第36話 雛の羽ばたき4

週末にムイと二人で街に出かけることになった。

たったそれだけでも、社交的とは言えない二人にとっては珍しいことで、しかもムイの方からの提案だった。


この学院に来て以来の習慣になっている、寝る前の瞑想を兼ねたストレッチをしていたら、一度だけのノック音とほとんど同時にドアが開いた。この世界の人はプライバシーの概念が曖昧で、このぐらいのことは普通にやる。


ラグをひいた床にべったりくっついた体勢で顔を上げた。

顔を出したのはムイだった。ムイは緩く笑って「邪魔してごめんね」と謝りながらも唐突に街にあるどこかのお店の話をしだした。


やや強引に話を進めるムイ。ちょっと呆気に取られたけれど、どうやら学生の間で噂になっているお店があるからよかったら一緒にどうかという内容の話だった。

きっと友人を遊びに誘った経験がほとんどないんだろう。もちろん即座に快諾し、その場で日にちも決まった。

引きこもり気味のムイを強引に誘って散歩に連れ出す事はあっても、誘ってもらったことはこれまで一度も無かったから嬉しかった。


当日の朝、ムイとお揃いにしようと髪を三つ編みにしてみて、やっぱり気持ち悪がられるかもと思い直してほどき、頭のてっぺんで緩く巻きつけるだけにした。


約束の時間を待ってムイの部屋のドアをノックすると控えめな返事が聞こえ、続いてドアが開いた。

出てきたムイを見て一瞬言葉を失った。やけにおしゃれしてる。真新しい、白いレースのフリルがいっぱいついたドレス。驚いた。彼女の階級で白を着られる人はいない。

そしてすぐにピンと来た。ああ、例の『曽祖父』ね。ちょっと少女趣味ではあるけれど、上流階級のお嬢様のようで、童顔のムイにはよく似合っている。真っ黒なローブの私とは対照的だった。


よく晴れた、気持ちのいい晩夏の午後。さっき降ったにわか雨のせいでちょっと蒸し暑いけれど、濡れた石畳がキラキラ光ってとても綺麗。

せっかくだし学院で貸し出している馬車には乗らず歩いて行くことにした。


ほんの一時、厳しくて陰気な学院生活から解放されたせいか、私たちは妙に浮かれていた。

夢中でおしゃべり(大抵はたわいもないこと。高等部の購買で買える香油の使い心地や食堂の新メニューの評価、時には将来の話も)をしながら歩いていると、いつの間にか街の中腹にある住宅地を抜けて賑やかな大通りまで来ていた。


まずはムイが行きたいと言っていたお店に向かう。

そこは若い層向けの雑貨屋さんで、所謂ファンシーショップに近い感じだった。色が溢れている。その豊富なカラーバリエーションは懐かしき日本を思い出させた。もしかしたら魔術を使って染めているのかも。値段もかなり高めだし。


店中の棚に若い女性が喜びそうなかわいい雑貨が所狭しと並んでいる。人気が出ているだけあって見ているだけで楽しい。私たちは機嫌よくあれこれ感想を言い合いながらじっくり見て回った。


商品には値札と簡単な説明が書かれたカードが添えられている。この形式はあまり見ない。識字率が悪いせいか、一般的には一人か二人店番がいて、客が来ると会話がはじまり、適当な世間話から売り込みや値段交渉へと移っていく。それが普通だった。

もしかしたらだけど、ここの店主は元地球人なんじゃないだろうか。それも私と似たような時代からきた人。


明るいピンクやグリーンに染められた色鮮やかな羽ペンを見つけて二人してはしゃいだ。

気軽に買える値段ではなかったから、卒業してうんとお金を稼いだらお揃いで買おうと約束し、視線を引き剥がすようにして別の棚に移動した。


目玉がキョロキョロ動く動物の木彫りシリーズは少し不気味だけどそこが可愛い。見る角度によって色が変わるクリスタルの髪留めは私たちの関心を引いたけれど、普段つけるにはちょっと派手な気もする。誰かが前を通るたびにゲコゲコ鳴く文鎮のカエルや雨に打たれるだけであらゆる汚れが落ちるという、つるりとした布でできた便利な外套(レインコート?)もあった。

そのどれもが魔術都市ガーレンならではの品物だった。


店内はそこそこ賑わってはいたけれど、やはり値段が高いからか買い求める客はあまりいないようだった。客層と値段が一致してないような気がする。中流階級が多いガーレンであっても、一般の若い女性が自由にできるお金なんてたかが知れてるもの。


