四章:ニ、雲泥万里

 皇子や皇妃たちの寝支度のため女官が宮中を動き回る刻、紅運こううんは自室で書物の山と向かい合っていた。



「あまり根を詰めるとお身体に障りますよ」

 琴児きんじが文机の隅に茶器を置く。

「後で飲む」

 紅運は書面から目を上げずに答えた。


 泰山から戻り、朝は剣の稽古を受け、夜は書と向き合うのが常だった。書物はどれも古く、文法につまづいて他の本を探るとまた不可解な文言にぶつかる。

「今まで何をしていたんだ俺は。もっと勉強していればこんなに手間もかからなかったのに」


 髪を掻きむしる紅運を見つめながら、琴児は緞帳をそっと押し開いた。

「亡き御母堂も夜はそうして書と向き合っていらっしゃいました」

 独り言のような声に紅運は振り返る。


「今の貴方様のようにもっと勉強していればと仰っていました。後宮には詩歌にも明るい貴妃様が数多おわしますから思う所があったのやもしれませんね」

「俺は頭まで母に似たか」

「熱心なところは本当に」

 琴児は皮肉も受け流して苦笑した。


「ある時、読書の最中、江妃こうひ様––––青燕せいえん様の御母上が訪れたそうです。童が読むような本を、と蔑まれるかと思えば優しく内容を説いてくださったと仰っていました。もっと早く話しかけていればとお惜しみになっていましたよ」

