三章:十一、以火救火
炎は既に滅びた古城も、未だそこに犇く生者も、境なく轢き潰した。
大地を駆けた赤光は皆に見てとれた。見えただけだ。
無比の天災はひとの意志の介在する間もなく全てを焼き尽くす。ひと吹きの火炎は堀に構えていた兵士たちを弩と火砲とともに溶かしていた。
兵器による猛攻も、道術による妨害も、あくまで誘導にすぎない。自陣に導いた敵を討つのは皇子の役目のはずだった。彼らは、なす術を失った兵士たちを呆然と見ていた。
阿鼻叫喚と肉の焦げる匂いが漂い出す。
––––馬鹿か、俺は。何が同じ炎なら利があるだ。こんなものをどうすると。
「非道い……」
「
堀から流水が立ち上がり、水の壁が出現した。
怒涛の白波を赤光が貫通する。一閃された火の刃が円状に水壁を抉り、青燕の頭上を掠めた。一拍間を置いて、後方の城跡が崩れ落ちた。
朽木の骨組は瞬く間に燃え盛る。自陣にも出現した炎が急き立てるように火の粉を散らした。
消火に向かおうと身を翻した
「後ろは弟たちに。我々は元凶を止めなくては」
前方では死体の脂を吸った赤が煌々と輝いている。
「紅運!」
橙志は向き直る直前、短く吼えた。
「やれるだろう!」
視線すら交錯しないやり取りに、紅運は弾かれる。
傍の青燕は限界を超えた大魔の使用からか、荒い息を吐いていた。
––––俺がやらねば。
「
荒ぶる火の中、一際紅い輝きが走った。この炎は味方だと知っている。
「王宮の再演だ、燃えるもの全て消し飛ばせ!」
灼熱の閃光が廃都を走り、真空が爆ぜた。
爆風に煽られた古城が脆い炭の山となって崩れ去る。炎を統べる魔に奪われた火は儚く消え去った。
轟音が証左、紅運の成功を確かめず、橙志は白雄と戦地を駆る。
頭上で異相の人面が鳴き、火の雨が降った。
「殿下たちを御守りしろ!」
進路に注ぐ豪炎を鉄の盾を構えた兵士たちが弾く。幾人かの鎧に炎が燃え移った。
橙志の部下であり、白雄の見知った兵を、ふたりは顧みない。
一瞬でも足を止めれば火の海に呑まれるのみだ。
––––弔いは勝利に変えて必ずや。
白雄は胸中で祈る。
「
新たな攻撃に備える
「
老人の肉が膨らみ、再び巨人が現れたが身の丈は先刻の半分ほどだった。
「橙志、機を譲ります」
「有難く」
潸潸たる猛火の雨を掻い潜り、ふたりの皇子は進む。
狙うは道術による二対の壁の先、燭陰だ。
機を逸すれば焼死以外に道はない。
「白の大魔は重責を好む……」
白雄の声が重く響いた。
透ける壁を白光が舐め、炎が捻れる。大気そのものに纏わせた重力が燃焼すら捩じ伏せた。
寸刻の間を橙志が駆け抜けた。
壁の前に蹲る巨人の背を足場に跳躍する。周囲の空気に押し当てた圧は翻って、橙志を重力から解き放つ。
「
伝達の意図を持たない、純然たる大音声が剣先から放たれた。
音の螺旋は空間を抉りながら垂直に飛ぶ。
燭陰がその身を僅かに退いた。
真横から吹き付けられた燎原の火が橙志を弾く。
「橙志!」
白雄が咄嗟に重圧をかけ、弟の身を地上へ引き戻す。叩きつけられた橙志の上に豪炎が迫る。
火は水平な硝子に隔てられたように、左右に割れて夜空を焼き払った。
残炎に、影と見まごう黒い姿が佇んでいた。
最前線で一身に防護を担った羅七の全身は、殆ど炭化していた。
「勝利を……」
羅七の上半身が枝を折るように崩れ落ち、残る脚も倒れた。
皇子たちは言葉もなく、己の武器を握りしめた。
唯一の勝機は逃した。
「何故だ、唇から火は放たれなかった……」
橙志は歯を軋ませて唸る。
「ええ、貴方の真横から火が回ったように見えます」
火の雨は降り続けている。
僅かに離れた場所から紅運は、ふたりの兄の見ていた。