お店を出て名残惜しげに振り返った。ムイとの約束を果たす前にお店がなくなってしまったら悲しいな、と思う。


それから市場で乾燥ベリー(魔術を使うと無性に甘いものが食べたくなる)を大量に買い込んで、広場で披露している大道芸を順に見てまわった。

すっかり歩き疲れて二人で噴水近くのベンチに座る。子供の一団が何やら大騒ぎしながら風のように通り抜けて行った。


りんご売りの屋台を見つけて、立ち上がって「果実水を買ってくるから待ってて」と言うと、ハッとしたように顔を上げたムイが、「それならフルーツパーラーに行きましょうよ」と言い出した。


フルーツパーラー。なじみのない言葉。一応存在だけは知っているけど、高級店に違いない。そもそも喫茶店自体が裕福層向け。それがフルーツの専門店となると。

熱心なムイの説得によれば、そこで出される『フルーツクリーム』は生のフルーツに砂糖を入れたミルクと甘いバターをたっぷりかけたもので、一昔前にどこかの王都で大流行りしたらしく、ここガーレンにも最近開店して女性の間(もちろん裕福層の中での話)で人気を博しているらしい。


一応ガーレンにも果樹園はあって、りんごならたくさん流通している。しかし高級店で出されるフルーツがりんごだけのはずがない。それにどこかのもっと開かれた国の王都ならともかく、大森林の奥深い場所にあるガーレンでは砂糖やバターなどの嗜好品は特に高価だった。


さっきの雑貨店といいその喫茶店といい、意外にもムイには情報通の一面があるみたい。彼女の家や両親を見る限り、そこまでの経済力があるとはちょっと思えないんだけど。


さすがに無理だと拒否したのだけど、今日に限って強引なムイに「見るだけでも」とひっぱられて店の前まで連れてこられてしまった。


そのお店はまさに上流階級の奥様がターゲットといった上品なお店で、どう見てもおしゃれな羽根ペン一本買えない私たちが入れるような場所じゃなかった。

白木の店内もオーニングテントの下のテラス席にも華やかなドレスに身を包んだ貴婦人でいっぱい。生きている世界が違う。


きっとちょっと覗こうとしただけでも警備員がすっ飛んできて、野良猫のようにつまみだされるに違いない。

ローブのポケットの中で寝ていたナッツが不穏な気配を察して外に飛び出した。裏切り者め。青い空に溶けて消えていく薄茶色の塊に目を凝らして歯噛みする。私も逃げ出したい。


「ムイ、やめようよ。帰ろ、ね?」店員に気づかれる前にと懇願したのに、ムイは幸せな白昼夢でも見ているような奇妙な笑みを浮かべて言った。「大丈夫なの。予約してあるから」

「はぁ?」

事態に追いつけないままの私を置いて、ムイはさっさとおしゃれなツル植物が絡む真っ白なアーチをくぐって入っていってしまった。

しかし、意外にも警備員にも店員にも止められる事はなかった。すぐに呆然と突っ立ったままの私の元にも満面の笑顔を張り付かせたウェイターがやってきて、丁寧なものごしで私を奥の個室へと案内してくれた。狐につままれた気分。


その小部屋は店の奥まった場所にあり、壁は薄いブルーに塗られていて、大きな花瓶に気品のある大輪の花が生けられていた。

中央のテーブルには見慣れない男が一人座っている。贅を尽くした洒落た服やリボンで結った長い髪。見るからに貴族っぽい。しかしなんというか、薄っぺらい印象を受けた。実際の人物ではなく芝居の登場人物みたい。

男は灰色の冷たい目をまっすぐこちらに向けている。背中がぞわりとした。


店員が部屋を間違えたのかと思ったけれど、その人は私たちを見ると薄い笑みを浮かべて礼儀正しく立ち上がり、一風変わったお辞儀をしてみせた。

私は目をまたたかせた。いったいなんなのよ。

困惑する私に、ムイはうっとりと微笑んで夢見るままの調子で言う。

「ユリ、紹介するね。曽祖父のヘライケル子爵よ。街の長老の一人でもあるの」うっすらと頬を染めて恥ずかしそうにしている。恋をしているのは明らかだった。

「こちらはユリです。私の大事な友人なの」その紹介はなんとなく妙な含みを持っているような気がして居心地が悪かった。私は眉を顰めてそっけなく「どうも」とだけ返した。

男は軽薄な顔に良くできた微笑みを浮かべて言った。「ヘライケルだ。ムイから君の話を聞いてね。ぜひとも会ってみたいと思っていたのだ」


やっぱりね、これは芝居なんだわ、と思った。

ムイが連れてきたのだし、目の前の男は何百年も生きていると噂されている『ハーフヴァンパイアの長老ヘライケル』に違いないだろうけど、見た目はやけに若々しく、白い肌にはシミ一つない。それでいて目だけはずる賢く光っている。

