四章:三、舟遊

 未明、紅運こううんは濡れた葦を掻き分けながら湿地を進んでいた。



「ここで稽古をするのか」

 足早にぬかるんだ地面を進む橙志とうしは振り返らずに言った。

「今日は無しだ。代わりに、お前に城の守りを教える」

 肩越しに水の輝きが見えた。葦の隙間から覗く雄大な湖は早朝の靄で烟り、何かが現れそうな荘厳さを纏っていた。


「この湖の用途はわかるか」

「夏の避暑だろう。俺はあまり参加したことはないが……」

 紅運は置いて行かれまいと駆け足になる。

「それだけではない」


 橙志は歩みを止め、湖の先を指した。一段と濃い靄の中に、古びて錆びついた城門のようなものがそびえていた。

「あれは古の皇帝が湖に水を引いた際作った水門だ。万一の時、関を開ければ宮殿にまで水が流れ込む。それはいつだと思う」

「火災……」

 紅運は言いかけて首を振る。

「ただの火災じゃない。謀反で宮廷が焼かれたとき、賊徒の手に渡る前に城ごと沈めるということか」

「善し。考える癖をつけたな」

 短い答えに紅運は少し口角を上げた。


「湖は代々青の大魔を持つ皇子の管轄だ。水門を開け、城を守る大役も請け負う。彼が謀反を起こさないことが前提だがな」

 橙志は滸に足を向けた。

「水門を潜れば大河に通じる。有事の際、皇妃・皇女を逃す水路にもなる。よく覚えて……」

 彼の眦が鋭さを増した。薄氷の残る湖に一艘浮かんでいる。


「夏までは蔵にしまってあるのでは……」

 紅運が舟の近くに小さなふたつの影を見留めたとき、橙志は既に湖畔へ向かっていた。


「何処の阿呆だ、釣りでもしているのか!」

「こちらの阿呆です」

 葦の間から女の朗らかな声が響いた。橙志が目を剥く。


「ごめんなさいね。でも、釣りではないのよ」

 顔を覗かせた皇妃は衣が露で濡れるのも構わず、湖岸に舟を括る縄を解きながら微笑んだ。


「ご無礼を……江妃こうひ様とは知らず……」

「母上がどうしても舟遊びをしたいって」

 背後で青燕せいえんが決まり悪そうに眉を下げた。

「やっぱりやめようよ。勝手に舟を使っちゃまずいし、氷だって張ってるじゃないか。それに今は大変なときだし……」

「氷なら貴方の力で何とかなるわ。それに、大変なときこそ息抜きが必要なものよ。そうだわ!」

 江妃は子どものように手を打つ。

「お舟がもう一艘あったでしょう。橙志様と紅運もお乗りになって。きっと楽しいわ」


 橙志は観念したように目を伏せた。

「……謹んでお受けいたします」

 紅運が思わず苦笑すると、脛に鈍痛が響いた。

「俺は止めようとしたのに」

 木刀の先で小突かれた足を恨みがましく見るうちに、湖畔に二艘の小舟が並べられた。



 舟は青燕の操る大魔の力に導かれ、独りでに進んでいく。燻んだ空を移す無彩色の水面は、舟の先端が薄氷を破るたびに水晶を砕くような飛沫を上げた。


 孤島に浮かぶ離宮が寒風に吹かれている。

 紅運が幼い頃、舟遊びの行幸に伴われて訪れた東屋がひどく精彩を欠いて見えた。

 清廉な夏の小島を囲んだ面々も、今は亡き者が少なくない。

 紅運が溜息をつくと、向かいに座る橙志が視線を返した。



 その様子を少し離れた舟から青燕が見ていた。

「ふたりだってこんなときに楽しめないよな……」

「でも、ここなら話せるでしょう?」

 驚く息子に、江妃が静かに微笑を浮かべた。

「宮殿ではずっと暗い顔をしていたから。教えてちょうだい。貴方は何に苦しんでいるの?」

 氷の欠片が跳ねる。青燕は土色の湖水を見下ろした。



「橙志……」

 紅運は冷たい風に吹かれながら口を開いた。

「俺は、強い者か?」

「何処が?」

「そんな……」

 橙志は僅かに視線を泳がせた。


「強くなってはいる。前は目も当てられなかったが、それに比べれば……」

 歯切れの悪い答えに、紅運は苦笑した。

「なら、いいんだ。よくはないか」

「強くなりたくなかったのか」

 舟が傾き、波が音を立てた。橙志は一歩紅運に近づいた。


 揺れる舟板を抑えながら、紅運は離宮を見遣った。

「言われたんだ。俺は持てる側に回っていたのに気づいてないと。ずっと自分には何もないと思っていたのに。知らないうちに今まで見えていたものが見えなくなってるんじゃないかと……」

