断章:『竜星九子説話』四、死闘
「これが本当なら、
「逆賊だろ。結局手前で誓ったこともできずに国を滅ぼしかけたんだからよ」
低い唸りが青燕の言葉を遮った。
「
「だいたい誰が書いたかもわからねえ稗史小説なんざ間に受けるなよ。進めるならとっとと読みな。茶が冷めるぜ」
翠春は溜息をつき、再び本を開いた。
「じゃあ、読むよ。次は合戦の場面。始龍との死闘だ」
***
雷光に似た炎が駆けた。
氷結した河水が一瞬で泡立ち、蒸発する。水蒸気の膜を破った閃光が河口の防壁と兵士たちを薙ぎ払った。瞬きの間に黒帷子と見分けのつかない炭の塊に変えた。
「突破されました! 始龍が上流まで進行しています!
兵士の声は豪雷に掻き消された。
音の大魔の権能で末期の叫びを聞き取った橙和は、悲痛に眉を顰めた。
「藍瑞兄上、如何する」
「同胞も兵も皆戦っています。
細面の顔を蒼白に染めた藍瑞が首を横に振る。
ふたりを守るのは雪に溶け込む白の天幕と、十人余りの兵士だけだった。
橙和が蒲牢の権能で各所の兵士の声を聞き、直ちに伝来を伝える。藍瑞の傍にはぬらりとした体表に無数の目を開いた鯨がいた。
「藍の大魔は眺望を好む。上流の戦況はどうなっています」
藍瑞の薄く閉じた瞳に、血と飛雪舞う惨状が広がった。流木と鉄を組み合わせた防護柵を妖魔が打ち破っていく。藍瑞は目を開いた。
「橙和、疾く伝えなさい。東の防壁を固めよ、と」
荒ぶる河を物ともせず、無数の妖魔が波濤となって押し寄せる。
満身創痍の兵士たちは、恐怖と失血だけでなく絶えず吹き荒ぶ吹雪に体温を奪われ、青ざめていた。
「もうお終いだ、
唇を震わせた兵士の横面を扇が打ち付けた。
「愚か者。皇太子の威光を疑うとは、謀反人として一族郎党引きずらなければならないな」
「将軍、塩を」
騎乗して指揮を取っていた右将軍が吼える。
「皆の物、土嚢を開け!」
兵士たちが川岸に並んだ土嚢を一斉に紐解く。土の代わりに溢れた雪のような塩が川に雪崩れ込んだ。
青泉は扇を傾け、川に向けて息を吹いた。
「凍えよ」
河水が白亜の巨壁となって聳り立つ。
塩を混ぜた水は、青の大魔の権能により一瞬で氷結した。硝子に似た氷の壁の中に閉じ込められた妖魔の群れは、苦悶の表情で凍てついた。
「この程度もできるようでは白凰兄上が玉座を戴いた先が思い遣られる。尤もあれはあれで仕事をしているようだが」
青泉は天を仰いだ。
遥か上空、針の雪が降り注ぐ雲の上に尋常では有り得ざるものが浮かんでいた。
本来海にあるはずの巨大な帆船が空に留まっている。後に白凰帝が築く空中庭園の礎となる、白の大魔の権能を使った空中要塞だった。
白霧の向こうに大蛇のような影が揺れている。
「あれが始龍か……」
黄金の龍が徐々に近づくたび、天上の船は自在に宙を渡り、火薬と鉄槍の雨を降らせる。怒りの咆哮が鳴り渡った。
青泉の背後に控える、紅雷は俯きがちに言った。
「兄上、そろそろ俺が貪食の儀を……」
「黙れ」
「しかし! 始龍は目前まで迫っています! このままでは……」
龍の訪れと共に、再び妖魔の群れが押し寄せていた。
前線の兵士たちは腕を食い千切られ、頭を破られ、次々と倒れていく。紅雷が唇を噛んだとき、頭上を巨影が過ぎった。
「来やがったなぁ、あれが本命かよ!」
紫の虎に跨った
紫逵が両手の板斧を振る。分厚い鉄の刃に妖魔の群れが両断され、血煙が凍土を染め上げた。
刃から逃れた妖魔を虎の爪と牙が裂く。雪原に零れた魔物の臓腑が湯気を上げる中に、紫の大魔が着地した。
