断章:『竜星九子説話』三、前夜
慟哭のような吹雪の白が夜陰を染めていた。
宮殿には未だ燈が灯っている。
炉炭の熱を背に、
墨で手を黒くした翠清が言う。
「兄上はもうお休みください。いざ始龍が訪れた際、いつでも指揮を執れるよう備えていただかなくては」
冕冠を脱いだ白凰は、頭上にない冠の重みに耐えるように首を振った。
「文と武を共に治めずして天子たり得ん」
「父上のようですな」
翠清は兄の珍しい軽口に口元に笑みを浮かべた。
筆を走らせる音だけが響き、翠清はまた口を開いた。
「
白凰は書から目を離さなかった。
「紅雷が道を誤ることはなかろう。だが、それで龍を討てたとして、全てが収まるとは思えん」
「と、仰ると?」
「始龍の襲撃は、目に見える形だけではないということだ」
翠清が訝しげに片眼鏡の奥の瞳を歪めたとき、細く空いた扉の向こうから声がした。
「そのときは、おれの役目って訳」
平服を着崩した
白凰は視線を上げる。
「大魔を宮廷で連れ回すな」
「ただの散歩さ。兄ちゃんたちも篭りきりだと気持ちが塞ぐよ」
翠清は筆から垂れる墨もそのままに七兄を見上げた。
「黒廉兄上の役目とは?」
「ほら、
黒廉が屈むと、黒の大魔・睚眦は仔犬のように頭を押しつけた。
「で、それが国を守る大魔のひと柱に数えられてるってことは重要な役目があると思う訳」
睚眦の濡れた鼻に口付けて黒廉は続ける。
「おれたちの国はまあいかれてる。皇帝が倒れたらばんばん妖魔が襲ってくる。いざってときには、次期皇帝として育てられた皇太子を切り捨てなきゃならない。酷い話だろ」
翠清は淡々と答えた。
「我らが国は元よりそういう地盤だ。故に、使えるものは全て使い、国を守ってきた。貪食の儀もそうだろう」
「まあね。でも、頭を失った国はぐらつくに決まってる。こんな風に」
黒廉が睚眦を抱き抱えて左右に揺らした。
「そのとき、おれが必要になるんだ」
「暗殺と恐怖政治によって奸臣を平らげるとでも?」
困惑する翠清に代わって、白凰が答えた。
「子にできることは親もできる。始龍が貪食の儀のように人間の身体を使い、宮廷に入り込んだのなら。と、言いたいのだろう」
「その通り! 皇太子じゃない紅雷にもできるなら始龍にできない訳ないと思うんだよね」
黒廉は溜息をついた。
「紅雷を死なせたい訳じゃない。でも、皇太子が死なないだけて戦況は超好転すると思うんだよ」
白凰は冕冠の痕がついた額を摩った。
「お前からその提案を聞いたときは杞憂だと思ったがな」
「杞憂で済んだら一番だよ。まあ、おれは後悔しないように遊び倒した。都中の美女にあったし、一生分飲み食いした。後は一生影として生きるのもやぶさかじゃない。でも、……紅雷はどうかな。あいつ、全然遊んでなかった」
翠清は息を漏らして俯いた。
「ああ、あいつの餞に何をしてやれば喜ぶかも浮かばない。これは私に問題がある。幾ら本を読もうと弟にかける言葉ひとつ考えつかななかった。青泉兄上に書呆子と言われるのも頷けるな」
眺めた窓の先、吹き荒れる吹雪に混じってささやかな琴の音が聞こえていた。
女官も辞した及時雨殿には、うらさびしい闇を燭台の炎が炙っていた。
風鐸が吹雪に揺られ、禍々しい音が響く。それに負けじと、
相対する紅雷と
橙和が指を止めると、紅雷は静かに手を打った。
「流石です。我々だけが聴いたのが悔やまれるほどでした」
青泉は扇で口元を隠し、皮肉な笑みを浮かべた。
「橙和兄上にしては野蛮な調ではなかったか?」
「よくわかるな」
橙和は太眉を下げて柔和に微笑んだ。
「これは戦に赴く兵士を鼓舞する曲なのだ。選曲に迷ったが、最も相応しいかと思ってな」
皮肉を受け流された青泉は眉を顰める。
殿の奥で
「他にしてほしいことはないのですか、紅雷。私から送れるものはそうありませんが……」
「いえ、俺などのために酒宴を催していただき、橙和兄上の演奏も聴けました。これ以上の望みはありません」
藍瑞は表情を曇らせ、膝の上に広げた星図を見下ろした。
「明日の星見をしました。奇妙な結果です。凶兆に等しい結果でしたが、何故か不老長寿を表す星が見えたのです。何を示すのか私にもわかりません」
「藍瑞兄上にもわからないとは……」
顎に手をやる橙和に、青泉は肩を竦めた。
「貪食の儀を行った紅雷が魔獣として永らえるのかもしれんな」
