第一章 聖都の闇-4

 ※※※※


 分厚い雲が月を覆い隠した、ひどく暗い夜。

 背にパンドラの重みを感じながら、黒のとばりで覆われた街を駆ける。


 すでに魔獣の噂が街に蔓延まんえんしているのか、夜陰の下に人の気配は驚くほど少ない。夕刻まで賑わっていた大通りには酔漢の姿すらなく、ときおりカンテラをもって巡回する憲兵の姿を見かけるだけだ。


 私はすでに子犬の姿は捨て去り、大柄な狼の姿へと変性している。


 憲兵の目を避けるように石畳を蹴って、民家の屋根に四足を乗せる。

 はるか頭上を飛び回る黒い獣の姿を捉えるものはなく、無音の着地に気づく者もいない。もとより誰一人として私たちの影に気付くものすらいない。


 ――こちらだな――


 ひときわ高い鐘楼しょうろうふちに踏みしめ、クンと鼻を鳴らす。匂いの糸はすでに掴んでいる。


 人でも獣でもない、腐臭に塗れたひどい匂いだ。そして鼻をもぎ取りたくなる臭気には、わずかに子供の体臭が混ざっている。


「見つかりそうですか?」 


――楽勝だ。魔物の匂いは人と違うからな――


 この街に嗅覚に優れた魔族でもいれば、とっくに解決していたと予測して屋根を蹴る。

 鐘楼しょうろうの掲げられた塔の壁面を垂直に駆けて、その壁面から鋭角に跳躍ちょうやく。風の魔法を身にまとって降りた先には大きな川が見えた。


 川の側面には洞窟めいた穴があり、それが下水道の入り口になっているようだ。

 街中で生まれた排水は下水を通り、川に流れ込むような仕組みになっているのだろう。


 ――ここだな。匂いが強い――


 水路の一つに近づくと、喉まで焼きそうな匂いが鼻孔をえぐってきた。


 ――ひどいニオイだ――


「すごく臭いです。目が痛くなりますよ」


 多くの人間の生活を支える地下水路には、濃密なすみを塗りつけたように深い闇が広がっている。どろりと粘つくような黒色が水路に詰まっていて、自分の鼻先すらも見えない。


 ――パンドラ。光を――


「分かりました。照らしますね」


 パンドラが指先を動かすと、光を生み出す文字が生み出される。

 失伝した幻刻げんこく魔法。その文字が放つ光によって闇が駆逐され、灰色の水路の内部があらわになる。


 排水とは違う匂いは、この先へと続いていた。


 ――いくぞ――


 跳躍ちょうやくして、パンドラの頭ほどの位置にある大きな排水管に四肢ししをのせる。


 井戸の底を思わせる水路の先はどこまでも深く、光が届かない場所は塗りつぶされたように見通すことは叶わない。水路の先を支配するのは――原初の闇だ。


「……暗いですね、ウィル」


 昼間であろうと光が及ばないであろう迷宮の入り口で、ぽそりとパンドラが呟く。


 ――怖いか?――

「こ、怖くなんて……ないわけじゃない、ですけど」


 消え入りそうな声で、己の本心を告白するパンドラ。素直なのは良いことだ。

 蛮勇ばんゆうより臆病な方がいい。ただ勇ましいだけの者たちは、物語の中で最後まで生き残れはしなかった。

 だが、その恐怖は杞憂きゆうだろう。


 ――心配するな。なにがあっても私が守る――


「っ! あ、ありがとう、ウィル。やっぱりウィルは優しいです」


 当然のことを言葉にすると、パンドラが嬉しそうに頬を染めるのが見えた。


(守るに決まっている。当たり前の事だろう)


 音のない吐息を残して水路へと足を踏み入れる。


 下水道と呼ばれていた水路には水の流れる深いエリア。そして左右に足場となるエリア。その境界を無視して水面に着水――着地する。


 ビシッ!肉球が水面に触れた途端、流れていた水がきしんだ音を立てて凍りついた。

 凍結魔法。深さのある水底までは完全に凍らないが、人間が乗っても割れないほどには頑丈な足場が形成される。


 ――これは私の力なのだろうか?――


 こんな力を以前は持ち合わせていなかった気がする。

 記憶はなく、氷結の魔法を何度となく行使しても、過去のビジョンと重なることはない。


 ――パンドラ、私は前も氷結魔法が使えたのか?――

「氷の魔法ですか? いいえ、私は見たことはないですよ」


 パンドラからの否定の言葉に、私はそっと水路に視線を迷わせる。

 この力を私は、どうやって授かったのだろう。そんなことを考えても答えは出ない。


「でもウィルの氷魔法、とってもキラキラしてるから私は好きですよ」


 だが、そんな悩みを吹き飛ばすような無邪気な声が尻尾に届く。

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