過剰なほど凝った貴族っぽい服も行き過ぎているし、笑顔も仕草も優雅というより狡猾で、なんとなく不快な気持ちにさせるのだ。全力で私を騙そうとしている、そんなふうだった。


私はため息をついた。これがヘライケルか。何から何まで気に入らない。私は一瞬でこの男が嫌いになった。

私に会うために弱い立場にいるムイを使って、嘘までつかせて連れて来させるなんて卑怯者のすることだ。

だいたい、こんな汚い真似をしたというのに、いまだに悪気も見せず完璧な紳士ぶったままでいるのも理解できない。


ムイの紹介では子爵だという話だけど、ガーレンは正確には国じゃない。魔術師が支配する独立した都市には王も貴族もいないから、おそらく他国にも国籍を持っている貴族なんだろう。

ううん、もしかしたら勝手にそう名乗ってるだけかも。そう思うとますます表面的な優雅さが嘘くさく見えてくる。ムイもうっとりしちゃってるし、もう結婚詐欺師にしか見えない。


ヨアニスが近づくなと言った目の前のハーフヴァンパイアは、私の師ということになっているメイシス導師やその上のゼイン学院長の派閥と敵対している勢力の長だということはもちろん知っている。

だけど、ムイの言っていた高価なデザートはこの人が奢ってくれるに違いない。

どんな話をされるのかわからないけれど、もしかしたらもう一生食べる機会に恵まれないかもしれないご馳走を前に逃げ出してしまうのももったいない気がした。

ヘライケルという男はどうにも気に入らないけど食べ物に罪はない。背筋を伸ばした品のいい店員が引いてくれた椅子には素直に座った。


とにかく今は相手の出方を伺って、後でメイシスに相談しよう。人気の『フルーツクリーム』も食べたいし。


魔族でありながら長老にまで上り詰めたというこの男、会う前はさぞや高潔な精神を持った人格者なのだろうと想像していたけど、実際は真逆だった。そう見せようとしているだけ。貴族風の挨拶に衣服、芝居がかった大げさな仕草。見ているだけで疲れる。


テーブルには3人座っているけれど、会話はヘライケルの独壇場だった。

当たり障りのない白々しい世間話がひと段落すると、後は一方的な自己ピーアールが続く。そのほとんどは自身の財力や地位や功績を自慢する類のつまらないもので、恐ろしく退屈だった。

彼の住んでいる大邸宅がどんなところかなんて興味ないし、趣味で集めているという懐中時計のコレクションなんてもっとどうでもいい。すっかり心酔してしまっているムイのヨイショにも心底うんざりする。


しかも目つきが気持ち悪い。話の合間に探るような視線をねじ込んでくるのだ。若い子にウケが良いように振る舞っているらしくやけに爽やかぶってるけど、紳士の仮面の下から絡みつくように滲み出るねっとりとした本性を隠しきれていない。


私はあからさまなため息の代わりに下唇を噛んで耐えた。ここまで不快な人間もそういない。

今すぐ自慢話をやめさせたかったけど、この手の人間にはどんな説得も通じないだろう。ただ自分の欲望を満足させることにしか興味がない、目の前にいるのはそんな空っぽなナルシストだ。人間の姿をしてはいるけど、心がない。

ヨアニスが危惧した通り、おそらく厄介な敵になる。しつこそうだもの。


席に座ってからほんのわずかな時間しか経っていないはずだけど、もう同じ空間にいるのがしんどくなっていた。私も感情を隠そうとはしなかったから、いい加減ヘライケルの方も気付いたみたい。軽く肩をすくませて冗談めかして言う。

「怒らせてしまったかな。騙すような真似をして申し訳ない。謝罪しよう。ムイを責めないでやってくれ」わざとらしい慈愛深い微笑みをムイに向け、「君にも無理を言ってしまったな」と甘い声で囁いた。吐きそう。


ヘライケルは再び私に向き直ると、「可愛いムイにようやく友人ができたというからぜひ会ってみたかったのだよ。しかしこうでもしなくてはガードがキツくてね。ただ家族の友人に会うというだけで、面倒な手続きを迫られてしまう」と悲しげに微笑んでため息をつく。


