第二章 焚き火が照らす二尾
※※※ ※※※
暗く前に食事を済ませて、十分な飲み水を確保すると結界を張った。
パンドラの幻刻文字による結界は
足元には動物の内臓をなめしたマットがあり、毛皮を草木を濡らす雫から防いでくれている。
少し離れたところには薪が組み上げられ、魔法炎で着火された焚き火が
――すまない、パンドラ――
「どうしたんですか、ウィル」
――私は今日も食事を手伝えなかった――
魔法で生み出した氷を溶かし、食器を洗い終えたパンドラに小さく謝罪する。
巨狼に変じた私に寄りかかっていたパンドラが、動かしていた尻尾を止めて振り返った。
「そんな事でしたか。私は別に気にしてませんよ、それにお水はウィルがいつも作ってくれるじゃないですか」
――しかし、水は
「火だって
狼の姿ゆえに調理が出来ないことを口にすると、少女は火に照らされた笑顔を見せてくれる。
――だが毎度のことだ。野営の方が多いのだから負担を押し付けているようで気が引ける――
「うーん、そうですか? 私、お料理は好きですよ」
――それでも包丁一つ扱えないのは、なんだか不公平だ――
狼の足では料理は出来ない。ドライフルーツや
――それに『我』は料理がとても上手だったのだろう?――
思い出せない記憶を口にして、自分の黒い前足を見る。
関節の固定された足は、とても料理には向いているようには見えない。
以前シチューを作ろうとして、野菜を土へとダイブさせてしまったのは小さなトラウマだ。
「ふふーん、見ててください。すぐにウィルより上手になってみせますよ」
――そういう事じゃないんだがな――
得意げな顔をするパンドラに、少しだけ気持ちが楽になり視線を上げる。
空を仰げばいつもと変わらぬ双子月と、ちぎれ雲をまとった星空。結界に遮られて風は届かないが、鈴を転がすような虫の鳴き声は聞こえてくる。
「ねえ、ウィル。これって何の虫でしょう」
――さあな、ナイトノッカーか。ベルクラップか。詳しいことは私も分からないさ――
体にかかる重みを感じながら耳を澄ませても、記憶の泡は浮かび上がってこない。きっと『我』も夜に鳴く虫の名までは知らなかったのだろう。
「虫が鳴くのは恋しているからだと本に書いてましたけど、本当なんでしょうか」
――本当なら、ここは虫たちの告白会場だな。あまり動き回ったら迷惑になりそうだ――
「そうですね。せっかくのロマンチックな夜を邪魔したら悪いですよね」
どこか楽しげに呟き、湯気を立てるカップを傾ける少女。その手には大きな本が収まり、星空の下に文字をさらけ出している。
頁の髪が擦り切れているのは、繰り返し読まれた証拠だ。
――その本、もう何度も読み返しているがパンドラは飽きないのか?――
「飽きないですよー。勇者さま達の冒険はとっても面白いですから。聖都を見た後だと、特に情景も想像できますし、何度でも楽しめます」
その言葉で聖女セレスティア―ヌの像を思い出す。確かにボンヤリとしたイメージだった聖女が想像しやすくなった気がする。
――誇張された
「それでもいいんですよー。物語に大切なのは想像力なんですから」
楽しげ言うと体を寝かせて、大きく本を広げるパンドラ。
私にも本を読ませたいのだろう。
文字を追えば、聖王レオンハルトが仲間とともに活躍する場面だった。
聖王の四騎士と呼ばれる勇士は、敵陣に潜入し、知恵と勇気を振り絞って囚われていた捕虜を救い出していた。
魔王軍の一角を統べる将軍から、捕虜を逃がすために軍団に挑み討死にした三人。その勇猛さと活躍にパンドラは胸を熱くしている。
――聖王の四騎士か。名前が残っていないのが残念だな――
「どこかに保管されていたりしないでしょうか? たとえば、聖国の図書館とか?」
――門外不出の書物なら
生き残った司祭は生涯を聖王に捧げたというが、その詳細は現代まで伝わっていない。きっと彼等の物語を記した書なら、喜んで読み
そのことが容易に想像できて、思わず苦笑する。
――パンドラはどっちに行ってみたい?――
「うーん、近いのは禁書図書館でしょうか。でも特別な許可がないと入れないんですよね」
――そう……だったか?――
記憶の泡が浮かびかけて、ふっと消えた。
残念ながら、今日は記憶の欠片を取り戻すことは出来なかったようだ。
そのまま顔を伏せて、パンドラの読ませてくれる文字を目でゆっくりと追いかける。
お互いに口数は減り、虫の歌声を音楽にして本の世界に入り込む。
(やっぱり憧れているんだな)
聖都での一幕を思い出し、大人しくなったパンドラの尾を狼尾を重ねる。
読書を邪魔するものは現れず、ただ静かな時間だけが草原の一角に流れていく。
ふと流れた一筋の星に、呼びかけるも返事はなく、開かれた頁もそのままになっていた。
――おやすみ、パンドラ――
すぅすぅと寝息を立てるを起こさないように本を閉じ、少しくたびれた毛布をかけてやる。
「んん、ウィル。どこ、ですか」
毛皮の感触が消えたことに気付いたのか、パンドラが寝言で私のことを呼ぶ。
――ここにいる。安心しろ。お前を置いてどこにもいったりしないさ――
私は寂しげな寝息を慰めるように、鼻先で彼女の頬をつつく。
「うぃる、のーら……」
小さな魔女は私の本名を口にして、前足をそっと握る。
「…………」
か弱い魔女の手を振り払う選択などできず、私はパンドラと寄り添って目を閉じる。
そのまま虫たちの途切れない恋歌に身を任せていると、やがて眠気が私を包みこみ、少女と同じところに連れ去っていくのだった。
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