第一章 深き水の蛇-3

「ウィル。あの魔獣って……」

 ――喋るな。舌を噛むぞ――


 少しだけ悲しげな言葉に警句を放って、水路をさらなる速度で疾駆しっくする。

 水面を凍結させる時間すら惜しいと、半円状に歪曲わんきょくする下水道の側面すらも足場にして黒い風になる。


 パンドラが傷つかないように周囲に防護の結界を張り更に加速。条理じょうり超越ちょうえつするほどのスピードは音の速度を越え、超音速が作り出す衝撃に水路に満ちた液体が砲弾を受けたかのように波打ち爆ぜた。


 ビリビリと水路の壁が震える音が遥か後ろで聞こえる。

 途端、視界が開けた。貯水のために広く取られた空間に、蠢くヒュドラの巨躯。


 ――いた。助けるぞ――


 いま、まさに一人の武装神官を丸呑みにせんとするヒュドラ。口の一つからはバタバタともがく両足が見える。


 ――パンドラ、光を!――

「はい」


 合図とともに中空でパンドラが離脱して、左右の指がそれぞれに幻刻魔法を刻む。


 刹那、爆光が生まれた。

 松明など比較にならない。原始の闇は満たした空間に瀑布のごとき光が背後で炸裂する。


「ぎゃっ」


 突然の激光は周囲を白く染め、目を焼かれた神官たちの悲鳴が水路に反響した。

 太陽が爆発したような眩さが空間を飲み込んだが、背後の光は自分の網膜は灼かない。


 ――一瞬で終わらせる――


 高い空中に放り出されたパンドラを着地の衝撃から守るものはないが、その前に決着をつける。


 ヒュドラも武装神官も、突然の爆光に硬直している。左右に放たれた魔法の輝きは、複数の瞳を残さず灼き、わずかな隙を生み出した。


 肉を溶かし、骨すら蝕むヒュドラの毒は恐れずともいい。

 すでにパンドラが描いた光の紋章が見えざる防殻となって身を包んでくれている。

 動きが止まった魔獣の側面を位置取り、半透明の躰を空に躍らせる。


 ――お前に恨みはないが、その生命。狩らせてもらう――


  爪に纏うは燃え盛る豪炎の刃、踏みしめるは凍てつきし氷河、体躯から迸るは紫電の輝き。


 ――初めまして蛇の女帝。そして、さようなら――

 五つの首が残らず宙を舞った。 


 瞬きするときすら赦さず、凶獣の首を斬獲ざんかくする。

 武装神官の目には、ただの閃光にしか映らなかったことだろう。

 ――凍りつけ――


 そのまま骸一つで三つの山を枯らすとされる毒素を含んだ血液が溢れぬよう、傷口を凍結させる。


 ヒュドラには痛みを理解する暇も、自分の死を自覚する間もなかっただろう。


「わわわっ、スカートが!」


 振り返ると、パンドラが空中でジタバタしていた。


 ――なにをやっているんだか――


 風でまくれ上がるスカートを、必死でおさえるパンドラに微笑ましさを感じながら跳躍。


 ――パンドラ。大丈夫か?――


 彼女の臀部でんぶを背中で支えてそのまま着水する。衝撃を和らげるために水を凍らせなかったので、全身びしょ濡れである。


「えへへ、大丈夫です。助けてくれるって分かってましたから」

 ――そ、そうか――


 妙な気恥ずかしさを覚えながら、ようやく倒れて水柱をあげてたおれたヒュドラに視線を送る。蛇の女帝からは生命の匂いは失われ、その亡骸を武装神官たちが呆然ぼうぜんと眺めている。


 ――よくやったぞ、パンドラ――

「上手くできたでしょうか?」


 ――初めてにしては上出来だ――


  パンドラは空中に放り出されても怯えることなく、一瞬で伝えた役目を見事にこなしてくれた。肝心な場面で臆さず、頭の回転が速いということは冒険者としては極めて重要な素養だ。一瞬の隙を突かなければ、一撃でヒュドラを屠ることは難しかったかもしれない。


(さすがは――の娘だ)


「どうしたの、ウィル。なんか変な顔をしてますよ」


 ふと湧いた記憶のカケラが違和感となって足裏に刺さると、パンドラが不思議そうに聞いてきた。


 ――いや。なんでもない――


 つぶやきながら自問する。いま、自分は何を思い出そうとしたのだろうか? いま脳裏に過ぎった女は誰だったのだろうか。

 しかし頭を振って水を弾き飛ばしても、答えは水しぶきともに掻き消えてしまっていた。


 ――噂の魔獣はこいつだろう。ならばこれで解決だ――

「え、これで解決なんですか? でも子供たちが」


――それなら腹の中にいる。生きているはずだ――

「……え、ヒュドラのお腹の中? まだ生きてるんですか?」


 ――ああ、心配はいらない。ヒュドラは簡単に消化しないからな――

 ザバッと水から上がり、パンドラの質問に答える。

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