もう良い加減にしてほしい。この茶番はいつまで続くんだろう。ああそうだ、『フルーツクリーム』を平らげるまでだわ。

馬鹿なことをしたと歯噛みした。どんなに美味しいものも最悪な相手と一緒では味わえるわけもない。


ヘライケルのおしゃべりを無視し続ける私に、ムイは一瞬だけ怯えるような目を見せた。きっと私の態度が『曽祖父』の逆鱗に触れないかと心配なんだろう。

この後ムイと二人きりになったこの男がどんな本性を表すのか想像して暗い気持ちになった。哀れには思う。しかし彼女はもう私側の人間じゃない。

おそらくムイは何もかも承知の上で私を差し出したのだ。彼女にとってヘライケルは『曽祖父』以上の存在なんだろう。反吐が出る。


こうして私と話をするためだけに、ムイからたった一人の友人を取り上げてまで私を連れてきたわけだけど、『交渉』というものははじまる前にすで結果が決まっているもの。

ヘライケルが何を要求してこようと、雲の上の人だろうと関係ない。わざわざ高級店を用意してご機嫌をとってきた時点で主導権は私にある。


パフェが出て来るまでは絶対に私から話をふらないこと。そして食べたら逃げる。それでいこう。

私の決意が伝わったのか、ヘライケルは扉近くに控えていたウェイターに顎を斜めに上げる傲慢な仕草で指示を出した。


それほど時をおかずワゴンに乗せられて出て来たのは、色とりどりのフルーツと砂糖漬けの食用花。

話に聞いていたバターは滑らかでふわふわしていて、製法はともかく、もはや生クリームと言っても差し支えないぐらい。

しっかり冷やされた、珍しい南国のフルーツの盛り合わせ。マンゴーにメロンにグレープフルーツ。一度凍らせたのか何らかの加工をしたのか、そのままの味と歯触りではなかったけれど、甘酸っぱいフルーツに添えられた爽やかなミントの葉とクリームの軽やかな甘さが絡み合う絶妙の一品だった。

パルマやファーシと食べたら最高だったのに。


ずっとうるさかったヘライケルも食べている間だけは沈黙していた。諦めたのかもしれないし、甘いものにかぶりつく女性への礼儀を守ったのかもしれない。とりあえず食べ終わるのを待つことにしたらしい。懸命な判断よね。


ナイフとフォークを置いて上流階級の香り高いお茶を一口のみ、上品にナプキンで口元を拭った。

待ってましたとばかりにヘライケルが話を再開しようとしたけれど、そうはいかない。私は素早く立ち上がると手元のナプキンを適当にたたみ直して椅子に放り、「失礼」と勝ち誇った笑みを浮かべた。


こうすれば貴族ぶってるこの男は私を止めることができない。上流階級においてテーブルマナーは絶対のルールなのだ。

そのまま部屋を出ると、給仕がさりげなく示した化粧室のある方向には行かずに急いで店を飛び出した。


個室を出る時、視界の隅に不安そうにしているムイが見えた。だけど私としてもここまでされてしまってはどうしようもない。

どうにか解放されたけど気分は落ち込んでいた。すっかり乾いて、いつものどんよりした暗い色合いになってしまった石畳の道を怒りに任せて早足で歩く。

ムイがどんなつもりでここへ連れてきたにせよ、もう今まで通りの無邪気な友達同士というわけにはいかないのかも。


連れて行かれた先がヘライケルの持っている店か何かで、なんでも好きにできる場所だったら一巻の終わりだった。ムイだってそのぐらい理解しているはず。

どんな世界であろうと、街のトップに逆らってでもただの学生の名誉を守ろうとする者はいないし、そんな事態に巻き込まれてしまった時にはもう自分自身しか頼るものはなくなる。


私は不意に心の中で燻っている怒りの原因を悟った。信じていた友人の裏切りが渦を巻いている。ああ、ムイ。親切で思いやりがあって、純真な私の友達。何か大切なものを無理やり剥ぎ取られた気分だった。それをやらせたあの男がどうしようもなく憎い。


空からナッツが舞い戻ってきて、頭の上にとまった。心配そうに私の目を覗き込み、肩に移って首元に擦り寄った。そんなに傷ついて見えるかしら。私は「大丈夫よ」と囁いて、そっと頬を押し付けた。