「お前は皇子だぞ。最初から恵まれた者だろう」

 橙志は正面から紅運を見据えた。


「弱者から疎まれるのは強者の通る道だ。では、何故俺たちのように恵まれた者が存ると思う」

 紅運は首を横に振る。

「持たざる者には収められぬ事を収めるためだ。戦に負けたとき、王の首を落とせば代わりに万民が赦される。俺たちの享受する恵みは前借りだ。いずれ持たざる全ての者に代わって死ぬために、短い生で帳尻が合うよう過剰な恩恵を受けている。それを思えば、何も恥じることはないだろう」


「前借りか……」

「その覚悟は未だないか」

 橙志の双眸は紅運を見つめていた。

「ないとは言わない、それでも……」

 紅運は再び首を横に振る。

「俺はもう誰にも死んでほしくない」

 橙志は深く息をついた。

「安心しろ、お前はまだ軟弱者だ」

 気の抜けた笑みが紅運の口から溢れた。訪れる王を失くした離宮は変わらず聳えていた。



 波の音だけが響いていた。

「苦しんでないよ。皆、僕よりもっと辛い」

「他のひとより細やかでも、その苦しみはなかったことにはならないのよ」

 江妃の声はいつにない翳りがあった。


「ただ、自分は何もできないなって思ったんだよ」

 青燕は舟端を握りしめた。

「悔しいな。皆が優しくしてくれるから勘違いしちゃったんだ。自分には秀でた何かがなくても、少しはいい奴なんじゃないかって。皆のせいじゃない、僕が驕ってただけだ。本当は誰ひとり助けられる力もないのに」

「青燕……」

黄禁おうきん兄さんを助けたいよ。でも、そうしたらりゅう皇貴妃や翠春すいしゅんを苦しませることになる。僕は自分の大事なひと全員に生きててほしいし、傷つかないでほしい。でも、力もないのにそんなこと思うのは傲慢だって知ってる。今だって、結局自分のことばっかりだ。これじゃ悪人と何も変わらない」


 江妃は濡れた裾を手繰り、独り言のように呟いた。

「昔ね、後宮にある女性がいたの。今はもう儚くなってしまったけれど」

 息子に似た青い瞳は、遥か遠くを見つめていた。


「陛下はね、詩学のお話ができる女性がお好きだったわ。多くのお妃様が我先にと名乗り出たの。それどころか、他の方のお持ちの本を破いたり、女官を使って逢瀬を邪魔したりする方もいて、私は少し後宮が嫌になってしまったの」

 青燕は曖昧に頷いた。

「でも、誰の邪魔もせずにひとり読書に励んでいる方もいらっしゃったわ。子どもが読むような本まで真剣に向き合っていらしたの。思わず話しかけたら、拒まずに最後まで聞いてくださって、私、もう少し後宮にいられそうだと思ったの」


 江妃は穏やかな眼差しを向けた。

「皆、居場所がほしいのは同じだわ。でも、そのときに誰かのものを奪ってしまうかで、悪いひとかどうか決まるのではないかしら。貴方はそれだけはしなかったでしょう」

 青燕は弾かれたように顔を上げた。


「母上……」

 江妃は拳を握って見せた。

「善いと思ったことのために悪人になる覚悟は必要かもしれないわ。でも、そのときは、私がちゃんと叱ります。拳骨の練習もしておくわ」

「それはしないでよ。何で練習するつもりなの」

「どうしましょう、橙志様に教わろうかしら。お得意そうではなくて?」

「失礼だよ」

 青燕は思わず吹き出す。江妃も釣られて目を細めた。


 舟は湖を一周し、岸辺に近づいていた。

「その皇妃様は誰だったの?」

 青燕の問いに、江妃は舟から身を乗り出す。

「あちらにいる方の御母様よ」

 向かいの船に座す紅運の濃墨のような髪が風に靡いていた。その横顔に亡き妃の儚げな面影は薄れ、代わりに強い眼差しがあった。

 青燕は己を鼓舞するように強く舟端を握った。



「紅運」

 舟から滸に降り立った紅運に、青燕が駆け寄った。

「どうした?」

「宮殿でいろんなひとの話を聞く。紅運にも手伝ってほしいんだ」

 青燕は口元を硬く引き締めた。

「僕はすごいことは何もできないけど、誰よりも宮廷のひとたちと話してきた。それだけは自信がある。皆の話を聞けば、黄禁兄さんの無実を証明できるかもしれない。本当の犯人がわかれば、龍貴妃も翠春も安心できる。誰も死なずに済むかもしれないんだ」


 紅運は首肯を返した。

「情けないが、俺は官吏や女官のことを全然知らない。教えてくれるか」

「勿論」


 紅運は青燕に袖を引かれて葦の中を駆け出した。

 ––––狻猊さんげい、ひとりで抱えて死んだ紅雷こうらいが選ばなかった道を探してみせるぞ。


 太陽が昇り、火を思わせる陽光が紅運の背を啄む。

 処刑は、三日後に迫っていた。

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