四章:四、処刑前日

 閑散とした都の大路は夕陽で深紅の帯のように広がっていた。

 紅運こううんは、青燕せいえんの影を踏まないようくたびれた足を進めた。



「あの夜、黄禁おうきん兄さんを最後に見たのは女官が燭台の火を消しに行ったとき。失踪がわかったのは次の早朝。その後……」

 青燕は溜息をつく。

「まだ手がかりが足りないや」

「殆ど全員に聞いたのにな」

 紅運はかぶりを振った。


 聞き込みは日夜続いた。

 官吏を帰路で待ち構え、馬桶洗いの下女にまで声をかけ、黄禁の足取りを探る。処刑は二日後に迫っていた。


「わかったこともある」

 紅運は歩きながら紙片を捲った。

道妃どうひの遺体が見つかる二刻前に庭でりゅう皇貴妃の姿を女官が見ている。何かあったのかもしれない。その女官と親しい者を洗えば……」


 紅運は青燕の視線に気づいて言葉を区切った。

「何か間違っていたか」

「ううん。もういろんなひとのことを覚えたんだね」

 頬を緩めた青燕に、紅運は決まり悪そうに目を逸らす。


「教えてもらわなかったら名前も誰に仕えているかもわからなかった。聞き込みの最中だって怪訝な顔をされたしな」

「皆驚いただけさ。話しかけられて嫌なひとなんていないよ」

「……俺はされて嬉しかったことも今まで何も返してこなかったな」

「これから返していけばいいじゃないか。機会は沢山あるよ」


 紅運は深く影を落とす宮廷を見上げた。

「ここで踏ん張らなきゃ、次がない相手がいる」

 逆光を負う城は夕空に黒糸で縫いつけた刺繍のようだった。



「帰ってすぐ無理難題ばかり。私を何だとお思いですか!」

 文机に乗せた大量の書に埋もれながら烏用うようが声を上げた。

「出世欲の強い役人だろ。今後に繋がると思って頑張ってくれよ」

 紫釉しゆうは持ち込んだ紙束を更に積み上げる。


「急に仕事をし出すなんてどういうつもりです。それなら旅路で少しずつ消化してくださいよ」

「仕事をして叱られるとは思わなかったな」


 紫釉が籐の椅子に胡座をかいて煙管に火をつけたとき、後ろから藍栄らんえいと妹の紫玉しぎょくが現れた。



「藍栄さんまで。どうしたんだよ」

「どうしたじゃないわ。兄様が妙な仕事ばかり持ち込むから見兼ねて藍栄様が手伝ってくださったのよ」

 紫玉は所在なさげに眉を下げた。

「気にすることはないよ。理由は知らないが、君たちの御母堂の故郷に使者を送りたいんだろう? 私も宮廷にない人脈ならいくつか使えるのを持っていてね」


 藍栄は紫釉の耳元に口を寄せた。

「黄禁を救う手筈かい?」

 微かに白濁した瞳に白い煙が映り込む。

「他国を介入させれば内輪の揉め事は後に回さざるを得ない。しかし、それは自国の傷を晒すのと同義だ。国より一皇子の命を優先させるべきかな?」

 紫釉は半分開いた口から煙を濛々と吐き出した。

「怖い怖い」


 やり取りを眺める烏用と紫玉の怪訝な視線に気付き、藍栄は身を遠ざけた。

「釘を刺しにきた訳じゃないさ。兄弟の命を助けたいのは同じ。私たちのような不真面目な者が踏ん張るのはこういうときだけだろう?」

「藍栄さんは真面目だから不真面目な振りを全力でできるんだろ」

 紫釉の言葉に、藍栄は煙で燻された目を細めた。

「怖い怖い」


 部屋を後にした彼の背に紫煙を吐きつけ、紫釉は煙管の先端を盆で叩いた。

「あのひとが大事にしたい命はどの兄弟だか」

「私の命も大事ですよ。過労死しそうです」

 墨で手を黒くした烏用が呟いた。



 白雄はくゆうは壁にかけた一枚の絵と向き合っていた。

「父上がご存命でしたら、現状を何としたでしょうね」

 絵画の中の前帝は輪郭線を取らずに色づける没骨描法で描かれていおり、五色の塗料が溶け合って後光を滲ませるような威厳を讃えていた。


「昔、天子を天子たらしめるものは第一に伏魔の力だと教えてくださいましたね。我が国は常に妖魔の畏れと共にある。皇帝は我が身を捧げ万民を守る贄であれと」

 白雄は玉座の背に指を触れた。

「幼子だった私は、元凶たる始龍を討ち、民だけでなく王にも安寧をもたらすと夜郎自大を申しました。それを聞いてどうお思いだったのでしょう。今の私は……」



 小さな靴音に、白雄は弾かれたように振り向いた。

 緞帳に隠れるように立っていた翠春すいしゅんが俯いた。


「いつからそこに?」

 微笑を繕った白雄から目を背けたまま、翠春は足早に歩み寄り、一冊の書を押しつけた。

「これは……」

 染みで汚れた本は綴じ紐もほつれ、表題も掠れていた。


「母上の書庫にあった本。これが必要になるからって……」

