第一章 深き水の蛇-2
貪欲で、攻撃的で、凶暴。
伝承で数多く語られる毒蛇の女帝・ヒュドラとはそういう魔獣なのだ。
英雄殺しとして名高い怪物が、大きく鎌首をもたげてムチのように水面に叩きつけられた。
その衝撃で何人もの武装神官たちが弾き飛ばされる。
武装神官たちが叫び、放たれた雷撃がヒュドラの鱗に突き刺さる。
しかし人間なら容易く黒焦げにする戦女神の奇跡も、堅牢な蛇鱗には効果が薄い。
それでも攻撃を煩わしく感じたのか、多頭蛇は鎌首をもたげ、手近にいた武装神官を頭部で横殴りにした。
重鎧で身を固めた神官が軽々と宙を舞い、そこに別の首が突撃する。
破城槌を彷彿とさせる一撃に鎧の胸当てが鈍い音を立ててひしゃげ、痛打を受けた神官は動かなくなってしまう。
――まずいな、負けるぞ――
すでに何人かが戦闘不能に陥っている。
壁の傍には叩きつけられた武装神官が何人も転がっている。
仲間の折れた四肢に必死に治癒の奇跡を施している者。恐怖の表情を滲ませながらもメイスを振るう者。はじめて目にする凶悪な魔獣に腰が引けた武装神官もいる。
決死の表情でメイスを振るおうとしていた武装神官に、ヒュドラの頭部が側面から直撃した。
松明を握っていたため、盾を手放すしかなかった武装神官の一人が、巨木のような頭部に跳ね飛ばされ、したたかに壁に打ち付けられた。
その首に他の武装神官たちが一斉にメイスを叩きつけるが、レンガ作りの建物も容易く砕くほどの強靭なヒドラの首には効果が薄く。逆に暴れる首に跳ね飛ばされてしまう。
すでに武装神官たちは半壊状態だ。
数十名はいたようだが、まだ立っているのは数えるほどになっている。
透魚の視界越しに、何人もの神官たちが同じように水路で仰臥し、荒い息を吐き出している。
士気こそ崩壊していないが、英雄殺しとして名高い魔獣を相手にするには戦力も装備も足りていない。
ここに一騎当千たる英雄もおらず、退治に必要とされる一個連隊もいない。
戦線が崩壊し、全滅するのは時間の問題だ。
予期せぬ遭遇戦だったのだろう。
装備や練度をみるに、これほどの魔獣は想定していなかったはずだ。
隊列防御に優れた武装神官ゆえ死者は出ていないが、それも長くは続かないだろう。
魔獣の側面に回り込んだ五人の武装神官がメイスを掲げ、同時に胴体に一撃を叩きつける。しかし、とうてい致命傷には至らず振り乱された尾によって陣形を崩された。
そこにヒュドラが毒素を吐き出す。
ドボッと溢れた紫の煙が水を汚染し、ジワジワと神官たちに襲いかかる。成体のヒュドラなら一瞬で水路は毒素で汚染されていたことだろう。
神官たちは、迫りくる毒素に対して奇跡を嘆願する。
神からもたらされる祝福の奇跡が、毒素の猛烈な侵略を押しとどめ、毒となっていく空気を清めていく。
その無防備な瞬間を狙って、四つの首がそれぞれに武装神官を薙ぎ倒すのが見えた。
周囲の神官が倒れ、ただ一人だけ若い女の武装神官だけが残された。
白銀の鎧に刻まれた黄金の紋章からして高位神官だろう。
実戦経験が少ないのか、多頭蛇を前に震えて竦んでいる。
完全に硬直してしまった女神官の顔を、先の割れた舌が舐め、その口蓋が上下に広がる。
――パンドラ。武装神官たちがヒュドラに襲われているが、助けるか?――
透魚との視界同調を切り離し、まだ事態を飲み込めていないパンドラに問いかける。
彼らの命は風前の灯火だが、私にはわざわざ助ける義理などない。
迂闊な助力は、いつか自分たちの首を絞める結果になるだろう。
「助けます! ウィル。急ぎましょう」
パンドラは一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに瞳に力をこめて想いを口にした。
その言葉に奇妙なほど胸が高鳴り、血が燃えるように熱くなる。
なぜか自分は、彼女の言葉に高揚しているようだ。
――なら、掴まれ。時間がない。急ぐぞ――
「え、ウィル。なにを? こやっ⁉」
言葉の意図を掴みきれていない彼女の襟首をくわえて、中空に放り投げる。
空中でジタバタと手足を動かすパンドラに向かって跳躍し、その躰を背中で受け止める。
――一気に行くぞ。振り落とされるなよ――
背中の少女に言い放ち、闇に包まれた水路を猛然と駆ける。
透魚を先行させて視界を確保しながら、下水道の隘路を飛ぶように奔る。
――もっとしがみつけ。遠慮するな――
「は、はいっ」
言葉に従い、パンドラがギュッと毛皮に捕まる。
事態は逼迫している。同調を手放して、預けていた透魚の視界を得たことでパンドラも事態を理解したのだろう。緊張した気配が背中に伝わってくる。
まだ幼体とはいえど、ヒュドラが相手では武装神官の全滅は免れない。
物語でも史実でも、蛇の女帝として名高い魔獣の脅威は語り継がれている。
旅の初戦にしてはあまりに強大な相手だ。不足はない。
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