第一章 狼と少女-3
楽しげに聖女を讃える詩を諳んじながら、コロンと首元に寝転ぶパンドラ。
頭上を見上げると、木々の梢から木漏れ日がゆるやかに差し込んでくる。
「いい天気だな」
「そうですね。出発したときは少し寒かったですけど、今日はポカポカです」
大の字になって心地よさそうな声を上げる少女。そのパンドラを守るように、数匹の透明な魚が空を躍る。
透魚たちは森の中を警戒しているようだ。
(そこまで心配せずとも、私を恐れて獣すら襲ってはこないのだがな)
仕事熱心な使い魔たちを
背中の少女は、代わり映えのしない森の景色すらも楽しんでいるようだった。
「ウィル、ウィル。あそこの木にリスがいますよ、二匹も」
――ああ、そうだな――
「かわいいですね。親子でしょうかー」
――あるいは恋人同士なのかもな――
背中をパタパタと叩く感触で、パンドラが尻尾を振っているのが分かる。
好奇心旺盛な少女は、いつもこんな調子だ。結界の外の世界が珍しくて仕方ないらしい。
――あんまり頭を上げると木にぶつかるぞ――
そんな小動物のような旅の相棒に苦笑しながら、森の匂いに身を浸す。
音もなく木々を揺らしていると、ふと森が途絶える。その先に見えたのは人の建造物だった。
「あ、街が見えてきました。ほらウィル、見えますか?」
――ああ、大きいな――。
丘の上に
白い壁の下部には川が流れているのか、水のせせらぎが
城壁の上からは突き出した白い尖塔が連なり、まるで王城めいた雰囲気を醸し出している。
耳を澄ますととても遠くから木槌の音や、水車の音もしてくる。城郭の中ではとても多くの人間が生活しているようだ。少しばかり人の匂いが強くてむせそうになる。
「すごいです。ウィル、すごく大っきいですよ」
かつての『我』が残したらしい大陸の地図を広げて、パンドラが背中で快哉を叫ぶ。
これまで小さな村や、中規模の町しかみたことがなかったパンドラは、大小の建物がぎゅっと収められた城郭都市に興奮を隠しきれないようだ。
私もこれほど大きな都市は初めてだ。これまでは百人未満の村しか見たことがなかったので、旅のビギナーであるパンドラともども、初体験ということになる。
パンドラと視界を共有して、彼女の目を通して古びた地図をみる。地図には『霧の都 アルベイン』と書いてある。
――ふむ。霧の都か――
「聖女教の聖地の一つらしいですよ」
地図を指差し、パンドラが尻尾を揺らすのが知覚できた。
どういうわけか、意識すればパンドラと五感を共有することができる。
これも消失した記憶と同様に理由は分からない。花が咲き乱れる草原で目を覚まし、パンドラと出会ったときには出来るようになっていた。私が『私』として意識を持ったときには、すでに備わっていた力だ。
知らぬ間に何らかの魔術的な契約が結ばれていたのかも知れないが、パンドラも全くもって身に覚えがないという。ただ、それが私は――
「え? ウィル『別に嫌というわけじゃないが』ってなんですか?」
「ッ!」
ふと漏れた思考にパンドラが首を傾げる。慌てて思考をブロック。
――気にするな、大したことじゃない――
「そんな事を言われても気になりますよ。ウィル、教えてください」
五感を共有すると、強い感情は伝わるようになる。
とっさに感覚共有を遮断したが、パンドラは背中をペシペシ叩いてくる。
――個人的な話だ。気に留めなくていい。それより準備をするから降るんだ――
「あー、誤魔化しましたね。ずるいですよウィル」
なんとなく素直に言葉にするのが気恥ずかしくなり、話題をすりかえるとパンドラが不服そうな声を上げる。
――また大騒ぎになってもいいなら、このまま街に突入するぞ――
「うぅ。分かりましたよ。降りますよ。もう……」
食い下がるパンドラを説得して、膝を曲げて地面との距離を縮める。彼女は少し不服そうに唇を尖らせたまま、私の指示に従いスルスルと背中から地面へと着地する。
もうすぐ街だ。
巨大な獣の姿では、あまりに目立ちすぎる。
最初の町では、巨獣のまま訪れてパニックを招いてしまった。
罪なき町人を混乱に陥れてしまったことには罪悪感を禁じえない。
だからこそ、黒い巨狼の姿では不都合なのだ。
「ウィル、降りましたよ」
前足をテシテシと軽く叩くパンドラの合図を受けて、頭のなかでイメージを紡ぐ。
全身の毛が淡い白銀に輝き、視点がみるみる低くなっていく。体のボリュームが縮み、成狼じみた四肢が短くなり、体のシルエットまでが丸みを帯びてくる。
数秒後、そこにいた無害そうな一匹の黒い獣だ。
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