四章:一、混混沌沌

 五色の大河が地上に流れているようだ。



 金箔で飾ったハリボテの龍が、演者の操る棒で命を持ったようにのたうつ。逆毛を模した綿に覆われた瞼は時折瞬き、舞を眺める皇子たちに挑むように睨みつけた。


 黄金の衣装を纏った演者が宮廷の奥から厳かに進み出る。身の丈ほどの大剣を携えている。


 金王始龍を討つ。建国の神話の一幕だ。

 尤も、剣は紙も切れない偽物の上、衣装に刺繍された龍は不敬に当たらないよう爪が八本しかない。九本の爪を持つ龍の紋は天子しか纏うことが許されないからだ。


 金王役の演者が垂直に剣を振り下ろす。一拍置いて、龍の身体が九つに分かれた。

 桃花が舞い散る。宮廷の庭に荘厳な太鼓の音が鳴り響いた。



「雄気堂堂たる舞でした。此度は生憎と臨御叶わなかった陛下も御満足なさるでしょう」

 白雄はくゆうの声に、演者たちは密かに安堵の溜息を漏らす。


 龍舞は、一年の太平を祈るための恒例行事だ。

 本来中央でそれを見届けるはずの皇帝の姿はない。皇子の姿も疎だった。

 演者たちには、陛下は病床に臥せており、息子たちが職務に当たっていると伝えた上、箝口令を敷いた。

 しかし、露見は時間の問題だろう。


 白雄は視線をやった。

 観覧席には龍と同じ名を持つ皇貴妃が艶然と微笑んでいる。銀蓮ぎんれんの背後には未だ修繕の間に合わない殿が連なっていた。



 演者が去った庭で、太鼓の代わりに冷たい鋼の音が響く。

 偽の龍が這った跡を掻き消すように、紅運こううん橙志とうしは素早く位置を変えながら剣を交えていた。


「いつもより容赦が……なくはないか!?」

 木剣の刺突を間一髪で交わし、紅運が息も絶え絶えに言う。

「そう感じるなら向こうで稽古を怠ったせいだ」

「仕方ないだろう、泰山に剣士はいないんだ!」

 反撃の間を与えず、橙志が半円を描くように斬り込む。紅運はたたらを踏みながら、上方からの袈裟斬りで防いだ。


「その割に動きについて来るようになったな」

 思わぬ言葉に、紅運は口角が上がるのを抑える。

「見えるようになっただけで、まだまだだ」

「当然」


 再び何合もの打ち合いが始まる。鋼の激音に混じって、通りすがりの官吏の声が聞こえた。

「処刑の日取りは決まったのか?」

「まだ極刑と決まった訳じゃない」

「それ以外ないだろう。皇太子殿下の命で拷問や尋問は行われていないが––––」


 紅運の頬を汗が伝う。鋭い剣撃に紅運の掌をから木剣が飛んだ。


 橙志の剣が首筋に突きつけられた。

「慢心、注意散漫。言い訳はあるか」

 紅運は首を振り、木剣を拾う。


 激しい追及を待ったが、橙志は官吏が過ぎ去った方角を睨んだだけだった。


「噂話に惑わされるようでは半人前以下だな」

「……本当なのか。黄禁おうきんが乱心したなんて」

「ああ、お前が不在の間だ。俺たちが止めなければ奴は皇貴妃と翠春すいしゅんを手にかけていただろう」

 紅運は目を伏せた。泰山から戻り、彼の凶行を聞かされてからも俄には信じられなかった。


「事情があったんじゃないか。黄禁も道妃どうひも権力のために身内を暗殺するとは思えない」

「事情があれど、皇族に傷を負わせたことは事実だ」

 橙志が短く答えたとき、城門の方で守衛が騒ぐ声が聞こえた。


「奴が帰ったらしいな」

「奴?」

「やっと兄弟が王宮に揃ったということだ」

 女官たちが慌ただしく廊下を行き来するのが見える。


「じきに皇子たちで話し合いの場を設ける。思うことがあるならその時に言え」

 橙志は俯く弟を見下ろした。

「お前は泰山で何を見た?」

 紅運は口を噤む。


 変貌した皇帝を屠る術も、始龍の脅威も、黄禁の母が泰山から差し向けられた道士であることも、まだ誰にも伝えてはいない。

 大聖は紅運に全てを伝えはしなかった。全てを知ればかつて破滅した皇子と同じ道を辿ると言うのが彼女の言だ。


 紅運は煩悶を振り払い、門へ向かう橙志の後を追った。



「第四皇子、紫釉しゆう様の御成り!」

 守衛が厳かに声を上げ、深く礼をする。左右の道を取り囲む従者たちの間に混血の皇子がいた。


「そういう仰々しいのはいいよ。だから、帰るのは嫌なんだ」

 褐色の肌の皇子は煩わしげにかぶりを振る。着崩した服は砂で汚れ、髪は粗雑に短く切られていた。


 異国の遊牧民のような彼の後ろを、按察司の烏用うようがついていく。

