はぐれ皇子と破国の炎魔:龍久国継承戦
木古おうみ
第一部
序章:一、皇帝崩御
銅鑼の音が響いた。
祭事に打ち鳴らされる晴れやかな轟音ではない、巨大な竜が息を漏らしたような静かな響きだった。
王宮中に響き渡った音は皇子たちの耳にも届いていたが、彼らの中で今までそれを聞いたことがある者はいない。それ自体が何を示すのか、誰もが知っていた。
「皇帝陛下、崩御! 皇帝陛下、崩御!
「逝ったか……」
銅鑼の残響に重なった声に、
陶磁器じみた白い肌とひとつに編んだ黒髪は水墨画から抜け出したようだったが、瞳だけは彼の名の通り炎のように赤かった。
「行かなくてよろしいのですか?」
卓上に水差しを置きながら乳母の
「行っても意味がない。次の皇帝は白雄に決まってる。九男には馬桶洗いの仕事も回ってこないさ。それに……俺の名前すら一度も呼ばなかった父親だ」
年老いた乳母が気遣うように目を細めたとき、部屋の扉を叩く小さな音がした。
琴児が観音開きの扉を開けると、ふたりの従者を連れた細面の青年が立っていた。
「
青い礼服を纏った細面の皇子は部屋の隅まで進むと、少女のような笑みを浮かべた。
「聞こえたよね……行こう? 最後の挨拶をしなきゃ」
紅運は巻いた紙を隅に寄せ、無言で立ち上がった。
宮殿と宮殿を繋ぐ廊下には普段と変わらず鳥の声が満ち、赤い花が咲いていた。三歩前で揺れる長衣の裾を見つめながら紅運が呟く。
「何で迎えに来たんだ」
「ちょうど近くにいたんだよ。庭の花が枯れたからって呼ばれて……」
「そうじゃなく、俺なんか……」
青燕は紅運の苦々しい表情には気づかず、足を止めた。廊下の枝垂れた花の房が老人の手のように萎んでいた。
「ここもだ」
青燕は花を手に取り、薄く目を閉じる。硝子のような雫が弾け、乾いた枝から細い木の幹まで水が滴った。
紅運は当然のように術を使いこなす兄から目を背ける。青燕が首を傾げた。
「おかしいな、庭中の花が熱に近づけたように枯れてるんだ。火気なんてないのに」
「さあな」
紅運が俯くと、青燕は気遣うように微笑んだ。
「紅運は何をしていたの?」
「別に」
「文机に何か広げていたじゃないか」
「絵を描いていたんだ。父上の見舞いに……やりたくてやってた訳じゃない。ただ、白雄に勧められただけだ。結局無駄になったがな」
「そっか。父上も見たかっただろうな……。この前西方から名医を呼んだばかりなのにね……」
涙声を漏らす青燕の横で、紅運は息を吐いた。涙は出なかった。父の死に一抹の悲しみも感じない自分に、頭の芯が冷えるような微かな怯えだけがあった。紅運は繕うように首を振った。
「これ以上苦しまずに済んだと思えばいい」
「君のが年上みたいだ。そうだね、こんなときこそしっかりしなきゃ」
青燕は目を擦って笑みを作る。紅運は下を向いて一歩踏み出した。
皇帝の遺体を安置する
入り口を守る禁軍の兵士の衣にも金糸で龍が縫われている。
紅運が扉の前に着くと、先に剣を背負った長身の男が立っていた。
「第三皇子、
衛兵が声を張り上げる。
禁軍で剣術師範も務める橙志は武器を兵のひとりに預け、精悍な横顔をわずかに後ろに向けた。
「青燕、服に泥がついているぞ。居住まいに気をつけろ」
橙志は紅運には視線を向けず、儀礼服の裾を翻して奥へ進んだ。
「第六皇子、青燕様、第九皇子、紅運様のお成り!」
長い歳月で微かに黒く変色した黄金の調度は室内に淀む空気を更に重くしていた。
中央には屏風に描かれた神獣たちに見下ろされる金色の棺がある。
傍に侍っていたのは第七皇子の黒勝だ。法を司る刑部の官吏として父を支えていた彼は、兄弟を見留めて哀別の視線を投げた。
「まだ到着していないのは……」
青燕が歩み寄り、
「
「第二皇子の自覚があるのか」
橙志が眉間に皺を寄せたとき、衛兵の声が再び響いた。
「第五皇子、
痩身の皇子が玉麟殿に踏み入る。呪術師を母に持つ彼は道服に身を包んでいた。
