第一章 あたたかい水の抱擁

 ※※※


宵闇に包まれた街路を歩きながら帰路を辿っていると、パンドラは口を開いた。


「ごめんなさい、ウィル」

 やれやれ、と呆れ果てていた私に、パンドラは申し訳なさそうな顔をしながら謝罪を口にする。


 ――まあ、気にするな――


「でも、初めての街だったのに……」

 ――子供の捜索そうさくに同意したのは私も同じだ。気を病む必要など無い――


 数日は街をのんびり散策するという予定は水の泡だが、それを悔やんでなどいない。ただ初めての大きな街なので、ゆっくりとパンドラの知的好奇心を満たしてあげたかったのだ。


 ――ほとぼりが冷めた頃に、また訪れたらいいさ――

「そうかも知れませんけど」


 魔力光を失った街灯の横を通り過ぎり、尻尾の萎れたパンドラを慰める。


 夜の静けさはすっかり街を覆い、石畳の上を並んで歩く私達以外に人影はない。いま危機が去ったことを知るものは私達だけなのだ。


「怒ってますか?」

 ――いや、怒る理由などない――


 もとより街に定住する気もなければ、愛着があるわけでもない。来た時期が悪かったと思えば、簡単に諦めもつく。


 観光はできなかったが、無辜むこの子供たちを救ったと思えば成果としては十分だろう。

 それよりも、だ。


 ――パンドラ、少し臭うと思わないか――

「え、臭いますか?」


 当たり前であろう。様々な汚物が流れつく地下水路に入り、あまつさえ水浸しになったのだ。これで良い香りだと口にしたならば感性が狂っている。


「よく分からないです」


 地下水路の匂いに慣れて、嗅覚が麻痺まひしたのだろう。もとより五感が只人ヒュームに近く、獣ほどの鼻が利かないのでさもありなんと云ったところだ。


 ――正直、臭い――

「ガーーーン!」


 率直な意見を言葉にすると、露骨に傷ついた顔をされた。


「ウィル。ひどい、ひどいです」


 みるみる目元に涙が浮かび、私はギョッとする。


 ――いや、下水で汚れたから仕方ないことなのだ――


 服に染み付いた下水の匂いをなんとかしないといけない、と言いたかっただけなのに。哀しみの匂いは強くなる一方だ。


 ――ゆえに、は……はやく匂いを落としたいと思っているのだが――


 しどろもどろになりながら補足するものの、ポロポロと涙が頬を伝い出す。

 完全にこちらの言い分は、彼女の耳に入っていない。どうしよう、どうしよう。


「ウィルは、ずっと私のこと臭いって思っていたんですね。なんで黙っていたんですか」


 ――そんなことはない。パンドラはとてもいい匂いだ! 私の好きな匂いだ――

「えっ」


 気づけば、反射的にそんなセリフを叫んでいた。


 ――あ、いや……ちがっ――


 思わず我に返る。だが口にした言葉が無効になるわけもなく、パンドラは驚きの表情を浮かべている。


「…………」 


 唐突に訪れた沈黙が耳に痛く、街の静けさを恨んでしまう。

 やがて、おそるおそるとパンドラが口を開く。


「……ほんとですか?」


 うぐっ、と息を飲む。

 ここで否定などできるはずがない。そんなことをすれば、今度はきっと本当に泣いてしまう。それに本心を偽るのは、自分にもパンドラにも不誠実だ。


 ――嘘は、いって……ない――


 血を吐くような思いで、自分の言葉が偽りではないと口にする。


 心臓の奥がひどくソワソワする。なんなのだろう、この感情は。


「ウィルぅ」


 しかし疑問に決着をつける暇もなく、パンドラに抱きつかれた。

 柔らかく暖かな抱擁がもたらす驚きに、尻尾が垂直に立ち上がる。


(道の真ん中なのに……勘弁してくれ)


