第一章 狼と少女-1


 無音の雷鳴が天地を貫いた。


 雲ひとつない蒼穹そうきゅうを穿つは黒い稲妻。

 神の怒りを想起させる激光に、誰もが空を見上げた。


 鎧に身を固めて馬を駆っていた騎士も、剣を振るい敵兵と切り合っていた傭兵も、弓を番えて一射に自らの生死を賭ける弓兵も、汚泥おでいに塗れて槍に貫かれそうになっていた奴隷剣士も、仲間のために慈悲深き神へと奇跡を嘆願する僧兵も、戦場で指揮を取っていた多くの将軍すらも――


 誰もが彼も、天より放たれた黒い雷矢に魂を奪われた。


 戦場の中心。


 二つの勢力がぶつかる最前線に、黒光が直撃する。


 猛爆は掲げられた二種の御旗みはたを引き裂き、無数の嵐が一点に収束したかのような烈風に、馬も人もなすすべなく吹き飛ばされた。


 激しい土煙の中で、なにかが立ち上がる。


 彼らは見てしまった、えぐられた爆心地に佇む獣を。


 雷光と共に現れた存在を目にした誰もが息を呑み、魂を凍りつかせた。


 それは黒い四足の獣だった。


 狼に似ている。しかし、狼と呼ぶにはあまりに巨大だった。


 その前足は、踏むだけで人が挽肉になるほど大きい。スマートな印象を与える口吻ですら、たやすく人を丸呑みにするだろうと想像させた。するりと伸びた尾はどんな大樹よりも太く長い。


 戦場に顕われたのは、神のごとき獣。


 黒い獣がゆっくりと目を開ける。その瞳孔は血のような真紅。

 瞳に見据えられた者たちは、恐怖にへたり込み震える事しか叶わない。


 形ある厄災。


 人間の本能が、それを直感的に理解したのだ。

 人の身では決して勝てるはずがないと魂が屈服したのだ。


 戦地で沸騰していた野蛮な意志は、獣の登場で一気に氷点下まで凍えきった。


 赤く燃えていた蛮性は剥ぎ取られ、兵どもの心身は瞬時に恐慌状態に満たされる。


「――――」


 獣が口を開き、言葉なき声が彼らの脳髄を貫いた。


 その途端、場にいる全員の脳裏に自分の死を幻視する。


 蹂躙じゅうりんされ、わらのように無為に死に絶える自分の姿を魂に焼き付けられた。紙くずのように稲妻によって焼き払われる我が身を想起した。人型の氷像と化す未来を魂に刻まれた。


 生物的な本能が全身を竦ませ、過半数が自分の武器を取り落とす。


 武器を手放さなかったものも戦意を砕かれ、小さく唇を震わせる。大いなる父神や、猛々しき戦神に祈れる者すらいない。


 彼らの心は折れた。

 獣に立ち向かおうとする者などいるはずもなかった。


 諸国を漫遊して名を馳せた英雄ですら、神の如き獣に魔槍を突き立てようとは思えず、小さく膝を震わせていた。片刃の剣を握った歴戦の大戦士が、彼我の戦力差に絶望し、白目を剥いて卒倒した。


「――――ッ!」


 二度目の言葉に大軍が千々に砕けた。


 失せよ! という意志の込められた無音の声に、戦場に集ったものたちが我先にと逃げ出したのだ。


 兵たちを指揮する将軍とて例外ではなかった。勇猛果敢な騎士も、一騎当千と謳われた英雄ですらも身を竦み上がらせて逃げ出した。

 どうあがいても、人間に勝てるはずがない。

 わかりきった道理に逆らえる者など、戦場の何処にもいなかった。


 瞬く間に戦地は、無人の野へと変貌へんぼうした。


 失神したものたちは決死の覚悟をもった味方によって運ばれ、死地に取り残されたものは皆無だった。


 ――終わったぞ――


 血で汚れることのなかった小さな池を横目に呟く。

 すると、太い首を覆う黒い毛皮から、ぴょこんと飛び出す小動物のような仕草で赤いフードが顔を出した。


 黒い毛皮に隠れていたのは、紅蓮の外套がいとうを羽織った銀髪の少女。


 無人となった古戦場の景色を眺めて、私はゆっくりと頭を下げる。

 少女は獣の首元から顔を出して、眩しそうに目を細めキョロキョロと大地に見渡す。


 広陵とした地に争う者たちの影は既になく、大地にはゆるやかな涼風が吹き渡る。


 どこまでも続く草原には微かな死の匂いはあったが、それでもこれ以上の命が奪われることはない。


「もう、誰も戦ってませんか」

 ――ああ、そうだ。満足したか?――


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