第一章 狼と少女-4
自分のすっかり変わり果てた姿をパンドラの目を通して見つめて、これでいいと頷く。
どこからどう見ても、黒い子犬にしか見えない。
――まったく。情けない姿だ――
「ぜんぜん情けなくないですよ。ちっちゃくて、凄くかわいいですよ」
魔獣どころか、羊一匹も狩れそうにない自分の姿を見て嘆くと、微妙にずれた励ましを貰った。弱々しいシルエットが嫌なのだが、パンドラは分かってくれなさそうだ。
モヤモヤとした気持ちを胸に抱えていると「よいしょっと」と言って、パンドラは私を胸元に抱きかかえた。
いったい、何のつもりだろう。離してほしい。
――なぜ抱く――
「なぜって? 今度は私の番ですよ。ウィル、さっきは運んでくれたじゃないですか」
胸に抱いて笑いかけるパンドラ。
屈託のない笑顔と、伝わる心音に胸の奥がソワソワする。
「さあ、ウィル。ちょっとだけ我慢しててくださいね」
そういってパンドラは
――愛玩動物じゃないんだが――
「ちょっとだけ我慢しててくださいね」
小動物めいた扱いに苦言を伝えるも、気にした様子もなくパンドラは歩きだす。少しは気にしてほしい。
背に乗せて走れば一瞬の距離を、パンドラはトネリーコの杖で地面を突きながらのんびりと進むパンドラ。
その足取りは軽やかで、口ずさむ歌は風に流れていく。
「麗しき聖王の都~♪ 遠く征く自由の都。霧深きアルベイン~♪
パンドラの歌声が風に流れていく。
――ご機嫌だな――
「だって、詩で聞いていた街に初めてきたんですよ」
声を弾ませたパンドラが、私の入った背嚢を背負い直す。
――気持ちはわからなくないが……くれぐれも怪しまれるようなことはするなよ――
揺れる背嚢から顔を出して見回すと街を囲む堀と、内外を隔てる吊橋が近づいてきた。
川と繋がる堀を覗き込むパンドラは、透明度の高い水を眺めながらなにかを探しているようだ。
「お魚はいるでしょうか?」
――食べるのか?――
「食べませんよ。お腹は空いてませんから」
空腹でも食べるなよ、と呆れていると、パンドラの傍を一台の馬車がガラガラと音を立てて通り過ぎていく。
馬を操る御者が、こちらをチラリと一瞥するのが見えた。
手綱を握る灰色の髪の若い商人と、荷台に乗った
――先に通行税を用意しておけ、アルベインでは必要だ――
「通行税ですか。街に入るにはお金がいるって本当なんですね」
泡のように浮かび上がった知識を口にすると、パンドラが感心したように声を上げた。
――大きな街では珍しくない。長期滞在する場合は、さらに別途申請が必要となるぞ――
大きな街では毎回通行税を支払うことを告げると、パンドラが一枚の銀貨を取り出した。
「その銀貨ではダメだ。価値が高すぎる、銅貨にしろ」
輝く銀貨をみて忠告を口にする。
「え、これじゃあダメなんですか。えっと、銅貨だと二五枚なんですね」
銀の含有率の高い銀貨をしまい、より価値の低い貨幣への変更を指示する。
――私のことは黙っていろ。余計なことを口にすると疑われたりするからな――
パンドラに声をかけて背嚢の中に潜り込む。
わざわざ隠れたのは関税で『二人分』の余計な通行料を取られないためだ。価値の低い硬貨に変えたのは、足元を見られないためでもある。税関官にはガメつい人間が多いのだ。
「ウィルは記憶ないのに物知りなんですね」
――たまたま、だ。今回は運が良かった――
「また一つ思い出したんですね。よかったです」
ローブの下でワサリと尻尾を動かすパンドラの声を、背嚢の中に満ちた暗闇の中で聞く。
二人で旅を始めてから、不意にこうして記憶が蘇ることがある。
それは鳥の名前だったり、本の名前だったり、いつか見た景色だったり安定しない。
村を訪れるときの作法のような重要なもの場合もあれば、武装した集団と戦うときのコツだったりと多岐に渡る。
それは泡に似ていて、条件が揃うと浮かび上がってくる。
もしかすると、この街にも『我』は訪れた事があるのかもしれない。
だが背嚢の隙間から門の先に続く街並みを眺めても、都合よく記憶は戻らない。
深い黒が満たす背嚢の中で丸くなると、パンドラが街の税関で言葉を交わしているのが聞こえてきた。
「ようこそアルベインへ。この街には何の用だい、お嬢ちゃん」
「巡礼です」
「そうかい。聖女さまのお導きってやつだな」
値踏みするような男の言葉に、パンドラは戸惑うこともなく答えた。
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