第一章 狼と少女-2
背中から降りた少女に、声無き言葉をかける。
彼女の望み通り、戦争は犠牲者をほとんど出すことなく終わった。
戦争は嫌だ、といった彼女に請われて戦地に強引に介入した結果だ。
「満足したか、って……満足っていうのは少し違いますよ。でも戦争は悲しいですから」
私の音なき言葉に、少女は困ったように答える。
――昼寝の邪魔だったからな。静かにしてほしいものだ――
言葉を重ねると、少女が複雑な表情を浮かべて毛皮を撫でた。
「そういうことじゃないですよ」
――しかし戦争を止めるなど、いささかお節介に過ぎるぞ――
「もう、言われなくても『お節介』なのは分かってますよ。でも見て見ぬふりをするのは良くないと思ったんですよ」
ため息混じりの声に、少女が外套の下で尻尾を動かした。抗議するようにフードから飛び出た獣の耳がピクピクと動く。
――これだから箱入り娘は――
「箱入り娘なのも、世間知らずなのも分かってますよ。だから、こうして旅をしているんじゃないですか。ウィルも賛成してくれたでしょう」
少女は私の名前を呼んで真紅のフードを外すと、ぷくりと膨らんだ頬に銀色の髪がシャラリとこぼれ落ちる。
見慣れた銀色の髪と、狐の耳。そしてフワフワとした狐尾が、彼女の血統を示している。
――絵本みたいにはいかないさ――
「それは分かってますよ」
彼女の手には、昼寝の前に読んでいた本が握られている。
タイトルは『ニースの不思議な旅』。彼女のお気に入りの物語で、何度も読み返された本だ。
端々が汚れているのは、彼女の愛読書である証拠だ。旅を始めるときに、自宅から持ち出した数少ない本の一つでもある。
ドワーフの少年が、
――その本。いつも読んでいるな――
「ええ、大好きなんです。だってウィルがくれた本ですから」
しっかりと本を抱きしめ、私の名前を呼ぶ。
だが『私』には本を渡した記憶などない。
「それも忘れちゃったんですか?」
――それは『我』だ。この『私』ではない――
「そうですか。ウィルは忘れちゃいましたか。残念です」
偽りのない答えに少女――パンドラがしょんぼりと表情を曇らせる。
彼女の表情に胸の奥がかげるのを感じて、誤魔化すように言葉を続ける。
――忘れてしまったのだ。どうしようもない。仕方ない事だ――
「たしかに、仕方ないかもしれませんけど……でも、どうして忘れちゃったんでしょう?」
そんなことは自分がいちばん知りたい。
言葉に触発されるように、ここ三ヶ月の記憶を掘り起こす。
だが思い出せるのは、そこまでが限界だ。
三ヶ月より以前のことは、まるで思い出せない。
あるのは空白の過去ばかりで『ウィル』という自分の名前すらパンドラから聞いたものにすぎない。
自分が何者であるかなど分からない。種族も年齢も、出身地も、家族の名前すら何一つ憶えていないのだ。
少女は記憶を失う前の自分を知っているらしいが、それも断片的なもので、自分の過去を正確に識るには至らない。
パンドラ曰く『前は姿が違った』『魔狼という種族で旅人だった』『たくさんのお話を知っていた』『すごくお料理が上手で優しかった』
そんなよく分からない情報ばかりで、自分の正体を把握するには届かない。
なぜ姿が変わってしまったのかも、なぜ記憶を失ったのかも、なぜ『あらゆる音』から見放されたのかもパンドラにも分からないらしい。
――やはり音はしないのだな――
青々と茂る背の高い草を乱暴に踏んでも、カサリという秘めやかな音すらしない。
風が草原を駆ける音は心地いいが、それは自分では生み出せない。どんなに叫ぼうとも声は生まれず、草木を揺らしても音を立てることもできない。
――どうして私は音を立てることすらできないのだろう。以前もそうだったのか?――
「ウィルはとても静かですよね。でも、前はそんなことはなかったですよ。普通にお話もできました」
――そうなのか?――
「はい。前はいつも寝る前にお話をしてくれました。たくさん、冒険をしたって教えてくれました。とても楽しい話ばかりでした。すごく面白かったです」
――かつての私は、ずいぶんとお喋りだったのだな――
意外な自分の過去に疑問を挟むが、パンドラが嘘を言っているような匂いはしない。
「お喋りだったかは分かりませんけど、色んな事を知ってましたよ」
かつての自分に想像の翼を広げていると、パンドラが背中によじよじと登ってきた。
「やっぱりウィルの背中は落ち着きます」
そういって背中の毛皮に寝転がるパンドラ。匂いを嗅がれているようで落ち着かない。
――私の背中は寝床ではないぞ――
「ウィル。ここじゃダメですか?」
――別に……ダメというわけではない。ただ危ないからしっかり掴まっていろ――
「はい。でも、ウィルの毛皮はフカフカで気持ちいいですね。なんだか眠くなりそうです」
――むぅ……私の背中は寝床ではないぞ――
困惑しながらも、パンドラがしっかりと定位置についたことを確認すると、背を揺らさないように風吹く丘をゆっくりと歩きだす。
背中にわずかなくすぐったさを感じながら、自分の正体に思いを馳せる。
自分の記憶の大部分は空白になっている。
パンドラの言葉通り、自分の種族が魔狼であるかすら分からない。
そんな疑問を解消するために、閉ざされた結界の外に出ることを決めた。
パンドラは『旅』というものに憧れていて、その旅に同行することを望んだ。私はそれを拒むどころか、当然のようにパンドラという少女との旅を受け入れた。
(以前の『我』はパンドラとどんな関係だったのだろう?)
なぜ少女と離れがたく感じたのかは、今でも分からない。
ただパンドラとの時間を、居心地が悪いと感じたことは一度もない。
(私は旅をしていたというが、なぜ旅をしていたのだろう? なぜ記憶と以前の姿を失ったのだろう?)
疑問をくゆらせながら、青々とした草に足跡をつける。
パンドラは毛皮の上で、楽しそうに聖王の活躍を讃えた詩を歌っている。
「血河の荒野 猛き双剣を振りかざし 斬り征くは 麗しき黄金の若き王♪
焔を祓うは黒き楯の聖なる忠将 幾万の軍勢 雲霞と兵なれども 王に暴虐は届かじ♪
嗚呼 優しくも強き聖王 亡国から発ちし勇者の友なれば 聖女の慈しみも共にあらん♪」
千年前の英雄譚を口ずさみ、パンドラは体を毛皮に埋めている。
――今日は聖王記の六節詩か。そんなに長く詩が残るとは、歌った吟遊詩人も想像しなかっただろうな――
「そうかもですね……でもウィルも聖王記を覚えてきたんですね」
――毎日聞いていれば覚えもする。耳にタコというやつだ――
「それは困ります。ウィルの可愛いお耳にはタコは似合わないですよ」
頭の方に膝行して耳を撫でるパンドラ。照れくさいし、妙にくすぐったい。
「でも、いいですよね。聖王の詩。ウィルはどの詩が好きですか?」
――私は聖女の冥界巡りが好みだ。その……綺麗な詩だからな――
「星々が輝く夜の世界。果てなき白砂の海♪ 蒼き灯火を乙女は
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