第二章 望月と小さな宴-1

※※※ ※※※


 トロルの亡骸が月光の下に晒されていた。


 『彼』の棲家には多くの食料の残骸が転がり、同時に多くの人の亡骸があった。トロルがさらい、面白半分に玩具にした人間たちの末路だった。

 彼らの遺体が再び蘇らぬように、念入りに魔法で焼却を果たして双子の月を見上げる。


 ――あんな死体を見せずに済んでよかった――


 トロルが根城にしていた陰鬱いんうつな洞穴を抜けて、トロルの血で汚れた四肢を洗うために水場を探す。


 嗅覚を頼りに渓流へとたどり着き、肌を刺すほど冷たい水で全身の血を清める。

 月光がひどく眩い。視線を落とすと、流水の中に自分の顔が映っている。


 黒い毛皮。赤い瞳。人とは似ても似つかぬ長いマズル

 狼と呼ばれる獣の顔がそこにあった。


(私は何者なのだろうか)


 二つの月を湛える水鏡に胸中で問う。


 最初の記憶は、一面の花の海で少女と見つめ合っていた記憶だ。

 意識を取り戻した私は、それ以前の事を一つ残らず忘れ去っていた。


 名前も、過去も、何一つとして覚えてはいなかった。この姿も本来の人狼のモノではない。


 ウィルノーラ、という名前もパンドラが名付けた。彼女が語るには、かつて『我』はそう名乗っていたらしい。かつての『我』は、魔狼という種族であり、旅人であり、沢山の物語を知る博識な友人であったそうだ。


 しかし、実感はない。なぜ記憶を失ったのかも、『我』と姿が違うのかも、声と音を失ってしまったのかも分からない。モヤモヤする。


 ――考えても仕方ないことか――


 ザブッと水面に顔を沈めて、冷たい水で頭を冷やす。


 私とパンドラは三ヶ月を経て、旅に出ることを決めた。


 小さな魔女は十二歳になったのを契機にして、旅に出ることにした。パンドラは『旅をしてみたかった』といったが、それが単なる好奇心でないことは匂いで明らかだった。


 ――まったく。お人好しだ――

 パンドラは、私の記憶を探そうとしてくれている。


 迷惑だとは思わなかった。一人で記憶を探そうとは微塵みじんも思わず、私は当然のように彼女との旅を受け入れた。


 何故とは思わなかった。

 記憶を辿らずとも、胸を焦がす想いは今も続いている。


 しかし想いの名前は分からない。きっと『我』も知らなかったのだろう。


 ――ああ、一人だと夜が静かすぎる。胸の奥もスカスカする。なんだこれは――


 湧き上がる想いに顔をあげて、空で寄り添いあう二つの月を見上げる。

 だが連星のように重なる月は、異なる色彩の光を振りまきながら沈黙を守り続けていた。


※※※ 


 山に巣食う野盗を排除した事を伝えると、村はちょっとした騒ぎになった。


 どうやら村人はパンドラが、無事に生還するとは思ってすらいなかったようだ。

 五体満足どころか、傷一つないパンドラをみて逃げ帰ったのだといぶかしむものもいた。


 それも僅かな間だけ。

 最初は疑ってかかった村人も、砦から持ち帰った金品や、トロルの巣穴に放置されていた遺品の類を渡すと完全に目の色を変え、私たちを祀り上げた。


 あっという間に蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。

 訪れたときのような陰鬱な気配は宝石と銀貨によって吹き払われ、村人総出で飲めや歌えやの宴になった。


 オレンジ色の篝火が村の中央で焚かれ、捌いたニワトリの肉が焼ける香ばしい香りが鼻孔をくすぐった。


 ――現金なものだな。先日までは葬式のように暗かったというのに――


 火を囲んでささやかな宴を催す村人たちを見ながら、薄められたブドウ酒を舌で舐め取る。


「そんなこと言っちゃダメですよ。ほら、東洋のことわざにあるでしょう。『溺れるもの罠にもすがる』って」

 ――藁にもすがる、だろ?――

「えへへ、間違えちゃいました」


 訂正をいれるとパンドラが小さく舌を出した。

 寒村で供されたブドウ酒はほとんど水のようなものだったが、パンドラの顔はほんのりと赤い。雰囲気に酔ったのだろう。


 パンドラは供された藁束わらたばの椅子に座って、ぼんやりと燃える炎を見つめている。


 大騒ぎに興じているものの、ヨソモノであるパンドラに声をかける者は少ない。

 ときおり、『どうやって退治したんだ』『怖くなかったのかい』などと聞いてくるものが現れるだけだ。それにパンドラが『神さまのご加護がありましたから』と旅人めいた定型文で返すと、彼らは疑問にも感心して思わず去っていく。


 村人たちの興味は、むしろ取り返された財宝の一部にあるようだった。

 村に帰る途中で、財宝の大半を埋めてきたのは正解だったかもしれない。まだ山賊の被害にあった村にも再建資金を配らなくてはいけないのだ。


 ――さて、ここの件は解決したが次はどこに行く? どこにでも行けるぞ――

「そうですね。どこがいいでしょう? ウィルは行きたいところはありますか?」


 路銀の心配が要らなくなったことを伝え、旅の行き先を尋ねると彼女は逆に尋ねてきた。


 ――特にない。都や街を巡るのもいいし、滅んだ古都や秘境を探索するのも悪くない――


 なにしろ気ままな旅だ。望むならどこへでもいける。


 もっとも栄えた西の都、最陸の果てにあるという島国。蒼い海が広がり極彩色の果物が並ぶ南洋の街。かつて栄華を極めた砂の古都。巨大な一枚岩をくり抜いて作られた鳥人の集落。


 物語で読んだのは、どこも魅力あふれる土地だ。


 ――蜥蜴人リザードマンの沼地は遠いが行けなくはない。海を渡って常闇よこやみの国を目指すのだって反対はしない。だが巡礼にまざるなら、教会には少し気をつけないといけないかもな――


 聖都での一幕を思い出し、マントの下で尻尾を動かすパンドラを見上げる。

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