「お前にしては早かったな」
黄禁は病的な青白い肌に黒子を散らした顔で、目の下のくまを歪め笑みを作った。
「銅鑼が鳴る前からわかっていたさ、ほら」
道服の袂から白い包みを出す。
青燕がそれを受け取り、小さく叫んで落とした。
「凶兆だ」
床に落ちた布地と同じ色の鳥が事切れていた。
「御前に死骸を持ち込むな!」
橙志の怒声に怯みもせず、黄禁は鳥を拾って窓から外に捨てた。
雑然とした空気をひとつの靴音が一瞬で鎮めた。
皇子たちが視線を向ける。
黄金の床が白い喪服の影を映した。
「第一皇子、
「お待たせしました」
白の中で墨を浸したような束ねた黒髪が揺れる。
「兄上、もう喪服を用意していたんですね」
「第一子の名につけられる白の字は、前帝亡き後の国を背負う服喪の意味が込められています。常に備えていますよ」
白雄は微笑んだ。
各々美姫を母に持つ皇子の中でも眉目秀麗と名高い面差しは、ぞっとするような美貌ではなく、張り詰めた空気を和らげる穏やかなものだった。足取りも、詩を諳んじるような声も、全てが皇太子として相応しい。
紅運は暗い息を吐いた。
白雄は喪服の裾を翻して棺の前に立ち、兄弟を見渡した。
「永きに渡り
誰も異論を唱える者はいない。弟たちは既に天から定められた次の皇帝を見上げるように、長兄を見上げていた。
「龍久国の元は龍九、即ち九に分かたれた龍の遺体から生まれた国とされます。創世の混沌にあって、我らが祖先・
白雄の背後に屏風の中の創世の神話が広がる。
「龍の腹からは九柱の大魔が堕とされ、金王の九人の息子は其々を使役し、夷狄から国を守ったのです。大魔の一柱が封印された今でも、必ず九人の男児を設ける習わしはここから来ています。この場にいない者も含め、今日も九人の皇子が居る。天地開闢の起こりから受け継がれた如く、私たちもまた九つの力を合わせて龍久国を守っていかなければなりません」
鋼を打ったような澄んだ声が響き渡った。紅運は胸中で密かに呟く。
――合わせるべき力は、八しかないだろう。
紗の頭巾で顔を覆った神官が現れ、盆に積まれた巻物を運んでくる。
「父上の遺言か……」
独り言のように呟いた紅運の耳元で、小さな声が聞こえた。
「読まなくてもわかるだろうさ。白雄兄上が玉座を継ぐ、だろう?」
驚いて振り向くと、いつの間にか隣に並んでいた黒勝が目を細めた。紅運は答えず顔を背けた。他の兄弟も声を抑えて口々に囁き出す。
「父上のことだ。万事恙なく整えてあるだろう」
「うん、倒れてからも何度も文机に向かっていたのを見たよ」
「私語を慎め。聞けばわかることだ」
白雄は僅かに緩んだ空気に咳払いし、神官から受け取った巻物の紐を解いた。紙面が広げられ、墨の香りが漂った。
紗の奥で小さく息を呑む音がした。
皇子たちの視線を一身に受けた神官が咳払いし、広げた書の内容を読み上げた。
「
伏魔伏国……」
詩才にも長けた前帝の作とは思えない、音韻が守られているだけの歪な詩だった。
兄弟が怪訝な視線を交わす中で、白雄、橙志、黄禁だけが微かに青ざめる。いずれも父と同じく詩学に通じた皇子たちだった。
「これは、どういう……」
涙声で青燕が口を開く。橙志の低い声が宮に響いた。
「“都は墓上に建っている。血をもって旗を染め、剣をもって九つの頭を束ねる。龍が死ぬとき最も水は澄む。魔を統べる者が国を統べる……”」
兄弟の視線は白雄に注がれた。
「伏魔の字は不吉故に忌避され、遺言に使うものでは到底ありません。何故なら、伏魔殿は赤の大魔が封じられているだけでなく、大昔在位した暴君が囚人たちを殺し合わせる残酷な遊戯の場だったからです」
彼は蒼白な顔のまま言葉を口にした。
「遺言をこのまま解釈するならば……九人の皇子で殺し合い、それぞれが従える大魔を調伏した者が次の皇帝になるべしと……」
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