじが驚いた顔で出迎える。

「お早いお帰りでしたね。もうお休みですか。それとも、すぐ戻るのでしたら酔い覚ましのお茶を淹れましょうか」


 喧騒とは無縁の穏やかな微笑に、紅運は頷き返す。

 少し前までなら、琴児は何も聞かず寝支度を整えただろう。

「いや、大丈夫だ。これを渡しに来ただけだから」

 紅運は麻袋を差し出した。琴児は少し戸惑って包みを受け取る。

「まあ、これは……」

「祭りの土産だ。琴児の分だから。もう冷めてるかもしれないが……」


 紅運は答えを聞くまでに踵を返して廊下に飛び出し、一度迷って向き直った。

「今度は一緒に」

 閉まりかけた扉の向こうで琴児が深く礼を返すのが見えた。



 紅運は喧騒も響かなくなった廊下の隅に腰を下ろした。

 静けさが染み出す闇の中でも、窓の向こうからの炎のような輝きが僅かに見えた。紅運は麻袋から取っておいた月餅をふたつ懐から取り出す。


狻猊さんげい

 祭りの明かりより激しく獰猛な赤い炎が輝いた。

「せっかくの宴だってのに、お前は隅っこのはぐれ皇子のままかぁ?」


「うるさい……張子の中に狻猊の飾りもあったぞ」

「へえ、破国の炎魔をわざわざ飾るとは。皇太子は継承戦に不幸を呼び込む気かよ」


 紅運は犬歯を覗かせた狻猊を小突いて隣に座らせる。狻猊が腰を下ろすと、冷たい廊下に仄かな熱が広がった。

 紅運は無言で月餅のひとつを押し付けた。

「お前の分だ」


 狻猊は金眼を丸くした。紅運は月餅にかぶりつく。酒で痺れた舌に餡の重い甘みが広がった。

 狻猊はもらった月餅を片手で弄んだ。

「祭りの日に化け物に構うなよ」

「その化け物がいなきゃ、俺はこんなに祭りで遊べるようにならなかった」


 狻猊は諦めたように息を漏らして月餅を割った。

「ガキには酒より菓子の方が似合いだな」

 紅運は肩を竦める。



 宮殿の庭から夜空に花火が上がるのが見えた。

 宴は夜明けまで続くのだろう。

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