第三章 聖王の霊廟-3

 トラブルに自ら飛び込んでばかりだったが、喜びに満ち溢れたパンドラの匂いを嗅げたことが何よりの収穫に感じる。これならば危険な旅になったとしても価値があったと――


 そんな考えが脳裏をよぎった瞬間、不意に風が哭いた。


 ――聞こえる――


まるで遠くで雨のしずくが地を叩くような音に、耳がぴくんと跳ねる。


「いまのは……」

「祈りでしょうか?」


 それは聴覚に優れたダークエルフにも、狐耳のパンドラにも届いたらしく二人の表情が一変する。


 息を殺して、心臓の鼓動を鎮めるように耳を澄ます。

 こんな地下霊廟に、自分たち以外の来訪者などがいるはずもない。


「もしかして墓荒らしでしょうか? それとも他に先客の冒険者が……」


 声をひそめたパンドラに、私もルーデリアも応えはしなかった。その沈黙こそが答えだ。


 スケルトンが闊歩かっぽするような場所に、先客などいるはずもない。仮にいるとすれば、それは誰かではなく『ナニカ』だろう。


 誰も居ないはずの静謐せいひつな霊廟の深く深くから聞こえる祈祷の囁き。

 さきほどまでの静謐さと清浄さに満ちた空間が、一気に温度を下げたような気がした。

 ――どうやら核心は近いようだ。行こう――。


「ウィル。行くって、どこへ……」

 ――決まっている。このスケルトン騒ぎの元凶のところだ――


 不安そうに伸ばされれた手を鼻でつつき、警戒のレベルを限界まで引き上げる。


「パンドラは後ろに……なにかあれば援護してくれ」


 鞘から霊銀ミスリルの刃を引き抜き、呼吸を浅く長くするルーデリア。


 やがて、前衛を担ったままたどり着いたのは大きな扉だった。開け放たれた扉の先から漏れ出すのは甘い『死』の香りだ。


 ――ここにいるな――


 グッと四肢に力をこめて、扉の奥へと飛び込む。


 そこは礼拝堂のような広間だった。左右にはミイラを安置した台座がズラリと並んでいる。


 とても地下とは思えないほどの明るい空間で、何より目を引くのは正面の壁一面に描かれた巨大な一枚のフレスコ画だ。


 霊廟の最奥と思しきエリアの一面を支配する荘厳な一枚絵。その壁面の先に広がる緻密な世界に目を奪われ、魂の時間が止まる。


 夜の帳に包まれた城だった。星辰の輝きと、多くの篝火が灯された内郭。


 中心となるのは黄金の鎧をまとい、王冠を戴いた若き王。その眼前で多くの兵たちが鎧を身につけて王を見上げている。王の周りには十人ほどの人の姿がある。


 聖王だ。

 ならば、これは有名な『決戦前夜』の絵なのだろう。


 かつての魔族に国を滅ぼされた王子が、勇者や仲間とともに長い戦いを繰り広げ、そして最後の決戦の前に各地の王から認められることで戴冠し、多くの勇士たちの前で演説を語る。


 そんな古い伝説の一幕だ。

 祈りは、その絵画のたもとより届いていた。


 作り込まれた祭壇のような場所に、白い長衣の人物がうずくっている。


 白い布をまとった後ろ姿からは性別も種族も分からない。ただ、どれだけの時間を祈りに費やしたのか、背中には重みすら見て感じるほどの埃が積もっている。


 声はかすれ、だが滔々と語られる聖句は尽きることない。


 敬虔な信徒なのだろう。だが、なぜ霊廟で祈りを捧げているのだろうか。


 ――あれは、人間なのか?――


 かすかに耳に届く聖句にひとりごちると、そこで祈りの声がピタリと止んだ。


 祈っていた白いフードの人影が、ゆらりと煙のように立ち上がった。

 吹き上がる『死』の気配に、ゾワリと全身の毛並みが逆立つ。


「ウィル、一人でいったら危ないですよ」

「狼。先行するな……ん、お前。なにか大きくなってないか」


 二人が追いかけてきた声を尾に受けながら、より戦いに適した体に変貌へんぼうする。


 四肢を太く、体毛を固く、爪牙を始めとする肉体を一回りほど大きくして戦いに備える。


 いま振り返ることは出来ない。杖を握る腕は枯れ枝のように細くとも、その威圧感はヒュドラの比ではないのだ。

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