 ふわりと毛皮越しに感じるパンドラの体温に、困り果てて空を見上げる。

 背の高い建物によって長方形に切り取られた空には、二つの月が寄り添うように浮かんでいた。


 ※※※※


 この街は、水が豊富にあるからこそ栄えた街だと言われている。


 聖女が伝説を残す以前より、豊かな水源を抱えたゆえに抱えた人口も大陸で指折りだと伝わっている。

 おそらく、それが街の各所に大きな浴場がある理由だろう。


「はぁーーー、こんな大きなお風呂は初めてです」


 湯気の中でパンドラは大きな幸福の吐息を吐き出した。

 深夜の湯殿ゆどの。一年を通して新年祭以外には休館しないとうたう街一番の公共施設は、いまや貸し切りの状態だ。


 大目に銀貨を積んで、懐の温かい大商人たちが使う浴場を借りたのも理由だろう。一つ下の階層からは音がするが、大理石作りのハイグレード浴場には人影はない。そもそも獣が入れるのが此処しかなかったのが幸いしたようだ。


 ペット同伴、と言われたのは業腹だがパンドラが『一緒じゃないとイヤです』と譲らなかったのだ。


「はぁ、きもちいいですね」


 パンドラは、久しぶりの入浴に思う存分に堪能しているようだ。


 上機嫌そうに白い尻尾を揺らし、広い湯船に寝そべるように躰を伸ばしている。

 十数人が横になれるほどの湯船に身を浸すのは初めてなので、少しはしゃいでいるようだ。


 香油や石鹸ですっかり臭気は消え、浴室には良い香りが漂っている。狼の嗅覚にはややキツイが、それもすぐに慣れることだろう。


「ウィルもこっちに来てください。気持ちいいですよ」

 ――いや、いい。遠慮しておく――


 パンドラの言葉に首を横に振る。湯浴みは好きだが、獣の体毛が湯に入っては嫌がる人間もいるだろう。浴場の一角にある打たせ湯で十分だ。


「ウィル。他には誰もいませんよ。一緒に入りましょうよ」


 パンドラは湯船からあがり、ペタペタ足音を立てて私のもとにやってくる。


「怒られたら、ちゃんと謝りますから、せっかくなんで大きなお風呂に入りましょう」 


 パンドラはヒョイと私を抱きかかえると、また湯船に戻っていく。抱きかかえられたまま湯に沈むと、心地よい暖かさが身体を包んでくれる。


 だがパンドラの肢体が柔らかく緊張する。


「ほら、気持ちいいですよ」

 ――まあ、たしかに。悪くない――


 否定する材料もないので鷹揚おうように頷くと、どこかで聞いた曲を鼻歌で歌う。


 もう明日――早朝には街を去らないといけないというのに、パンドラは嬉しそうだ。上機嫌である。


 ご機嫌だな、と口にすると一匹の透魚とうぎょが姿を現した。


 ――透魚? なにをしていたのだ――


「神官さんたちを追いかけていたんです」


 するりとパンドラの体に戻っていく透魚をみていると、意外なことを口にする。


 ――わざわざ追跡していたのか?――


「はい。子供たちは、無事だったみたいです。それに神官さんたちも全員無事みたいですよ。助かってよかったです」


 そういうと他の透魚たちも集まってきた。

 どうやら入浴を楽しみながら使い魔を飛ばしていたらしい。子供たちの安否のみならず、わざわざ神官たちの無事まで確認していたらしい。


 ――お人好しにすぎるのぞ――


「行方不明の子供も見つかりましたし、魔物も退治できました。これで万事解決ですね」

 ――やれやれ単純だな――


 後ろ足で頭を掻きながら、嘆息する。

 厄介事を抱え込んでしまった自分たちのことは、パンドラの勘定に入っていないらしい。


 早朝にもヒュドラを退治した魔法使いとして、武装神官たちはパンドラの所在を探し始めるだろう。


 ましてや失伝したはずの幻刻魔法の使い手にして、十聖と同じ紅蓮明星ぐれんみょうじょうのマントをまとった人物だ。どんな意図が働くにしろ、大陸に無数の支部を置く聖女教会に捕捉されれば、気ままで平穏な旅など望むべくもない。


(これは私の責任だな)


 むろん、原因の一端は自分にもあるので、一方的にパンドラに責任を求めることなど出来るはずもない。あの時の自分は、パンドラが『彼らを絶対に見捨てない』という前提で動いていたのだ。


  ――これでは私も人のことを言えないな――


「うん? ウィル、なにかいいましたか?」


 甘さを自嘲すると、ウトウトしていたパンドラが目を開ける。


 ――なんでもないさ。少し寝てていいぞ――


 ぼんやりとした琥珀こはく色の瞳に、目を細めて小さな結界でパンドラを覆うと、ほどなく穏やかな寝息が耳をくすぐり始めるのだった。

 

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