「早く僕たちも戦わないと……」
青燕が胸痛を堪えて袍の襟を握る。紅運は肩を貸しながら、此岸の地獄と化した廃都を見渡した。
––––炎を炎で消す術などあるはずがない。
「紅運」
掠れた声と熱い息を耳元に感じた。
縋りつきたくなるのを抑え、紅運は狻猊を見遣る。返ったのは驚くほど静かな声だった。
「お前は誰より火をわかってるはずだ。知らねえとは言わせねえぞ。俺といて何を学んだ」
紅運は赤い髪越しに同色の炎を見た。
––––燭陰は頭部を潰せば火を吐けないはずだ。一瞬でも無力化できれば。火を消すには熱と風を奪う。駄目だ。羅七がいれば防壁を造れたのに。
紅運の脳裏に、岩窟での戦闘が蘇った。
––––そうだ、火は俺の味方じゃないか。
「青燕、手伝ってほしい」
紅運は長子のように超然たる笑みを繕ったが、上手くできたかはわからなかった。
「火と水が揃えば最強だ」
青燕は掴んだ襟を離し、手を差し出した。
「勿論!」
炎の矢が焼ける雲から絶えず放たれる。
盾兵がそれを防ぎ、弓兵が虚空で打ち砕かんと矢を放って奮闘していた。
紅運と青燕は互いに合図を交わした。合わせた盾の上を水流が走り、蒸気が火を消す。空からの火は更に高温の熱線に吹き飛ばされた。
ふたりは前線へ飛び込んだ。
「兄さん!」
猛攻を掻い潜りながら、白雄と橙志が振り返った。
肩で息をしながら紅運は声を振り絞った。
「行けるかもしれない、協力してほしい」
「しかし……」
白雄が眉根を寄せる。
「口以外からも火が出るようだ。出処を看破するまでは危険が大きすぎる」
橙志が首を振った。
「尾です!」
幼気な声が飛んだ。火傷を負った
「燭陰は胴だけ現して尾は陽炎で隠していたんです。先程貴方様を弾いたのはそれです!」
皇子たちは互いを見合った。
「尾を抑えられれば……」
裂ける戦力はひとりが限界だが、単騎で燭陰に望むのは命を顧みない行為だ。更に誰を回すかが勝機を分ける。
「俺が……」
紅運が言いかけたとき、傍を何かが駆け抜けた。
戦場でありふれた銅の帷子を纏ったひとりの兵士だった。
「
橙志が声を上げる。
彼の目蓋に傷をつけた兵士は、火の海の中に身を投じた。
「何をしている!」
崩れかけた堀の中で鎧が火の照り返しを放つ。彼の姿が埋もれ、代わりに煤を被った筒が空を仰いだ。
「命ある者は集え! まだ溶けていない火砲があるぞ!」
王禄の怒声に、兵士たちが次々と飛び込む。熱波に身を煽られながら、彼らは砲塔を傾けた。
幾分か力を失った砲音が響き、燭陰の胴が衝撃波に波打つ。風を切った赤い先端が林の上に跳ねた。
「見えたぞ!」
轟音、爆煙。炎の狂宴が火の大蛇を迎え撃つ。
尾が再び林に沈みかけたとき、二対の巨大な腕がそれを持ち上げた。
巨人と化した羅九が両手で燭陰の尾を掴み、皮膚が焦げるのも構わず抱え込む。
憤怒に哭く人頭から漏れた火が山肌を払った。
「今こそ!」
白雄が声を上げた。
「蒲牢、薙ぎ払え!」
橙志の激声を音の大魔が増幅させる。音の波動は焼かれて脆くなった木を根こそぎ薙ぎ倒した。
倒壊する林は意志を持ったように、燭陰の上に天蓋を築き始める。
「重責を、不遜の逆徒へ!」
白雄の権能が木々を籠状の檻に変えてゆく。
紅運は青燕に囁いた。
「狻猊が陽炎を作るとき、蚣蝮の水は蒸発しなかった。たぶん大魔どうしは打ち消し合わないんだ」
「わかった、やってみよう」
青燕が白い顔で微笑む。
「青の大魔は水を好む」
「赤の大魔は炎を好む」
赤と青の光が絡み合いながら起こる。
「蚣蝮!」
「狻猊!」
龍が如く噴き上がった巨大な水柱を、螺旋の炎が取り巻きながら天へ昇った。