「ちゃんとしてください、もうここは宮廷ですよ。あれほど着替えて髪も伸ばせと言ったのに!」

「服なんてこっちに山ほどあるから買うことないよ」

 人集りの向こうから彼に手を振る姿があった。



「よう、青燕せいえん。いつも出迎えはお前が一番乗りだね」

「お帰り、紫釉兄さん! すごい格好だなあ」

 紫釉は駆け寄った青燕を小突き、周囲の賑わいを見回した。

「それにしても、今回はやけに少ないじゃないか。父上が死んで忙しいのか?」

「それは……」

 青燕は言い淀む。その間に、駆けつけた橙志と紅運が現れた。



「相変わらず橙志は剣呑だな。あれ……」

 紫釉は吊り気味の目を細めた。

「隣にいる奴、誰?」

 ちょうど紅運が人混みから彼の前に押し出されたときだった。


「冗談だろ」

 青燕が咎めるように囁く。後退ろうとした紅運を、背に負った木剣の先が腿を突いて押し留めた。

 紅運は声と表情を繕った。

「誰かの弟だ。忘れてもおかしくないくらい末端だから気にしなくていい」


 ふたりの表情を確かめる前に踵を返す。

 この場を早く離れようと足を早めた紅運の首に、褐色の腕が絡みついた。

「おい、悪かったって。紅運だろ。忘れてたんじゃない、気づかなかったんだ」

 紫釉は紅運の肩に手を回して引き寄せる。


「雰囲気が全然違うじゃないか。前は冗談なんて言わなかっただろ。背も伸びたし、成長したよ」

「女性の名前を忘れたときもそう誤魔化してるのか」

 紅運は振り解こうともがいたがびくもしなかった。


「可愛げもなくなったね、お前。その剣は?」

「橙志に稽古を受けてる」

「道理で太々しくなったのか。やめろよ、橙志が伝染るぜ」

「俺は疱瘡か何かか」

 頭上から降った影に紫釉が怯んだ隙に、紅運は腕から逃れた。


「デカいんだから後ろに立つなよ、影になる。まるで日時計だ」

「何だその服と髪は。宮廷に戻った自覚はあるのか。今まで何をしていた」

 橙志の詰問を身を逸らして避けながら、紫釉はふと兄弟の面々を眺めた。



「そういえば、黄禁の奴は? 鳥籠を仕入れてほしいって頼まれてたんだ。あいつ、鶏を飼いたいって言うんだよ。食べる訳でもないのに犬猫みたいに飼うっていうんだから……」

 周囲が水を打ったように静まった。


「黄禁兄さんは……」

 青燕が歩み寄って耳打ちする。

 紫釉は無言でそれを聞き、青燕が離れると大袈裟に溜息をついた。

「あの馬鹿、何を呑気に陥れられてるんだよ」



 彼は付添の烏用と二、三言交わすと、出迎えの列を逸れ、足早に刑部の方へ消えた。


 後ろ姿を見送る紅運の足首を、柔らかな感触が撫でる。いつの間にか白と黒の太った猫がいた。

「お前の名前を考えるのを忘れてたな」

 紅運は猫を抱き上げた。


「ずっと戻らなかった紫釉ですら陥れられたと思って疑わなかった。俺もお前の飼い主が悪事を企むとは思わない」

 猫が小さく鳴く。紅運は温かな額に顎を乗せ、王宮を見つめた。

「皇子が減れば始龍の思う壺だ。これ以上誰も死なせるものか」



 ***



 閉め切った緞帳には咽せ返るほどの薫香が満ちていた。


 いつにも増して血の気が失せた指で翠春は本を捲る。長い前髪は御簾のように顔を隠していた。


「今日は何を読んでいるの?」

 暗がりからの声に翠春は身を震わせる。銀蓮は息子の肩に手を置き、書物を覗き込んだ。


「青燕様と読んでいた本ね?」

 五本の指が痩せた肩をなぞり、銀蓮は吐息を漏らす。

「翠春、勉強会は暫くやめた方がいいのではないかしら。だって、この前……」

 衣から伸びた彼女の腕には裂傷が残っていた。

「妾も御兄弟を疑いたくはないわ。でも、貴方が心配なの。わかるでしょう?」


 翠春は微かに頷いた。白蛇のような腕がするりと離れる。

「御茶菓子はいるかしら。持ってこさせましょうね」



 銀蓮が緞帳の先へ戻ると、翠春は再び本に視線を落とした。四つ目綴じの表紙には『竜生九子遺事』とある。


「やっぱり……」

 紙の隅が彼の指先を掠めた。一筋の赤い切り口から血が流れ出す。頁を拭おうと指の腹で擦ったが、赤黒い染みは余計に広がった。


「母上は……」

 翠春は本を胸に抱いた。血は黄ばんだ紙を真紅に染める。

「どうしよう、青燕兄さん」


 暗い室内で、彼が母以外に助けを求めたのはこれが初めてだった。

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