間章:継承戦前夜祭〜酒祭〜

 大通りを抜けると、燈籠の荘厳な灯火に代わって酒楼や妓楼の紊乱な明かりが流れ出してきた。



 二階建ての楼閣からは既に笑い声と典雅な音楽が流れている。


「まだ夜でもないのに……」

 紅運こううんは連なる朱塗りの屋根の向こうに見える夕陽を見上げて眉を下げた。黄禁おうきんは大量の果物や菓子を抱えて笑う。


「今日は祭りだからな。庶民に灯りは高価だ。宴も夜開くのは昼の二倍金が要るという。国の金で店を開けるのだから願ってもないのだろう」

「詳しいな」

紫釉しゆう兄上から聞いたのだ」


 紅運は黄禁の手から溢れ落ちた橙を拾った。

「半分持つ」

「悪いな」

「別にいい。それより、こんなに抱えて何処に向かってるんだ」

「もうすぐ兄上たちがよく行く妓楼がある。差し入れにいいだろう」

 呆れながら、紅運は聳え立つ妓楼を見上げた。



 ふたりが赤い暖簾を潜った途端、酒瓶を手にした妓女が華やいだ声を上げた。

「黄禁様! お久しぶりでございますね」

「そうだな。差し入れだ」

「まあ、こんなに沢山」


 紅運は、慣れた様子で菓子を手渡す黄禁に目を丸くした。

「馴染みなのか?」

「兄上が公務を抜け出したとき、よく探しに来ていたからな」

「あんたも苦労してるんだな」

 妓女は微笑んで朱塗りの階段を指した。

「いつもの奥の間です。ご案内しますね」


 階段を上り切ると、妓女たちの歓声に混じって聞き慣れた笑い声が聞こえた。

 紅運は溜息をついて雀と雲海が彫り抜かれた扉を開けた。


「黄禁様がいらっしゃったわ!」

 酒座には既に大量の酒瓶があり、沢山の妓女たちが侍っていた。紅衣の裾を舞わせる踊り子たちは、祭りの燈籠が女の姿をとったような華やかさだった。

 奥に座る藍栄あいえいと紫釉が手を上げた。


「やあ、本当に来るとは。珍しいね」

「もう黄禁を押しつけに来たのかよ」

 紅運は音楽と酒の匂いにふらつく頭を抑えた。

「商人に囲まれて大変だったんだぞ」


 黄禁は意に介さず笑っている。彼の袖を妓女が引いた。

「お久しぶりね。お座りになって。あら、そちらの方は?」

「弟の紅運だ」

「まあ、宮廷の影の支配者の?」

 紅運は青ざめる。

「こんなところにまで噂が流れているのか!」


 妓女たちが一斉に紅運を取り囲んだ。

「思っていたより小柄なのね。城門に届くほどの身の丈と聞いていたのに」

「変身するのよ。講談で聞いたわ」

「一太刀でお城を真っ二つにするのよね!」

「あれをやってくださる? 燃える髭の鬼武者になって口から火を吹くんでしょう!」

「できない、やったこともない!」


 逃げ回る紅運を指して紫釉が笑う。

「ああ、あいつはすごいぜ。巨大な燃える獅子を呼んで、宮殿を燃やして、『逆らう者は兄でも消し炭にする』と……」

「嘘をつかないでくれ!」


 藍栄が白髪を掻き上げて苦笑した。

「あまり弟を虐めるものじゃないよ。君も来るといい」

 紅運は冷や汗を拭いながら、藍栄のそばに座った。


 紫釉は瓶を傾けて、ふたつの盃に酒を注いだ。

「せっかく来たんだ。お前らも飲めよ」

 黄禁は受け取って一気に飲み干し、不思議そうな顔をした。

「妙な味だな。何の酒だ」

「飲み過ぎてもう何を飲んでるかわからない」

 紅運は溜息をつく。

「皇子がそれでいいのか……」

「飯や酒に拘ってたら外遊なんかできないぜ。俺なんか変な草の煙を吸って鼻血出してぶっ倒れたこともあるしな」

「いつか死ぬぞ……」


 盃に注がれた濁酒に歪んで映る自分の顔と睨み合う紅運の肩を藍栄が叩いた。

「嫌なら無理をすることはないよ。それより、遊びをしていたんだ。投壺といってね。君もやるかい?」

投壺とうこ?」


 紅運の前にひとりの妓女が持ち手のついた青磁の壺を運んできた。紫釉が木の棒で壺を叩く。

「西方じゃダーツって言うんだけどな。遠くからこの壺に矢みたいな棒を投げ込んで、入った点数を競うんだよ。最初に入れたら十点。次も入れたら五点」

「紫釉は私にやらせてくれないんだよ」

「藍栄さんがやったら百発百中だ。遊びにならないだろ」


