間章:継承戦前夜祭〜舟祭〜
皇子たちは飾りに縁取られた大路を進んでいた。
張子の龍や虎には灯火が灯され、鮮やかな装飾が夜闇に浮かび上がるように煌めいていた。
「そういえば、催しとは何だ?」
「まず楽隊の演奏に、芸人たちの演舞。これは定番だが、今夜の目玉は何と言っても青燕が出る龍舟競漕だね」
「龍舟競漕って……」
「競艇だよ。龍の飾りの船で最も速く三周できる者を競うのさ。父上が病に臥せってからはあまり行なわれなくなったがね」
「漕ぎ手の腕だけじゃなく水流や水温なんかで勝負が読めないから、毎回いい賭けになるんだよな」
「愚か者。我が国の水軍が主催で行う儀礼で皇子が賭けをしたのか」
「祟られても知らないよ。龍舟競漕は元は入水した水軍の将への慰霊で始まった神儀なんだから……」
「言うようになったな、翠春。それだけ喋れるなら妓楼に連れてってやろうか。教養人はモテるぜ」
紫釉に肩を組まれてもがく翠春を横目に、
「呪われたら俺が祓ってやろう」
紅運は溜息をつく。
「呪われる前提で話すな。じゃあ、
答えの代わりに、砲声のような響きが聞こえた。
紅運はいつの間にか、以前訪れた湖の滸まで来ていたことに気づく。
膝まであった葦は刈られ、燈籠の光を鏡面のように反射する湖水が金波銀波と輝いていた。
滸には金を貼られた龍首と龍尾を持つ細長い舟が並んでいる。
「すごいな……」
感嘆する紅運の前をひとびとが忙しなく行き交う。晩冬だが暑そうに袖を捲り上げた人間たちの中には、金髪や褐色の肌が混じっていた。
黄禁が首を傾げた。
「あれは異国からの挑戦者か?」
橙志が頷いた。
「皆、六部と禁軍が精査した継承戦の参加者だ。今宵の競艇が前哨戦となるだろうな」
藍栄がかぶりを振った。
「楽しい催しだが我が国の権威を見せる必要もある。宮廷とは難儀なものだね」
参加者たちの間から、皇子たちに手を振る影が見えた。
「みんな、もう集まっていたんだね!」
青燕が水で濡れた衣を絞りながら駆け寄ってくる。その背後の白雄が微笑を浮かべた。
「祭りは如何でしたか」
藍栄が答える。
「我々は存分に楽しんださ。君たちこそ時間はあったかい?」
「ええ、少しですが青燕と城下を見てきましたよ」
「びっくりしたよ。白雄兄さんが露店の支払いに翡翠を使おうとするんだもの。あのお店が百軒は買えるくらいの高級品をさ」
白雄は眉を下げて苦笑した。紅運はふたりを見比べる。
「他の参加者はひとつの船に大勢集まってるけど、青燕は誰と船に乗るんだ?」
「本当なら僕ひとりだよ。水の大魔がいるからね。でも、今日は特別。白雄兄さんも飛び入りで参加するんだ!」
「白雄が……?」
横目で見た白雄の微笑には僅かな翳りがあった。
「ええ、私は出るべきではないと言ったのですが……競艇の技術は一朝一夕で身につくものではありませんし……」
「そんなことない! 兄さんが出たらきっとみんな驚くし、他の参加者も俄然やる気を出してくれるよ!」
拳を固める青燕に、白雄は笑顔で頷きつつ、藍栄にそっと歩み寄って囁いた。
「……藍栄、髪の染め粉はまだありますか?」
「替らないよ、白雄。腹を括った方がいい」
目を逸らす白雄を見て、紅運は誰にも気づかれないよう呟いた。
「大丈夫だろうか……」
紅運の不安をよそに、湖の周りに篝火が焚かれ、水面は燃えるように煌めいた。
皇子たちは二階建ての櫓に上り、無数の龍が首を並べる湖面を見下ろした。
龍舟には十八人の漕ぎ手が乗り、舟の動きを支持する太鼓手が鼓を手にして先頭に乗る。
一際輝きを放つ龍舟には青燕と白雄だけが乗っていた。櫓の真下から声が響いた。
「舟の操作は僕がするから、兄さんは太鼓で号令を出してくれればいいんだ。落ちそうになったら舟縁に捕まって」
「落ちることがあるのですか?」
「兄さんなら大丈夫だよ!」
声しか聞こえない白雄の表情を想像し、紅運は眉間を抑えた。
「大丈夫じゃなさそうだ……」
傍の橙志が視線を投げた。
「やけに白雄兄上を案じているな」
「いや、その、白雄は腕が……」
紅運は狼狽える。白雄の虚勢の裏を知っているのは己と藍栄だけだ。
「あまり気に病むな。あの傷はお前を庇ったせいではない」
硬い掌が紅運の肩を強く叩いた。紅運は曖昧に頷いた。
龍舟競漕の開始を報せる銅鑼の音が響いた。
櫓の縁から、水上を滑る舟たちが姿を現し、色とりどりの竜が泳ぎ出したように並ぶ。