 朱塗りの盆を胸に押し当て、琴児は懐かしげに微笑んだ。


「紅運様の周りにも沢山の御方がいらっしゃいます。お力を借りてみるのは如何でしょう。私はお茶のご用意しかできませぬが」

 茶は温くなっていたが、まだ仄かに湯気が立っていた。

「ありがとう」

 琴児は深く礼をして下がった。



 手元が暗くなり始め、紅運は燭台を引き寄せる。冷えた蝋燭にひとりでに火が灯った。


狻猊さんげい

 燃えるような赤毛が闇に漂う。

「文武両道を目指すってか」

「今更そんな訳ないだろ」

 鋭い犬歯を覗かせる笑みに紅運も呆れ笑いを返す。


「魔物となった皇帝を鎮める術がないか調べてるんだ。貪食の儀のことは言えない。白雄はくゆうなら自分ひとりの身で事が収まるならそれを必ず選ぶはずだから」

 紅運は茶を啜り、本を閉じた。


「安心しろ。お前に聞く気ない」

「何?」

 狻猊が片眉を吊り上げた。

紅雷こうらいの汚名を返上すると言っただろう。誰かを犠牲にしたんじゃ同じことだ。俺が探してるのは誰も死なせない道だ」

 闇の中で火花が散り、狻猊が舌打ちした。

「餓鬼が、貴人ぶりやがって」


 紅運は肩を竦め、再び本を開いた。

「それにしても、貪食の儀は何度も行われたはずなのに記録がまるでないな」

「ああ、そりゃ俺の……前の主の兄のせいだな」

 狻猊は滲み出した夜の色を見つめる。


「二度と紅雷みてえな奴が出ねえよう入念に焚書したのさ。そういう奴の心当たりがある、葬式も上げられねえ弟への荼毘の代わりってとこだ」

「彼を悼む者もちゃんといたんだな」

 紅運は同じように窓の外を眺めた。

「よかった」

 燭台の火が涙を湛えた目のように揺れた。

 皇子たちの会合が明朝に迫っていた。



 朝の冷気漂う錦虎殿きんこでんには既に皇子たちが集まっていた。亡き者、牢に繋がれる者の他、翠春すいしゅんの姿もない。


 紅運は柱に描かれた金の雲海を見上げる。

「以前は俺の処刑に関して、今回は黄禁のか……」

 まだ新しい悪夢を振り払うように首を振ったとき、白雄が現れた。


「まず伝えねばならぬことがあります」

 正史や詩学への教養を垣間見せる前置きもなく、白雄は切り出した。

黄禁おうきんの処刑が七日後に決まりました。早朝、宮中で執り行います」

 辺りにざわめきが走った。


「そんな、急すぎるよ。まだ陳述の場も設けていないのに!」

 青燕が声を上げる。

「先の戦いだって黄禁兄さんが協力してくれたじゃないか。減刑はできないの?」

「それで咎が雪げると思うか。拷問や尋問が行われないだけでも過ぎた温情だ」

 橙志とうしが冷たく返す。

 紅運は兄の横顔を見遣った。以前なら、その言に怒りも覚えただろうが、顔からは読み取れない苦渋に思いを馳せ、紅運は目を伏せる。



「しかし、皇帝崩御に皇子ひとりが夭折し、処刑までとなれば、事の隠蔽は限界ではないかな?」

 藍栄らんえいの問いに紫釉しゆうが頷く。

「その通り。宮中だけじゃなく外もだいぶきな臭いぜ。勢力を増した諸国だけじゃなく、辺境の魔物狩りや得体の知れない道士集団までうちの綻びを手ぐすね引いて待ってる。いざ攻め込まれたとき、これ以上皇子が減ってちゃまずいだろ」