 翠春は長い前髪の下から白雄を見上げた。

「貪食の儀についての記述がある。皇太子以外がそれをやる術の手掛かりも」

 白雄は目を見開いた。本の染みは赤茶け、鉄錆の匂いが漂った。


「白雄兄さんが死んだら皇帝になるひとがいなくなる。それに、兄さんだって死にたくないんじゃない……」

 翠春の瞳は小刻みに震え、吐息が細く漏れた。


 白雄は弟を見つめ、そっと本を玉座に置いた。

「それも言えと言われたのですか?」

 翠春は首を振って走り去った。小さな靴音が遠のき、白雄は絵の中の父の足元で立ち尽くした。



 濃墨のような夜が明け、錦虎殿に皇子たちが集った。


 第一皇子である白雄が口火を切る前に、青燕が声を上げた。

「ごめん、皆に聞いてほしいんだ」

「序列を弁えろ。公の場で皇太子の挨拶も待たず……」

 橙志とうしの叱責は巻紙の紐を解く音に遮られた。帯のような長い紙が皇子たちの間を泳ぎ、白亜の床に広がった。


 紙の片端を握る青燕の視線に、紅運はもう片端を持ち上げて旗のように掲げる。

 紙面には手描きの宮廷の地図と連綿とした文字列が記されていた。


「これは道妃が亡くなった日の黄禁兄さんの足取りと、目撃者の証言を時刻順に纏めたんだ。紅運が手伝ってくれた」

 皇子たちは黒々とした紙に目を凝らす。


「黄禁兄さんはまず霊廟に行った。道妃の亡骸を確認したんだと思う。同時期に守衛が龍皇貴妃を近くで見かけてる。殺すなら格好の機会なのに、しなかった。そもそも、呪術師なら近寄らずに殺す方法なんかいくらでもある」


「では、何故黄禁は朝まで失踪した?」

 橙志の問いに紅運が答える。

「侍医によると、道妃の死に方は呪殺によく似ていたらしい。たぶん呪いを解いて助ける方法を探してたんだ。黄禁が赴いた場所には薬草が生えている林もあった」

「しかし、奴が戻ってからの凶行には説明がつかない」

「説明がつかないなら殺意があったとも言えないじゃないか! これを見て……」



 紙を手繰る青燕を、白雄が静かに制した。

「気持ちはよくわかりました。黄禁にも伝えましょう。咎があろうと恨まれたのではなかったと」


 白雄は一歩前に進み、鋼を打ったような揺るぎない声で告げた。

「処刑は変わることなく明日行います」

「何で……」

 青燕が唇を震わせる。


「橙志の言う通り、皇妃皇子を手にかけんとした凶行は揺るがぬ事実です。それに、紅運。兄弟がこれ以上死ぬのは許し難いと言いましたね」

 呼びかけらた紅運は顔を上げる。水晶のような瞳が射抜くように見据えていた。


「我らが父の変貌を止めねば更なる凶事は避けられません。これが最小の損害で事を収める唯一の術です」

「じゃあ……」

 白雄は重々しく頷いた。

「処刑の方法は斬首ではなく、貪食の儀です」


「正気かよ」

 紫釉が絶句する。藍栄と橙志は無言で瞑目した。



「やり方ならわかるよ」

 それまで一言も発さなかった皇子が呟いた。

「翠春……」

「紅運も知ってるよね。おれたち下位の皇子の大魔が必要なんだ」

 翠春はか細い声で続ける。

「皇子を緑の大魔の力で閉じ込めて、皇帝を取り込ませた後、赤の大魔の炎で焼き尽くす。一瞬だから苦しまないし、 骨も残らない」

 彼の母によく似た底知れない輝きの瞳が光を帯びた。


 紅運は唇を噛み、

「わかった……」

 怨嗟のように吐き出した。沈黙が渦を巻いた。



「異論がなければ、これにて」

 白雄の声に皇子たちが黙して殿を去る。踵を返した白雄に紅運は投げかけた。

「あんたは全部を救える器だと思ってた」

「私とて、ただのひとです」

「でも……」

 彼は背を向けたまま言った。

「貴方と私は違います」

 白雄が歩み去り、服喪の礼服に一束の黒髪が揺らいだ。

「そんなこと、ずっとわかってるさ」


「紅運……」

 青燕が虚脱した面差しを向ける。

「大丈夫だ、このまま終わらせるか」



 紅運は青燕を残し、殿を出た。

「兄弟とはいえ他人だな。思い知らされただろ」

 掠れた声が響き、真紅の髪が燃え盛った。


狻猊さんげい、教えてくれ。儀式をぶっ壊すにはどうすればいい」

「ぶっ壊すときたか」

 狻猊は犬歯を覗かせた。

「術には陣が不可欠だ。勿論、生半可な力じゃ破れねえが……」

「お前ならできるんだろ」

 紅運は狻猊から目を逸らさない。

「勿論」


 頂点に昇った陽が宮殿の影を四方に伸ばす。僅かに残る日向に紅運は立った。

「俺たちだけでもやってやる」

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