「紫逵兄上、黒廉兄上!」
「待たせたな、紅雷!」
「遅れてごめん。というか、おれの力は遅れてこないと役立たないからさ」
黒廉が虎から飛び降りる。
青泉は眉間に皺を寄せた。
「紫逵兄上、西の持ち場はどうされた」
「あっちは壊滅した。俺しか残ってねえや。どのみち始龍はこっちに来てんだ。あそこを守ってもしょうがねえよ」
紫逵は返り血で濡れた衣を絞った。
「紅雷、貪食の儀やるんだろ。親父の墓場まで連れてってやるよ」
「有難うございます」
眉間の皺を濃くした青泉に、紫逵が耳元で言う。
「酷え面すんなや! そう言わなきゃついて来ねえだろ! 親父の死骸に引き寄せられた龍をぶっ殺すって算段だ!」
「囁かずに怒鳴るならなぜ耳元に? 俺の鼓膜を破るのが狙いか」
苦言を笑い飛ばす紫逵に紅雷も釣られて笑みを浮かべた。
「気持ちは有難く。ですが、俺の意志は代わりません。始龍を討つのは、俺が魔獣と化した皇帝を取り込んだ後です」
「誠につまらん男だな。その癖意固地だ」
青泉は肩を竦める。紫逵が虎を叩いた。
「いいから乗りな。狻猊は出すなよ。魔力を節約しなきゃならねえんだろ」
紅雷は一礼して、紫逵の後ろに飛び乗る。
「ですが、こちらは……」
鎧を纏わない黒廉が軽く手を上げた。
「おれがやるよ。だから、遅れてきた訳。これだけ死体があれば使える」
黒廉が手を振るうと、背後の黒犬が雄叫びを上げた。
手足を失った兵士たちの死骸が糸で操られるように立ち上がる。黒の大魔に乗って傀儡と化した兵士たちは血肉が削げるのにも構わず妖魔の群れに襲いかかった。
「胡乱な力よな。まるで地獄だ」
吐き捨てる青泉に紫逵が笑いかける。
「地獄じゃねえ戦場なんかあるかよ!」
紫の虎が閃光のように戦場を駆け抜けた。
押し寄せる寒風に息を詰まらせながら、紅雷は背後を顧みる。
青の大魔に乗った青泉が河中を進む後ろに、始龍と妖魔の群れが迫っている。
「兄上、紫の大魔の背まで借りたのにすみません。狻猊を使います」
紅雷は兄たちの答えを待たずに叫んだ。
「赤の大魔の権能は炎、焼き払え!」
激流が蒸発し、逆流した炎が乾いた川底を駆ける。妖魔の群れが赤い波濤に呑まれて焼失した。
始龍が憤怒の叫びを上げる。
何条もの雷光が鞭のように走り、紫の大魔の腹を掠めた。紫逵が唸る。
「くそっ、そっちにも言ったぜ、青泉!」
青泉の背を雷の鞭が打ち、低い呻きが漏れる。
「兄上!」
「騒ぐな。この程度……」
再び河に激流が戻り、妖魔と雷撃を阻む。
青泉の焦げた衣から血が滴っていた。
紫逵は紅雷の手を握り、虎の背の毛皮を掴ませる。
「しっかり掴まってろよ」
答える間もなく紫逵は身を翻して跳んだ。
刃の軌道が弧を描き、紫逵が板斧を虚空に振り下ろす。白刃が煌めき、紫逵が膂力のみで雷光を切り裂いた。
鋼鉄に触れた雷は火花と煙を散らし、壮絶な轟音を響かせた。
「紫逵兄上!」
背中の紅雷の叫びに、紫の虎が主を振り返る。紫逵は凍てついた水面に膝をついていた。彼の膝から下は黒炭と化していた。
「野蛮な……無茶をしおって……」
青の大魔を止め、青泉が敵を見定める。始龍は眼前まで迫っていた。
大剣のような五本の龍爪が空を裂いた。ひっ先は紫の大魔に乗る紅雷を指していた。
熱い血潮が紅雷の頬を濡らした。
紅雷の前に飛び出した青泉の腹を、一本の爪が貫通している。血塗れの爪が抜かれ、青泉はその場に崩れ落ちた。
「青泉兄上!」
黄金の龍鱗を光らせ、始龍が嗜虐の笑みを浮かべていた。
