第二章 新しい街と、新しい出会い-2
パンドラは大事そうに本をベッドに置くと、わざわざ私のベッドで横になる。
「ちょっと、疲れちゃいましたね」
――さすがに初日から歩き回りすぎた。もう今日は食事をすませて寝たほうがいい――
「そうですね。私もお腹ペコペコです」
――下に食堂があったはずだ。こういう宿だから値段は安くないだろうが、今日くらいは贅沢をしてもいいだろう――
ベッドの上でググッと伸びをして、新しく買ったばかりの本の上に陣取る。パンドラは本を読み出すと寝食を忘れて没頭してしまうからだ。
「あ、ウィル。なんで隠すんですか!」
――食事を食べるまではお預けだ。今日はしっかり食べて寝る――
「むぅ、一緒に本を読みたかったのに。ウィルはちょっとイジワルです」
ぷくっと頬を膨らませるパンドラ。だが反対する気はないらしい。
――
貴重品を上質の
子犬にしか見えないウィルを連れたパンドラも、けっして嫌がられることなくレストランに迎えられ、あろうことか個室をあてがわれた。
フロントで出した金貨の効果は絶大で、しばらく待つとテーブルにはスープと柔らかい白パンが並んだ。
「こういうお店、なんだか緊張しますね」
――まあ、身の丈にあってない気はするな――
格式が高いホテルらしく、四方を
「あ、このパン。すごく美味しいですよ」
――こっちのスープもいいぞ――
子犬用の皿に注がれたクリームスープを舐め取る。わざわざ
「ウィル、ここに泊まれてよかったですね」
――そうだな。金貨一枚の価値はあったな――
「部屋も大きいし、ベッドもフカフカで気持ちいいですもんね」
――ときには高級な宿も悪くないな。今夜はじっくり眠れそうだ――
旅の空の下ゆえ毎日の贅沢はできないが、たまには高価な宿で、美味な食事を
「お魚、美味しいです」
パンドラは器用にナイフとフォークを扱っている。
「ウィルもどうですか、ソースもほっぺが溶けそうですよ」
頬を抑え、川魚の味に
「ずいぶんとお上品な犬だな。お嬢ちゃん」
パンドラが切り分けた魚を口に運んでいると、そんな言葉がかけられた。
顔をあげて
冒険者だ。
腰に帯びた剣には、仕立てのいい鞘が振られている。マントの丈は長く、その下には金属の匂いがする。錆の匂いのしない手入れの行き届いた高価な鎧だと服の上からでも推測できた。
――こんなところで、冒険者に話しかけられるとはな――
立派な宿泊施設にも、冒険者という職業にも、似つかわしくない麗人の視線に腰を上げる。
「えっと、私たちのことでしょうか?」
「君たち以外に誰がいる?」
頬に浅い傷痕が印象的な女性が、含みのある笑みを口元に浮かべて席を立つ。
人間の基準ではかなりの美人だろう。浅黒い肌のエキゾチックな雰囲気の女だ。
――パンドラ、スヴァルトエルフだ――
だが、私はすぐに彼女の正体に気付いてパンドラに警告を飛ばす。
信仰の街アルベインで散見したエルフ種とは似て非なる匂い。極めて巧みに
彼女はダークエルフとも呼ばれる者の末裔だ。
「スヴァルトエルフさん、なんですか?」
――バカ、軽々しく口に出すな――
慌てて警句を放つが遅かった。
「なっ⁉」
ダークエルフの
しなやかな指が剣の柄に伸び、眉が一気に吊りあがる。隠していたものを奇跡もなしに看破したのだから当然だろう。
「貴様、どうして分かった⁉」
一瞬にして空気が一変し、周囲の人だかりがテーブルごと割れる。巻き込まれたら
(さすがに危険への嗅覚が鋭いな。たいしたものだ)
商人たちの変わり身の早さに関心しつつ、警戒状態の警備員に目配せする。
(彼らはアテにはならないな。もう完全に腰が引けている)
ダークエルフの総身から立ち上る気配だけで、彼我の実力差を痛感したのだろう。彼らそれなりの手練だが、命がけで彼女を止めるほどの報酬を得ているようには見えない。
ツカツカとブーツを鳴らして近づいてくるエルフにパンドラは座ったままだ。
「答えろ。なぜ見抜いた」
女の指が剣の柄にじわりと伸びる。
緊迫した雰囲気がツバを飲む音すら許さず、誰もが二人の挙動に遠巻きに見守っている。
冒険者にからまれた少女を守ろうとする気概のある騎士さまは、残念ながら不在のようだ。
私はすでになにが起きても対応できるように防御結界の準備を終えている。
しかし――
「わああああああ、すごいすごい。私、初めて見ました。ジョリイド異聞録、ケイゼル英雄譚、モルゼン神殿の決戦、あとそれからそれからッッッ」
殺気立つダークエルフの騎士にパンドラが詰め寄った。
そのあまりの無防備さに虚を突かれる女騎士。その手を握り、感激に震える言葉を矢雨のように射掛ける。
「な、なっ?」
突然ぶつけられた無垢な言葉に騎士は、羊に襲われた狼のように困惑している。
「たくさん読みましたよ。コトナ録も、クリケイド伝説も、すごい冒険ばっかりでした」
それはダークエルフが活躍した、様々な伝承を記した本のタイトルだ。
ダークエルフは、古エルフや森エルフなどとは違い。一箇所に定住することなく旅をするものが多い。浅黒い肌の色や、扱う魔法から闇の眷属として誤解を受けることも多いが、その一方で
そして、それらを記した物語はパンドラがこよなく愛するものだ。
「あなたは冒険者さんなんですか?」
「あ、ああ。そうだが」
目をキラキラさせる少女に、どう反応していいか分からないようにダークエルフの女が視線を彷徨わせる。さっきまでの敵意はどこへやら、返すべき言葉を懸命に探しているようだ。
その狼狽した姿になぜか共感を覚えるも、記憶を探っても答えは出ない。
「魔物退治とか、囚われの貴族さまを助けたりしたんですか?」
「な、何度かは」
その答えに、パンドラが大きく息を吸い込んでいるのが分かった。感動しているらしい。パンドラのマントの下で尻尾が騒がしく動く。耳はフードの生地を波打たせるのでひどく心臓に悪い。
周囲の緊迫感こそ相変わらずだが、すでにダークエルフの顔には『逃げたい』と書いてある。初対面の女の子に、訳もわからないまま強引に迫られたら誰だってそうなるだろう。
「す、少し……場所を変えようか」
ダークエルフの女は散々視線を泳がせたあげく、絞り出すようにそう言った。
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