 紅運は妓女に渡された棒を睨んだ。壺はいくつもの棒が当たった痕で細かな傷がついていた。

 紅運が狙いを定めている間に、黄禁は棒を手に取って投げ込んだ。


 青磁の表面に当たった棒がかん、と音を立てて跳ね返り、紫釉の頬を掠めて壁に突き刺さった。

「馬鹿!」

「すまない、兄上……跳ね返ったら何点なのだ?」

 妓女が袖で口元を抑えて笑う。

「十点です」

「黄禁、お前は零点だ。もう棒に触るなよ」


 喧騒を横目に、紅運は改めて棒を握った。

「よし……」

 狙いを定めて投げた棒は壺を大きく逸れて、座敷の奥に転がった。

「も、もう一度……」

 次に投げた棒は近くの酒瓶にぶつかり、酒を撒き散らした。

「あ……」


 沈黙と共に、妓女たちの困惑気味の視線が行き交う。紅運が俯いたとき、藍栄が立ち上がった。

「紅運、こんなときまで兄に気を遣うことはないよ」

 妓女たちが息を漏らし、表情を和らげた。

「そうよね。武闘派の皇子様が投壺が苦手なんて信じられないもの」

「ああ、彼は禁軍で上下関係を叩き込まれていてね。酒の場は無礼講だ。気にしなくてもいいというのに」

「藍栄……」

 呟いた紅運の手から藍栄が棒を取り上げた。


「では、代わりに私がやろうかな」

 手首をしならせて投擲された棒は、壺の細い持ち手の間をするりと通り抜けた。妓女たちから歓声が上がる。紫釉が歯を見せた。

「十点だな。ほら、ひとり勝ちだろ」

「偶には弓兵の甲斐性を見せなくてはね。さて、邪魔しても仕方ない。紅運、少し涼みに行こうか」

 藍栄が席を立つ。紅運は酒気に当てられてふらつきながら、後に続いた。



 酒席の間を抜けると、壁をくり抜いた透かし彫りの窓から燈籠の灯りが差し、廊下が燃えるように染まっていた。

 藍栄は宵の風に白髪を靡かせながら壁にもたれた。


「祭りは楽しめたかい?」

 紅運は彼の隣に並び、冷えた窓枠に後頭部をつけた。

「ああ、黄禁が俺を楽しませようと気を回してくれた」

「成程。それであの大荷物か」


 藍栄が笑うと、廊下の先から稲穂のような金髪に青い目の妓女が現れ、客間に消えた。紅運は目を見張る。

「西方の人間もいるんだな……」

「都一の妓楼だ。客も妓女も色々な場所から、色々なものを抱えた者たちが来るさ。それに関して、態々深く聞くこともない。だから、紫釉も宮殿よりこちらを好むのかもしれないな」


 藍栄は笑って窓の向こうに視線をやった。紺碧に染まり始めた空は狭く、ひしめく灯籠で殆ど隠されていた。



「すごい明かりだ。いつもこうならいいのだけれどね」

 紅運は兄の横顔を見上げた。

「私は全盲ではないと言っただろう? 昼間は物事の僅かな輪郭くらいは見える。だが、夜になると、全て闇に沈んで何も見えなくなるのさ。今でこそ夜の街に慣れ親しんだが、幼い頃は夜など来なければいいのにと思っていたよ」


 藍栄は濁った目で遠くを見つめた。

「……同じ双子でも違うものだな。昔の話だが、白雄はくゆうは逆だったらしい。永遠に朝が来なければと毎晩願っていたと零していたよ。昼間は大勢の前で皇太子として振る舞わなければならないからね」


 弾かれたように顔を上げた紅運に、藍栄が微笑んだ。

「君ももう彼の本当の姿を知っているだろう?」

「何でわかるんだ……」

「態度でわかるさ。色々あったようだね」

 紅運は狼狽えながら頷いた。


「失望したかい?」

「いや、驚いたが……寧ろ前より少し尊敬してる」

 藍栄は声を上げて笑い、紅運の肩を叩いた。


「大人になったのだね、紅運。昼もあれば夜もある。同じ物やひとでも、今まで知らなかった側面を知ることが成長だ。夜遊びを覚えるのと同じさ」


 紅運は少し目を伏せてから、皮肉の笑みを作った。

「それにしても夜遊びしすぎだ」

「返す言葉もないな」


 奥の間から酒瓶か壺が割れる音と喧騒が聞こえた。

 次いで、紫釉が黄禁を叱る声が響く。

「まるで子どもだ」

 紅運はまた溜息をついて笑った。

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