第17話 ヨーラトウ湖の怪物1

「すごいな。これ全部真水なんだろ?」無邪気に目を丸くするヨアニスが可愛い。私も釣られて笑顔になった。


延々と続く深く暗い森を進んだ先に光が見えた。最後の茂みをくぐり抜けると、まだ森の道は続いていたけれど、そこは太陽の降り注ぐ明るいゆったりとした坂道で、崖の真下には深緑に囲まれた巨大な湖があった。


今までも川や池は何度も目にしてきたけれど、こんなに大きな湖は初めて。まるで海のように広い。

夕日を受けて黄金色に輝く湖面。その中央にぽつんと浮ぶ小島には遠目にも鮮やかな名も知らない真っ赤な花が咲き乱れていた。

豊かな美しさに圧倒されて、私たちは言葉なく立ち尽くした。


ふと隣を見た。こんな遠くまで来てしまって、ヨアニスはこの後どうするんだろう。一人で故郷に帰れるんだろうか。それとも他の落ち着く先が見つかるまで放浪するのかな。

彼には世話になった。どうか幸せになってほしいと思う。なのに心のどこかではずっとこうして一緒に旅を続けていられたらいいのにと願ってしまう自分もいた。


トーアンセクトの街で微妙な会話をしてからというもの、ヨアニスは少しだけ私に遠慮するようになった。相変わらず紳士的で優しいままだけれど、確実にそれまでの親密さとは別ものになっていた。

私がそうさせたんだもの。寂しいと思うのはいくらなんでも自分勝手がすぎるだろうか。それでも彼とは恋ではなく友情を育てていきたかった。


ヨアニスの子犬のような瞳に出くわす度に心が痛む。だけど今後何があろうとその境界線だけは越えるつもりはない。

彼の現在の職業だとか種族だとか、どうしても幼く見えてしまうところとか、私の方の事情、これから学業に専念することになる状況だとか、そんな表面的なことではなくて、もっと本質的な部分、つまりお互いの性格の相性に問題があるのだった。


正直に言えば、奇妙なほど彼に惹かれている自分がいる。ヨアニスの内にこもる性質や言葉数が少ないところや伏目がちなその瞳の美しさ、とりわけ自分の話をしたがらないミステリアスな性質、そのすべてが前世の元夫と重なる。

ようするに好みのタイプってことなんだろうけど、同時に将来の悲劇も予想できる。百合子と同じ過ちを犯したくない。なにしろ彼女は裏切りが発覚する直前まであの男を信じきっていて、これっぽちも疑っていなかったんだから。


情けないことに、私は彼らのような寡黙な男たちの本心がまったく見えないし、その上私ときたらとんでもない楽天家なんだから始末に負えない。

私とヨアニスがうまくいく可能性は絶望的に低い。それでも彼のぶっきらぼうな態度に隠された驚くほど汚れのない純真な魂が好きだった。確かに愛情を感じている。だからこそ最悪な形で彼を失いたくなかった。


すぐ隣にいるヨアニスに悟られないようこっそりため息をついた。いずれ確実にやってくるだろう破滅の芽を見つけたら速やかに取り除く。それで正解なんだわ。理性によって心の隅に押しやられた我儘な私がいまだに抵抗を続けているのを感じるけれど、将来の私と、なによりヨアニスの為だった。


私たちの心がほんの少し離れたように、あの街を境に環境も一変していた。

岩と砂ばかりの乾燥した土地はすっかり消え去って、代わりに豊かな草地が姿を現した。

さらに3ヶ月かけてあっちこっち彷徨っているうちに空の色も変わっていった。どこまでも澄んでいた明るい水色は少しづつどんよりした色合いになっていき、時々雨が降るようになった。


木陰に馬車を停めて雨宿りした日、雨が降り頻るグレーの空を呆然と見上げるヨアニスの表情は印象的だったし、ついに目の前に背の高い木々で構成された暗い森が出現した時には感慨深いものがあった。


躊躇しつつも鬱蒼と茂る木々の間を抜ける細い道に入れば、昼間だというのに薄暗く苔むした森の中はなんとも不気味で、二人で身を寄せ合って馬車を進ませた。

森の中では言葉にできない不安が常につきまとっていた。邪悪な妖精の住まう異世界にでも迷い込んでしまったかのよう。森は危険だと本能が警告していた。


最初は物珍しそうにしていたヨアニスも次第に故郷とはまったく違う暗く陰気な雰囲気に表情を曇らせるようになった。「動物が多いんだな」とポツリと言う。魔物が、と言わなかったのは私に遠慮したせいだろう。