「青泉、このような日にまで戯言を弄するのはお辞めなさい」
藍瑞は目尻を吊り上げた。
紅雷は卑屈なほど控えめに微笑んだ。
「何が起ころうとすべきことは変わりません」
静かな殿に衣擦れの音が響き、立ち上がった藍瑞は紅雷の肩にそっと手を回した。
「紅雷、誰も貴方の死を望んでいません。ですが、健闘を祈っています。そのふたつは相反しません。わかりますね」
紅雷は小さく息を呑み、頷いた。
琴を端に置き、橙和が言う。
「始龍との戦いは皆命を賭ける。お前も某もそれは変わらん。方法は違うだけだ。お前はひとりではない」
青泉だけは険しい表情をしていた。
「兄上おふたりは後方で戦況を操るだけではないか。前線で闘う俺や紅雷と同じなものか」
椅子を投げ捨てるように立ち、青泉は宴の間から立ち去る。紅雷は兄たちに一礼し、慌ててその後を追った。
蝋燭の火影が幽鬼のように蠢く廊下を、青泉は足早に進む。紅雷はその三歩後ろを早足で歩いた。
「青泉兄上、皆俺を気遣ってくれたのです」
「煩い。お前もお前だ。後方支援は気楽でいいと言ってやればよいものを」
「そのようなことは思いません。皆覚悟を決めて始龍の戦に赴くのです。前線に立とうが後方にいようが……」
青泉は勢いよく及時雨殿の扉を開け放った。針のような雪が吹き込み、紅雷の肌と衣を刺す。青泉は雪の欠片よりも鋭い瞳で紅雷に向き直った。
「俺たちは皆生き残る望みがある。だが、お前にはそれが欠片もない。同じなものか。お前に目をかけてやった俺すらも、お前と同じ所には立っていない」
苛むような寒風に吹かれながら、紅雷は目を瞑った。
「ありがとうございます。最後まで俺を引き留めてくれて。忘れません。己の意識を失うときまで、それが支えになってくれます」
青泉は表情から険しさを消し、呆れたように目を逸らした。
「……そうだ。これほど引き留めてもお前は気を変えない。そこまで恩知らずだとは思わなかった」
紅雷は苦笑した。
「俺に向ける優しさを兄弟にも分けてやってください。それに、
「あの獣と?」
青泉が目を剥いたとき、鋼の打ち合う音と粗野な声が響いた。
「何か呼んだかぁ?」
紫逵は寒さで白くなった素手で二対の板斧を握り、雪を掻き分けて進んできた。
「紫逵兄上、酒宴の後も妖魔の討伐に?」
「応! 何だ、紅雷もまだ起きてたのかよ。さっき翠清にも会ったぜ。相変わらず書の山と向き合ってたな」
「奴は書呆子だからな」
紅雷は口を挟んだ青泉を見上げた。
「書呆子とは?」
「机に齧り付いて本を読んでばかりの世間知らずだ。紫逵兄上には無縁の言葉だな」
「青泉、お前がひとを褒めるなんて珍しいじゃねえか!」
紫逵は鮫のような歯を剥き出して笑う。
青泉は扇で顔を隠して、紅雷の耳元に寄せた。
「わかるか。ああいうところが嫌なのだ」
紫逵が板斧から妖魔の血を払うと、赤い半円が雪に描かれた。
「紅雷よぉ、お前も誰も死なせねえよ」
紅雷は目を瞬かせた。
「簡単さ。俺たちが始龍をぶっ殺せばいいんだ。そうすりゃあ何の心配もねえ」
「しかし……」
「みんな負けるつもりで戦してんから負けんだよ。俺たちは皇子だぜ。全員龍殺しの国祖の血を引いてんだ。俺たちにできねえはずがねえだろ」
青泉はまた肩を竦めた。
「単純で羨ましい。獣と論考を交わすことはできんな」
「褒めた後に貶すなよ! 混乱するじゃねえか!」
紅雷は戸惑い気味に笑った。青泉はふと口元を引き締めた。
「本当に始龍を殺せると思うか」
「応。俺が殺る。一番強え奴が兄弟も国も守る。わかりやすいだろ」
「そうなればいいな……このままでは何もかも無駄だ」
青泉は雪を掬うように扇を広げた。
「紅雷、お前のようなつまらん男が儀式などできるものか。文武のどちらもできん癖に」
紅雷は怒ることもなく目を伏せた。
兄の罵倒の裏の苦渋を読み取れるようになるほど長い付き合いだった。
「つまらん紅雷が俺の仕事が手伝えるよう刑部の彼是を教えた。つまらん話が少しでも面白くなるよう詩歌や講談も教えた。それが、何もかも無駄になる。そんなことが許せるものか……」
青泉の扇に積もる雪は雫となって、軒を伝う雨の如く零れ落ちた。
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