 白雄は沈鬱に首をもたげた。

「外に目を向ける前に内を整えなければ。国賊に罰を与えぬのであれば、規律の乱れはいずれ凶事を招くでしょう。宮中には未だ……」

 藍栄が自分の肩を叩くような仕草をした。無言の静止に白雄は口を噤み、言葉を探した。

「我らが父上の問題もあります故に」


「なら、黄禁が尚更必要だろ。魔物の専門は奴しかいないぜ」

 紫釉が指を鳴らした。橙志が眉を顰める。

「態度を弁えろ。それに、対策なら黄禁でなくとも知る者がいる」

 視線は紅運に注がれていた。唐突な運びに紅運は狼狽えながら口を開いた。


「一応、あるにはある……だが、その……」

 今はまだ伝えられない。だが、隠し果せない。

 背筋に冷水のような汗が伝う。琴児の微笑みと、燭台の火が脳裏をよぎった。


「言いたくない」

「何と?」

 白雄が目を見張る。紅運は姿勢を正した。


「俺が泰山から持ち帰った術は使ってはいけないものだ。他の術がないか探している。処刑ももう少しだけ待ってほしい」

「そのふたつに何の関係が?」

 橙志が鋭く口を挟んだ。

「どちらも皇子の死が関わる。国を守るためにも……」



「貪食の儀」

 消え入りそうな声に、水を打ったように静まった。

「翠春……」

 青燕が呟く。殿の入り口で身を隠すように翠春が立っていた。


「皇帝が変貌した際は、最も天子に近い第一皇子にそれを取り込ませ、皇子ごと魔物を殺す。古書に書いてあったんだ」

「嘘だ、それに関する書は全て焼き払われたはずだ」

 紅運の怒声に、翠春は身体を震わせた。

「それが、貴方の持ち帰った術ですか」

 白雄の静かな声に紅運は答えを失う。


「じゃあ、これも知ってるよね。貪食の儀は皇太子以外もできる」

 翠春は震える手で己の袖を握った。

「黄禁兄さんを処刑するなら彼にやらせればいい。そうすれば、死ぬのはひとりで済むから」

「絶対に駄目だ。皇子は国を守る陣の布石でもあるんだ。これ以上死なせられない!」

 一歩踏み出した紅運を白雄が制した。


「わかりました」

 彼の表情に動揺の色はないが、頬からは血の気が失せていた。

「今答えを出すには過ぎた問題です。七日以内にまた会合を設けます。それまでどうか多言は無用だと心得を」


 白雄は礼服の裾を翻し、殿を後にした。藍栄がその後を追い、皇子たちが次々と立ち去る。

 最後に残った紅運は静寂が満ちる殿の柱を殴りつけた。衝撃は厚く塗られた漆に呑まれて消えた。



 再び夜が訪れた。

 石造りの牢には宮中の喧騒すら届かない。


 冷えた露がじっとりと岩を濡らし黒く滴る闇の中に、乾いた靴音が響き、黄禁は顔を上げる。

 一日二度の食事の時間はとうに過ぎている。


「何呑気に陥れられてるんだよ、この馬鹿」

 暗がりに慣れた目を焼く光に目を向けると、闇と同じ色の肌をした兄がいた。

「紫釉兄上」

 黄禁は牢の奥に座したまま呟く。

「戻っていたのか」

「戻っていたのか、じゃない。馬鹿」



 牢の中に灯りはなく、雫の垂れる音だけが響いていた。

「せっかく鳥籠を仕入れてやったのに、お前が籠に入っちゃ意味ないじゃないか」

「ここで鶏を飼っては可哀想だな」

「食われるのを待つ鶏みたいなお前は可哀想じゃないって?」


 紫釉は隠し持っていた包みを柵から投げこんだ。

 黄禁が包みを開くと、湯気を上げる饅頭がふたつあった。

「どうせろくな食事も出ないんだろ。お前痩せぎすの癖によく食うんだからさ」


 紫釉は紫釉は濡れた石床の上で胡座をかいた。

「お前の処刑は七日後だってさ」

「随分早いな」

 黄禁は饅頭を頬張りながら答える。紫釉が竹の水筒を投げると、檻を超えて黄禁の膝にぶつかった。

「痛い」

「処刑はもっと痛いぜ」

 黄禁は虚な笑みを返した。


「兄上は俺を疑わないのか?」

「お前みたいな馬鹿に悪巧みなんてできるかよ。大方嵌められたんだろ」

 紫釉は答えを待ったが、咀嚼の音しか聞こえなかった。


「逃げちまおうとは思わないのかよ」

 岩の壁に声が反響する。

「ないな」

 闇の中の黄禁が手を止めた。

「俺は本当に皇貴妃を殺そうとしている。次の機会は皇族が一同に会する俺の処刑の場だけだ。そのために命を繋いでいる」

「理由は? どうせ言えないんだろ」

 暗がりで首肯が返るのが微かに見えた。


「宮中は嫌だね。馬鹿ばっかりだ」

 紫釉は低い天井を仰いだ。

「責務だ何だ煩わしいんだよ。俺たちはせっかく嫌なことから逃げる力を持ってるってのにさ」

 微笑が獄中から響いた。紫釉は勢いよく立ち上がる。

「食い終わったら返せよ。見つかったら面倒だからさ」

 闇は沈黙を食い破るように広がった。



 紅運は燭台の火に導かれながら、真夜中の書庫を目指していた。

 扉に手をかけたとき、囁く声がした。


「昼間に言ったことは本当に君の辿り着いた言葉なの?」

 微かに開いた戸の間から青燕の姿が覗き、紅運は物陰に隠れる。


「……そうだよ」

 答えたのは翠春の声だった。

「僕にはそう思えないんだ。だって、君はもっと兄弟と話してみたいって……」

 陳列された書を背に、翠春は硬い表情で首を振った。

「兄さん、もう帰って。おれと話してると疑われる。母上が気にしてるから」

 青燕は項垂れ、踵を返して走り去った。



 遅れて書庫を出た翠春が、潜んでいた紅運にぶつかりかけ小さく声を上げた。

「悪い……」

 鉄色の前髪に隠れた目が紅運を睨む。

「翠春……」


「紅運にはわからないよ」

 言いかけた言葉を翠春が遮った。

「何もできないみたいな顔して、魔物と戦って、勅命まで受けて全部やり遂げたじゃないか。おれとは違う」

 翠春は足早に駆け去った。



「そんなのは俺の台詞じゃないか。俺よりずっと優れているのに……」

 燭台の炎が揺らぐ。現れた狻猊が乾いた笑みを漏らした。

「上等じゃねえか。とっくにお前は持てる者の側に回ってたって訳だ。意外と気づかねえもんだろ?」


 紅運は唇を噛み、闇に溶けていく背を見つめた。

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