間章:継承戦前夜祭〜芸祭〜
妓楼を後にした頃には夜になっていた。
「切り上げてよかったのか?」
「ああ、夜から宮廷で催し物があるからね」
「ガキ連れで行くところじゃないしな」
「妓楼にそんな鉄板みたいな耳飾りつけて行く奴なんかいないぜ。マシなもの買ってやろうか」
「行きたくて行ったんじゃない。これは
紅運は泰山に赴く際に与えられた耳飾りに触れた。
「そういえば」と、藍栄が呟く。
「橙志と
「きっと翠春は取って食われるって怯えてるぜ。可哀想に。もう食われたかもな」
「橙志兄上は化け物ではないぞ。上背があって、言動に容赦がなく、眼光が殺人的なだけで……」
「より悪いこと言ってるぞ。黄禁」
紅運は溜息をついた。
「宮殿に戻るついでに見に行こう」
祭りは更に盛況さを増し、大道芸人が張子の獅子を操りながら燈籠の下を練り歩き、商人が声を張り上げていた。
宮殿に戻ると、警備の兵士が屯していた。紅運はその中に橙志の副官・
「忙しいときに悪い。橙志はどこにいるかわかるか?」
「師範なら先程まで警備の配置の件で席を外していらっしゃいましたが、もう及時雨殿にお戻りですよ」
「祭りに行っていないのか?」
紫釉が唇の端を吊り上げた。
「思った通りだな」
いつもは今頃夕食の支度で賑わう及時雨殿は、女官たちも祭りに出て、静まり返っていた。
足音がやけに響く朱塗りの廊下を抜けると、暗がりの中にふたつの影が見えた。
紅運は身を潜めて様子を伺う。兄たちも入口の陰から中を覗いた。
橙志は部屋の中央に立ち、無言で腕を組んでいた。翠春は隅の壁に貼りついている。
「ふたりは何をしているのだ?」
「何もしていない」
藍栄が目を丸くした。
「まさかあの後からずっとこうかい?」
「あ、翠春が本を読み始めた」
翠春は橙志の様子を伺いながら、懐から取り出した本を開いた。古書を捲る乾いた音が響き、橙志が視線を動かす。
「本を読んでいるのか」
翠春は身を竦めて本を閉じた。
「ご、ごめん……」
「何故謝る」
再び重苦しい沈黙が流れ、本を捲る音すら響かなくなった。
紅運は呻きを漏らした。
「まずいな。翠春は萎縮して喋れないだろうし、橙志はたぶん沈黙を気まずいと思う神経がない」
紫釉が苦笑した。
「葬式かよ」
「喪に服しているのだな」
「阿呆か」
紫釉が黄禁を小突いた音が大きく響いた。橙志が素早く入口を睨む。兄たちは咄嗟に身を隠し、紅運だけが橙志と視線を交錯させた。
「あ……」
橙志は無言のまま耳元に手をやった。紅運の耳飾りが細い音を立てる。
「何の音だい?」
藍栄が首を傾げた。
「音の大魔の通信だ。軍で使う符牒で……」
「今の意味は?」
「至急援軍を送られたし、だ」
紫釉が紅運の肩を叩いた。
「頑張れよ、猛獣使い」
抵抗する間もなく押し出され、紅運は奥の間に飛び込んだ。
「紫釉!」
暗がりを睨んだが、既に兄たちの姿はない。
「逃げ足の速い……」
ぼやく紅運を、翠春が縋るような目で見上げた。紅運は狼狽えながら上ずった声を上げる。
「ええと、偶然だな。祭りを見終わって戻ってきたんだが……」
「夜からは催しがあるからな。遊びは程々が適当だ」
橙志は平然と答える。紅運は恨めしげな目を向けて、彼の耳元に近寄った。
「助け舟を送れと言ったのに! 翠春を祭りに連れて行かないのか」
橙志は太い眉を寄せて黙りこくった。
微かな衣擦れの音が響き、本を抱えた翠春が身体を向ける。
「紅運が来たならもういい?」
「ど、どこに行くんだ」
「別に……宝物庫で父上の収集品の展示をしているから見にいこうかなって。宮殿の中なら催しにも間に合うし……」
「いいだろう」
橙志は衣を翻した。颯爽と廊下へ歩み出す彼を背を見て、翠春が呆然と呟いた。
「橙志兄さんも行くの?」
「そうじゃないか……」
「今の流れで……?」
「ああ……」
ふたりは視線を交わし、及時雨殿を後にした。
宝物庫の前には張子の飾りはなく、貴重な芸術を傷めないよう、覆いを被せた仄かな明かりが焚かれていた。
辺りにひとは少なく、絵を眺める文官がまばらにいるだけだった。
紅運は宝物庫の入口を塞ぐ大きな屏風を見上げた。古びた紙には幾つもの筆跡を連ねて黒い山稜が描かれていた。
「思っていたより古いし、地味だし」
「わかってないな」
紅運の隣に並んだ翠春が口を開いた。