火に守られる水は干渉を受けず、倒木の天蓋を衝く。燭陰の放った業火は赤と青の螺旋に巻き取られ、白に変わった。
濛々たる水蒸気が重力の籠を球体じみて満たしていく。
「……これだけ湿気が蔓延したら燃え続けないはずだ」
紅運が咳き込みながら後方に目をやった。
白雄は頷き、蛇矛を掲げた。
「
地面が隆起し、白雄の足元が水晶のように輝いた。白の大魔は巨大な亀に似た背面のみを現し、彼を上空へ持ち上げる。
均一の取れた動きで腕がしなり、白雄は蛇矛を投擲した。
鉄が虚空を切り裂き、真っ直ぐに飛ぶ。
「狻猊!」
蛇矛の石突が炎に包まれ、推進力で加速する。燭陰が唇を丸めて息を吐いた。
三つの火球が紅運、青燕、橙志目掛けて落下する。既に全ての力を賭けた皇子たちに防ぐ術はない。
––––弟を救うべきか、敵を討つべきか。
白雄は逡巡する。
––––べき、じゃない。どちらも為したいならば。
その時、流星に似た銀の輝きが三条煌めいた。
「曇りない目だ。これならよく狙えるとも」
何処かで、声が響いた。
三本の鉄の矢が、火球を全て粉砕する。
燭陰が薄目を開けて驚嘆した。
白雄は贔屓を蹴って跳躍し、滅国の妖魔を前にする。
「誠の王も都もわからぬ愚昧に、何じょう国が滅ぼせるか!」
閃いた鋒が燭陰の額に吸い込まれる。白い人面に罅が入り、亀裂から光が漏れる。
最期の光が破裂するより早く、蛇矛に惑わせた狻猊の炎が大蛇の頭をから尾までを両断した。
噴出する火炎が天を裂き、左右に破れた燭陰の死骸が燃え盛る。
極光に似た猛火が夜空を染めた。凶兆は膨大な塵だけを残し、消え去った。
古城には、炎が蹂躙した痕だけが残っていた。
重傷の兵士を、まだ動ける兵が馬車へ運ぶ。
ふたりの兵士に担がれながら、王禄は帰還した橙志を見上げた。
「師範……これで少しは罪が減りましたか」
「莫迦者。死罪で済ますと思ったか。三度死んで生まれ変わる分まで働かせる。早く復帰しろ」
煤と火傷に覆われた笑みに、橙志は眉を顰めた。
傷ついたのは兵だけではない。
羅七の死体を回収し終えた兄妹が一礼した。
紅運も礼を返す。
地面に倒れ伏した羅九は生きていたが、両腕が焼け爛れていた。
「何て無茶を」
唇を噛む紅運に、羅九は力無く笑った。
「奉仕ではございません。愚老の意地です。一目も見えぬ孫とその兄弟のため。果てた
紅運は息を呑む。
「
羅九は兄妹に運ばれ、姿を消した。
泰山の方角を見る紅運の背に、青燕は視線を投げかけた。
「黄禁兄さんは……」
その肩に白雄が手を置き、首を振る。
「城で知ることです。戦い疲れた身に告げる真実ではない。今は疾く都に戻り、安寧が戻ったことを知らせねば」
白雄の完璧な横顔は煤に塗れ、皇帝の衣も焦げていた。青燕は微笑して頷いた。
紅運は脚を引きずり、やっと馬車に乗り込んだ。
「言うことが沢山……始龍と、皇帝と、あとは狻猊の主だった……」
声が途切れ、紅運は隣に座る橙志の肩に額をぶつける。
前の席に乗り込む白雄が苦笑した。
「大魔を使いすぎたのですね。緊張も途切れ、疲労も頂点かと」
「兄さん、涎が」
青燕に指され、橙志は口元を拭う。
「口じゃなくて肩だよ」
訝しげに睨んだ先には、昏倒した紅運が額をつけており、肩の布が一段濃く染まっていた。
橙志は溜息を吐く。
「寝ている人間に咎は問わない。次の稽古で、だな」
「貴方も冗談を言うのですね」
白雄が顧みた彼の面差しは鋭く真剣だった。
「どうぞ、お手柔らかに」
皇子たちを乗せた馬車が都へ進み出す。
夜空からは極光が消え、細やかな星の光が散っていた。
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