むしろ私としては砂漠よりはこちらの環境の方がしっくりくるのだけど、もしかしたら彼は帰りたいと思っているかもしれない。そうなったらもう一生会えなくなる。


冷たい風を受けて滑らかにフェーブした黒髪を揺らしながら、少しだけ悲しげな表情で崖下の輝きを見つめる堀の深い横顔。こっそり目に焼き付けて、心の奥底の不可侵の領域にそっと仕舞い込んだ。


そんなふうにセンチメンタルな気分に浸っていたら、湿った冷たい風が吹きつけてきた。うんざりするような現実に顔を顰める。さっきまで太陽の下で輝いていた湖もいつのまにかどんよりと暗くなっていた。もしやと思って空を見上げれば、案の定曇天模様に変わっていて、早くも額にぽたりと大粒の雫が落ちてきた。


慌てて今夜の野営の準備に取り掛かる。以前立ち寄った街で手に入れた、油で加工した大きな布を近くの木に結びつけて、馬車を囲むように地面に溝を掘る。

そんな作業も慣れたものだ。本格的に降り出してきた雨を避けて、馬たちが濡れてしまわないよう真っ先にタープの中に移動させる。


もう春だというのに夜はかなり冷え込む。雨が降れば尚更だった。焚き火に手を翳しながら二人で寄り添って座った。こんな深い森の中にいるのだから本来はもっと警戒しなければいけないはずなのに、彼とこうして一緒にいるとなぜか不思議なぐらい心が安らぐのだった。まるで何十年もこうして暮らしてきたみたいにしっくりくる。


簡単な食事をとり、たわいもない会話を続ける。しとしとと天井の布を打つ雨の音を聞きながら、踊るように揺れる焚き火の火を眺めて静かな時を過ごした。


夕食を終えて片付けてしまうともう寝る時間。旅は何もしていなくても体力を消耗するし、なによりやることがない。翌日に備えるという名目でさっさと眠りにつく毎日だった。

最近はヨアニスと一緒に馬車の中で眠るようになっていた。別に変な意味じゃない。理由は単純に寒いから。種族的なものなのか、ヨアニス自身はどうも暑さや寒さに強いみたいで平気そうにしているんだけど、やたら私が震えているのを見て体を寄せるようになった。

並んで横たわることが自然に思える。優しいヨアニス。いつか彼にも恩返しができたらいいんだけど。


雨は夜中降っていたけれど、朝日が登る頃にはやんでいた。

明るい日差しが濡れた大地を優しく温める。馬車から這い出て上を見上げると明るい青空が広がっていた。雲ひとつない快晴だった。私たちは朝食もそこそこに意気揚々と湖を目指して崖を降りていった。


前の街で聞いた情報によるとこの辺りは比較的平和で魔物もそんなにいないらしい。

のんびりとヨアニスの隣に座ってガタガタと馬車に揺られながら時折木々の間から覗くキラキラ煌めく湖を楽しんだ。


風光明媚な湖に沿って道は続いている。とても気分が良かった。ゆっくり進む。湖からやってくるひんやりした風が心地いい。

小さく船影が見えた。漁をしているのかな。次の街では魚が食べられるかもしれない。お昼ご飯代わりの硬く焼いた魔物の肉を歯で噛みちぎりながら切ないため息をついた。

「街で釣竿を借りられないかしら」

ヨアニスは苦笑いしながら言った。「今日は晴れてるし泳いでみるか?湖には魚の魔物がいるかもな」

「なんで魔物なのよ」首を振って笑い返す。


岸辺のすぐ近くまで道が寄っている場所で馬車を降りた。

底が見えるほど澄んだ水が寄せては返すを繰り返している。対岸は遥か遠い。

「近くで見るとすごい広いね。海みたいよ」感想を述べると彼はちょっと残念そうに肩をすくめた。

「舟に乗れれば向こう岸まで早く着きそうなんだけどな。ま、俺たちには馬車があるから舟には乗れないけどさ」

ヨアニスと舟遊びをする想像をして頬が緩んだ。見上げると彼も私を見ていた。湖に負けないぐらいきらめく瞳で見下ろしている。


あんまりのんびりしすぎたせいか街に着く前に夕暮れがやってきてしまった。

ちょうど誰かが焚き火をした跡のあるちょっとした広場を見つけて、せっかくだからと湖のほとりでキャンプを張ることになった。キャンプといっても幌馬車があるから焚き火を設置するぐらいなんだけど。