「この頃の山水画は教養ある文人士大夫によって描かれてたんだよ。絵ではなく書の心得を用いているから、派手な絵具を使わなくても楕円形の墨点を重ねて濃淡だけで山岳の風景を表せる。代表的な山水画家は皆、文筆家や書家を兼業していて、この絵は……」
堰を切って流れる言葉の奔流に、紅運は呆気に取られた。
「そ、そうか。すごいな」
「無理しなくていいよ。おれの話はつまらないから」
翠春は俯いて宝物庫へと歩き出した。橙志は変わらず無表情で屏風を眺めていた。
「あの、翠春が行ってしまったが……」
「そうか」
橙志は短く答えて、翠春の消えた方へと向かった。
「もう辛くなってきた……」
紅運は溜息混じりに呟き、ふたりの後を追った。
数々の絵画に囲まれた回廊は埃と墨の匂いが満ちていた。沈黙に耐えかねて、紅運は翠春を見る。
「よかったら、また解説してくれないか?」
「いいけど……」
翠春は次々と絵画を指した。
「これは三遠の法の代表例として挙げられて、三遠とは仰角、水平、俯瞰のことで、その三つを一枚に盛り込むことで独自の遠近法を……」
「すごいな……」
「現在の画壇の原型を作った画家によれば『画を論じるに形似を以てするは、見児童と隣す』。つまり、形に捉われないものを描き出すべきで、彼のこの絵からも……」
「詳しいな……」
「
「知らなかった……」
紅運が気圧されていると、翠春は口を噤んだ。
「やっぱりつまらないよね」
「いや、悪い。俺がもっと詳しければ……」
「別に……」
翠春は前方の壁に貼られた一連の水墨画と向き合った。薄墨で桃の花園を描いた絵は風が吹けば綻びそうなほど古びていた。
紅運はいつの間にか隣にいた橙志を見上げた。
「俺にばかり頑張らせないでくれ」
彼の横顔は黒眼帯で半分ほど隠され、表情が読めない。
「橙志!」
「……わかった」
橙志は一歩踏み出た。
足音を聞いた翠春が口を開いた。
「これは建国神話を元にした全部で百八枚の大作で……」
彼は隣にいるのが紅運ではなく橙志だと気づいて息を呑んだ。青ざめる翠春には目を向けず、橙志は絵画を見つめて言った。
「これは神話そのものではなく、それを元にした百年前の詩集『金王連歌』では?」
「知ってるの……?」
翠春は長い前髪で隠れた顔を上げる。
「神話で金王が龍に宣戦布告するのは宮殿だが、連歌では東の桃園に改変されている。描かれているのはその場面だろう」
「うん……文人たちは季節が合わないって批判するけど、古来の暦と照合すると初春に当たるから正しいんだ。前の章では雪夜の詩があるし……」
「冬に戦火で焼かれた都に降る灰を雪に例えた歌だな」
「作者は軍の書記だったから戦争の描写が生々しいよね。音韻も当時では珍しいし……」
翠春は表情を綻ばせた。
「詳しいんだね」
橙志は片目を僅かに伏せ、息をついた。
「昔、藍栄からよく詩歌を教えられた。その内、藍栄は本を読まないどころか宮殿にも居つかなくなったがな。習慣だけが俺に残った」
「おれも……昔、母上が寝る前によく読み聞かせてくれたんだ」
翠春は小さく笑って橙志を見た。
「兄さんと詩の話ができるなんて思わなかったな……その、ごめん、意外で……」
「口下手な自覚はある。幾ら本を読もうが何を言えばいいかわからん」
「おれもだよ」
ふたりの後ろで、紅運はかぶりを振った。
「もっと勉強しておけばよかったな……」
僅かな疎外感に、兄弟との会話もなかった頃を思い出して紅運は俯く。
回廊の仄暗さと静寂が重く感じたとき、乾いた靴音が響いた。紅運の隣に戻った橙志は、屈んで耳元で声を潜めた。
「助かった」
「俺の助けなんていらなかったじゃないか」
「いや、お前と話すつもりでやったからできた。普段弟たちと話すことも少ないが、お前は勝手に寄ってくるからな」
紅運は思わず微笑みかけて我に返った。
「自覚があるなら……もう少し頑張ってくれ!」
橙志は眉間に皺を寄せてまた口を噤んだ。
「また黙る!」
一通り絵画を見終えた翠春が戻り、紅運の袖を掴んだ。
「翠春、どうした?」
彼は紅運の腕ごと持ち上げて壁の一角を指す。
「あれは絹に絵を描く帛画といって、戦国時代に皇帝を埋葬する際の副葬品として……」
「まだ続くのか!」
橙志は引き摺られる紅運を見送って、少しだけ口角を上げ、すぐに表情を打ち消した。
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