「狻猊!」
炎の獅子が河を焼き払い、火球が始龍の眼球を直撃する。緑の双眸から煙を上げ、龍が身を逸らす。怒りのままに放たれた雷光が空に轟いた。
紅雷は虎から飛び降り、凍る河に倒れる青泉を抱え上げた。
「兄上!」
青泉は蒼白な顔で自身の腹に触れた。
「騒ぐな。傷に響く……青の大魔よ、血も水だ。流れを止めよ……」
止め処なく溢れていた血が凝固し、傷口を塞ぐ。青泉は紅雷の肩に頭を預けてえづいた。呼吸は浅く、全身が震えていた。
「青泉兄上、何故……」
「何故はねえだろうよ」
自他の血に塗れた紫逵が板斧を杖代わりに引きずって現れた。腕の力だけで虎に跨り、紫逵は白い息を吐く。
「お前言ってたじゃねえか。守るべき国だ何だって言われても自分には家族の面しか浮かばねえって。青泉にはお前しかいねえってことだ」
「俺なんかを……」
紅雷は青泉の腹に額を押し当てた。血は冷たく、身体は温かかった。
紫逵が掠れた声で言った。
「ほんとは、俺だってお前を死なせたかねえよ。でも……」
紫逵は空を仰ぐ。始龍の雷電は白雲を焦がし、この世の終わりのように空を黒ずませていた。
紅雷は頰についた青泉の血を拭った。
「俺も皇子です。俺は、自分の国を守ります」
「わかった……青泉は連れて行けねえ。俺はしんがりをやる。お前ひとりでいいか」
「お世話になりました。青泉兄上を、皆を頼みます」
狻猊が首をもたげ、紅雷は飛び乗った。青泉が自分を呼ぶ声がした。
炎の獅子は紅雷を乗せて駆ける。
紫逵の勝鬨が聞こえた。雷鳴も吹雪も掻き消す慟哭だった。
轟音が絶えず響き、紅雷の背後が幾度も輝く。割れた薄氷の欠片が背を打ち付けた。
爆音が響いた。紅雷の腹を灼熱の痛みが焼く。雷撃に穿たれた脇腹が血の代わりに煙を上げてた。
「まだだ……死ねない、まだ何も……」
紅雷は黒い血を吐いて呻く。
「もっと速く……! 皇帝の棺の元へ向かえ!」
狻猊が加速し、辺りの雪原が融解した。
霞む視界に鈍い輝きが映った。
狻猊が雪を削って停止する。痛みと痺れで鈍った脳が醒める。。
「棺が……」
皇帝の棺は雪で入口を隠した地中の祠の中にあるはずだった。
今あるのは雷撃の痕跡だけだ。無惨に抉れた大地にへばりつく、溶けた金属が棺だとわかった。
「嘘だろう……」
紅雷は苦痛も忘れて絶句した。始龍が狙い澄ました訳でないことは、無作為に奔る焦げ跡でわかった。逸れた電撃のが偶然雪を抉り、棺を飴細工のように溶かした。羅真大聖ですら祓えぬ妖魔と化した皇帝の亡骸ごと。
紅雷の身体から力が抜ける。
狻猊の背から転げ落ち、雪原に落下したが冷たささえも感じなかった。
強烈な吐き気と頭痛が身体を駆け巡る。
「こんな終わりか、命を賭けても、何も成し遂げられず、誰も……」
紅雷は雪に爪を立てた。開いた傷口から血が溢れる。
「死ねない……俺は、まだ、誰も守れてない……!」
凍てつく身体に微かな熱が広がった。
狻猊が紅雷の手に額を押し当て、神託を待つように頭を垂れた。
「狻猊……」
紅雷は最後の力を振り絞り、両手で獅子の首を掻き抱いた。
「始龍に侵された皇帝と、始龍に産み落とされた大魔なら、同じはずだ……狻猊、俺の命と身体をやる……だから、俺の国を守ってくれ……!」
白色の死が満ちる戦場に、煌々たる炎の赤が炸裂した。
はぐれ皇子と破国の炎魔:龍久国継承戦 木古おうみ @kipplemaker
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