明るい間は文句なく美しかった湖も、暗くなるとガラリと雰囲気を変えた。

暗く揺れる湖面を密やかに月光が照らし、波音がチャプチャプと嫌な音を立てる。覆い茂った背の高い草が意味あり気に揺れてはその度に私をビクビクさせるのだった。


なんとも不気味な夜。魔物より幽霊の類が出そう。どうして湖のそばにキャンプしようなんて思ったんだろう。ただならぬ雰囲気に不安ばかりが募っていく。

もちろんヨアニスがいてくれるんだからこんな夜だって危険はない、はず。どんなに暗い闇夜だって平気で歩ける人だもの。見えない場所で何が起ころうと的確に察知できる鋭いレーダーを持っているのだ。


漠然とした不安を振り払おうと目を上げたまさにその時、彼がさっと立ち上がった。腰の剣にほっそりとした長い指をかけながら素早く湖を振り返る。

……パチャン。私の耳にもかすかに水音が届いた。まさか、本当に魔物?

いくら平和な土地だといっても不用意にこんな水辺で休むべきじゃなかったのかも。今更遅いけど。


不気味な影が湖面からぬるりと現れた。

長い水草が大きく揺れ、水を滴らせたグロテスクな魚の化け物が大きな顔を突き出した。

怪物は私たちのすぐ近くまで迫っていた。人間のような四肢を持っているけれど、全身が濡れた暗い鱗で覆われている。昔白黒映画で観たことがある半魚人にそっくり。その感情のない真っ黒な目が私とヨアニスをまっすぐ捉えた。

私は驚きと恐怖で固まってしまって、声さえ上げられない。


そいつはしゃべった。「お前さんたち、こんな時期にキャンプなんかしたらいかん。化け物に襲われるぞ」何だかペチャペチャと聞き取りづらいけど、確かに人語を話している。

化け物って、この人のこと?私は息を吸うのも忘れて見入ってしまった。


口を開けたままヨアニスの方を見れば、彼は「なんだ」という顔で座り直したところだった。私の顔を見て「ははっ」と笑う。「ユリ、なんて顔してんだよ。会うのは初めてか?マーマンさ」

「ま、まーまん……」

怪物はぐぐもった声で言った。「驚かせてすまんね、お嬢さん」

「い、いえ、その……」

「あー、ええ、ええ。気にせんよ」

魚男は当然のように焚き火に近寄ると地面にあぐらをかいて座り込んでしまった。驚愕したけれど、ヨアニスは動じることなく食料を入れてある皮袋から乾燥したチーズを取り出して串に突き刺し、焚き火で炙りはじめる。


まだ口が開きっぱなしになったままの私のためにヨアニスと怪物が説明してくれた。

彼はこのヨーラトウ湖の底にある村で暮らす、魚人種のおじさんだった。焚き火に気付いて危険を知らせに来てくれたのだと言う。


海やこうした大きな湖は豊かな恵をもたらしてくれるけれど、同時にヒューマンでは太刀打ちできないような強大な魔物が生息している。

しかし彼ら水の戦士の一族は強い。そんな魔物と日々戦い、逆に糧にしているのだ。そんなマーマンとうまく提携を結ぶことができれば水辺に暮らす人々の安全は保証される。そのため、彼らが陸上に姿を見せた時にはこうしてもてなすのが慣例となっている、らしい。


そのマーマンが言うには、今はたまたま時期が悪いんだとか。

島に赤い花が咲く数日間は昔から不吉な日とされ、現に漁に出た漁師の何人もが行方不明になっていると言う。

魚のおじさんはニタリと笑った。見つかった死体は血がすっかり抜き取られていたそうな。


湖の怪異は正教会の管轄になっているそうで、ちょうど今年も聖騎士が湖を封鎖しに来る予定になっているんだとか。

私は意味ありげに片眉をあげてチラリとヨアニスを見た。もちろん冗談だけど、彼はムッとした顔で私を無視した。吸血鬼ジョークはいつも不評なのよね。


「でも、なんで聖騎士なんです?封鎖するだけなら街の兵士でもいい気がするけど」

この世界に警察はいないので、事件が起きると地元の兵士や国から派遣されてきた騎士が調査する。ただし科学的な見識を持った専門家ではないから、きちんと冤罪なしに解決できるかどうかはかなり怪しいのだけど。