金の龍舟に立つ皇太子の姿を見て、観客や参加者から歓声が上がった。白雄は傷ついた腕を隠し、観客に向かって凛然と一礼した。
紅運は冷や汗が滲む手を腹に擦りつける。
再び銅鑼の音が響いた。
怒涛の波が龍舟を覆い隠した。白い飛沫に篝火の赤が反射し、紅白の幕となって聳り立つ。
紅運が息を呑む間に、龍の首が水の壁を割って突出した。荒れる波に争いながら飛び出したのは金の龍だった。
「青燕兄さん!」
翠春が櫓から身を乗り出す。
青燕の舟は前方にかかる重心で殆ど縦に傾きながら先頭を駆けていた。後方に飛び散る水飛沫は真後ろの船を牽制し、水流を変える。
「青燕の奴、イカれてんな」
紫釉は呆れたように呟いた。
荒々しい波濤を繰り出す青燕は、嫋やかな容姿に似合わない獰猛な笑みを浮かべている。白雄は片手で舟板を抑えながら後方に座していた。
白雄の手を離れた鼓が船外に投げ出されて波に消えた。
「太鼓手の必要がないじゃないか!」
紅運は思わず声を上げた。
先頭を占領する青燕の舟に一艘の龍舟が接近した。
黒い漆塗りの龍舟は左右九人の漕ぎ手が一糸乱れぬ動きで櫂を操り、青燕たちの後をぴったりと追う。
橙志が目を細めた。
「あれは漁師の一族だったか」
紫釉が煙管を片手に笑う。
「競艇らしくなってきたな」
「まさか、また賭けているのか」
金の龍舟は一周を終え、二周目に差し掛かった。
黒い舟もそれに続く。
青燕は更に速度を上げた。揺られる船上で、白雄は平静を繕っていたが、濡れた黒髪が貼りつく頬は青白い。
女官が皇子たちに酒盃を運んできたが、紅運は受け取るのも忘れて湖を見守った。
「でも、このままいけば……」
「いや、厳しいぞ」
黄禁が低く呟いた。
金と黒の龍舟の他、質素な鈍色の舟が進み出していた。
水面を殴りつけるように櫂を操る漕ぎ手たちの肌は日焼けで浅黒い。鈍色の龍舟は金の舟の真横につき、体当たりするように船を傾けた。
波が畝り、青燕の船が大きく揺れる。
「反則じゃないか!?」
叫んだ紅運に橙志が首を振る。
「舟に直接触れていないから規則では問題ない」
「東南からの挑戦者かな。随分と荒々しい。あちらも前哨戦と理解している訳だ」
藍栄の白濁した瞳が鈍く輝き、大魔の権能で凝視しているのだと紅運は思う。
黄禁が微笑んだ。
「まあ、ふたりならば大丈夫だろう」
湖は無数の白線を描いたように舟の軌跡で渦を巻いた。
金の龍舟と鈍色の龍舟は競り合いながら三周目に差し掛かる。
船首に立つ青燕は険しい表情で船を操った。速度を犠牲にして左右に蛇行する動きは、荒波で鈍色の舟を牽制する。異国の選手たちは衝撃をいなしながら皇子の舟を追った。
「青燕、白雄……」
紅運は思わず櫓の手すりを握りしめた。
激しく揺れる金の龍舟の上で、白雄が舟縁を掴んだ。落下を恐れたかのように見えたが、白雄はそのまま背筋を伸ばし、悠然と立ち上がった。
「青燕、他者を妨げるのは貴人の戦いではありません。我らの敵は荒波と命運のみ。躊躇わず進みなさい!」
涼やかな声は波音にも負けず響いた。
紅運たちから青燕の表情は見えなかったが、金の龍舟が蛇行を止め、一直線に進み出したのが答えだった。
観客から割れるような歓声が上がった。龍舟は飛沫と波を蹴立てて応える。
紅運は思わず笑った。
「そうか、こんなことぐらいで今更白雄は折れないよな……」
先頭の三艘はもつれあいながら競い、決着を目指した。
櫓に侍る女官や家臣からも声援が上がる。皇子たちも口々に金の龍舟を急かした。
紅運は手すりを手放し、口元に手をやってから思う。
少し前の自分なら、この櫓に上がろうとも思わなかっただろう。
紅運は息を吸った。
「負けるな!」
金の龍舟が、決勝線を超えた。
紅運たちが櫓を降りると、選手たちが滸に並んでいた。
激しく競い合った鈍色の舟の漕ぎ手たちは、次々に青燕、白雄と握手を交わしている。ずぶ濡れの選手たちは篝火の熱に当てられ、衣から湯気を立ち上らせていた。
彼らが去り、青燕は観客に囲まれながら紅運たちに手を振った。紅運は小さく手を振り返す。
藍栄が唇だけを動かし、白雄に言った。
「やったじゃないか」
白雄は声には出さず答える。
「当然です」
いつもの完璧な微笑だった。
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