マーマンはブクブクと答えた。「宗教関係の伝承が絡んでおるからな」

気を利かせたヨアニスがさらに炙った干し肉を渡すと魚のおじさんことプタクドゥさんは上機嫌になってちょっと怖い昔話を教えてくれた。


かなり昔の話。この辺りの近隣の町村を中心にして邪教が流行ったことがあるらしい。

邪教は闇の神を祀る『血の教えの会』といった。

その名の通り、新鮮な生き血を祭壇に捧げる事で神から力を分けてもらえると信じていたらしく、大抵は旅人が犠牲になったのだけど、中には信者が自分の子供を捧げて忠誠心を示すなんてこともあったらしい。


しかし流行り出してまもなくして正教会に知られ、圧倒的な武力でもって速やかに粛清された。

抵抗した信者や幹部は捕えられたけれど、教主は重傷を負ったもののこの湖まで逃げてきた。そして血の様に赤い教団の宝珠を持って自らを切り刻み、呪いながら湖に身を投げたのだという。その後打ち上げられた死体には、真っ赤な貝がびっしりと貼り付いていたのだとか。

それ以来この湖に生息する貝は赤く染まり、宝珠と同じ赤い真珠が採れるようになったそうな。


「へぇ。ピンクパールなのね。素敵」

「おまえ話聞いてた?」呆れ顔のヨアニス。

私はそっとため息をついた。「だって女にとって真珠は特別な存在なのよ」

プタクドゥさんがギザギザの鋭い歯を剥き出しにして肉を噛みちぎりながら言った。

「血煌貝の紅真珠は昔からこの辺りの交易品でね。有名な真珠なんだよ。身も美味いしな!」

「わぁ楽しみ!ねぇ、島の花も話に関係があるの?」

花は遠目から見ても分かる程真っ赤だもの。きっとその血の教団と関連づけられているだろう。と思ったけど、そうでもなかったみたい。プタクドゥさんはちょこんと首を傾げた。

「さぁね。ただ花が咲くと毎年死体が上るんだよ。教団が現れる前からさ。危険だから湖から離れた方がいい。わしらの村のもんも島の辺りには近づかんよ。化け物がいるのさ。そいつは一年に一度目覚めて餌を喰らうんだな」


ヨアニスがいつもの疑い深い調子で言った。

「あんた湖に住んでるんだろ。正体を知ってるんじゃないのか?」

「いんや知らんよ。わしも親からあの島には近づくなと言われて育ったからね。町の連中は古い伝承を信じて教主のなれはての仕業だと信じる者もいるがねぇ」

「ふんっ。どうせ魔物なんだろ?討伐すればいいじゃないか」

しかしマーマンの戦士はキッパリ言った。「いんや、わしらは行かん」それから口が裂けたかと思うほどニタリと大きく笑って(たぶん笑ったんだと思う)、「島に行くんなら連れて行ってあげるよ」と言い出した。


あれれ?行っていいの?目をぱちくりさせるとご機嫌なおじさんは水分多めな笑い声を上げた。

「なぁに、島まではすぐさ。花を見にあんたらみたいなカップルが来ることもあるよ。ボートを一つ持ってきてやろうか?」

「でも、止めに来たんじゃないんですか?」

「わしは忠告しに来たんだよ。それでも興味があるなら自由にしたらいい。わしは気のいいマーマンだ。若者を無理に留めたりはしないさ。それになぁ、この時期は貝がよく採れるらしいね。危険を承知で漁にくる漁師も結構いるんだよ」


そういうものなの?よくわからない。ちょっぴりヒューマンとは道徳観が違うのかも。

私とヨアニスは顔を見合わせた。飄々とした態度に悪意はなさそうだけど、表情がまったく変わらないから感情が読み取りにくい。


だけどデートスポットになってるぐらいならそんなに危険はないんじゃないかとも思うし。

昼間に遠目から見た景色を思い出した。煌めく湖に浮かぶようにして咲く、真っ赤なお花畑。ボートで湖に出たら気持ちがいいだろうな。ヨアニスも乗りたそうにしてたし。

そっと彼を盗み見たら目が合った。子供みたいにイタズラっぽく笑ってる。なんとなく挑発されている気がして、考える間もなく口が勝手に喋っていた。「行ってみたいわ」


唇の端を微かに曲げたヨアニスは結果を知っていたみたいに満足そう。

「いいよ。行ってみよう。運がよければその化け物とやらに会えるかもな」

なんて不吉なことを。素早く訂正した。「運が悪ければ、でしょ」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る