「そうね、馬鹿だったよね」


本当に馬鹿。ヨアニスの言いつけを守るべきだったんだわ。テンやパルマが忠告した通り、ムイは危険な存在だった。

ハーフヴァンパイアのヘライケルが私に何を求めているのかは、まぁわかる。考えたくないけど。

奴は盛んに自分の経済力を誇示していたけれど、そんなもの欲しくないのだからこの交渉は初めから決裂していたのだ。


学院の門をくぐった時には疲れ切ってクタクタだった。メイシスへの報告は明日にしたかったけれど、寮にたどり着く前にばったりテンくんに会ってしまった。

寮へ続く細い道を通せんぼするように仁王立ちして、私を冷ややかにねめつけている。会ってしまったというか、なぜか私のいた所や帰ってくる時間を知っていて帰りを待っていたみたい。


「ごきげんよう」

「ふざけてる場合か?」半笑いの私にテンくんは片眉をあげて抗議した。

ヘライケルに会っていたのはついさっきの事なのに。「なんで知ってるのよ?」

彼はキッパリと言った。「このガーレンに秘密はない。で、なんの話をしたんだ?」

私は大袈裟に驚いたふりをしてみせた。まだ芝居の続きをみているみたいで現実感がなかった。大切な友人を無くしたばかりなのに、もうこんな話をしてる。なんだかおかしくなって吹き出した。

「ガーレンに秘密はないですって?それって冗談?」

「いいから」

「……核心に触れる前に店を出たわ。だから知らない」

テンくんは冷たい目をすっと細めた。「ふん。馬鹿なやつだ。これに懲りたならもうあの女には近づくなよ。メイシス様には僕から話をしておく。しかし覚悟はしておけ。きっとお怒りになるぞ」

「怒られる筋合いはないけどね。でもムイのことは……正直混乱してるの。彼女はきっと精神支配を受けてるのよ」

「そうだとしても知ったこっちゃない。君もこの後まっすぐ医務室へ行け。何かされた可能性が高い」

「そうかもね」曖昧に濁した。

私の特性である『状態異常耐性/大』のことは秘密にしている。誰がいつ敵に回るかわからないもの。本当に信頼できる人、ヘンレンスさんと、長く旅を共にしてきた親友のヨアニスの二人だけにしか明かしていない。


私の態度が気に障ったみたい。テンくんは不満そうに口を窄めた。

「いいか、今回の件で学院長は赤っ恥をかかされたんだぞ。これは奴らからの宣戦布告だ。もう一度いう。ムイとは距離をおけ。二度とかかわるな」

私は笑った。乾いた笑いだった。「そんな風に強制されると逆らいたくなるの。知ってるくせに」

しかしテンくんは挑発には乗らなかった。一年もダメな私の個人レッスンをしていたんだもの。見抜かれている。

「いい加減にしろと言いたいところだけど、その様子じゃ嫌ってほど理解したみたいだな。いくら君だって長老ヘライケルの黒い噂は知ってるだろ?そんなやつにこのガーレンを乗っ取られるわけにはいかない。だろう?」

「それって横領とか怪しげな黒魔術とか密輸とかのやつ?知ってるわ。ヴァンパイアへの嫌がらせだと思ってたけど、今日会った限りではなんでもやりそうな感じだった。ああもう、記憶から抹消したい。すごく気持ち悪かった」

テンくんはギョッとして目を剥いた。「……何かされたのか!?」

「延々と自慢話を聞かされてる間中いやらしい目つきでジロジロ見られた」

「……そうか」


どうやら、考えていたよりもずっと大きな問題になってしまったらしい。

派閥の一番下っ端とはいえ敵対勢力に手を出したってことは、相手には勝算があって、すでに戦う準備ができてるってこと。


ガーレン魔術学院の学院長はこの街の影の支配者ではあるけれど、7人いる長老の半数がヘライケルの側に回ればどうなるかわからない。

一見して平和そうに見えるこの街だけど、もうすでに真っ二つに分かれて争っているのだ。


もしかしたらヘライケルはただ本当に、可愛がっているムイと仲のいい私の話を聞きたがっただけかも知れないし、もしかしたら、ムイだってこんな大事になるとは思わず、ただ無邪気に友達を大好きな『曽祖父』に会わせたかっただけかもしれない。

そうあって欲しい。そんな絶望的な希望が愚かでお気楽な私の心に湧いては消えた。


しかし夕食を終えて寮の部屋へ戻ると、机の上に一輪の真っ赤なバラの花が置かれていた。

開きかけた蕾のバラ。棘はすべて取り除かれ、シルクのリボンが結ばれている。誰からの贈り物かすぐにわかった。

わずかな希望は打ち消され、代わりにやりきれない怒りが浮かんだ。ムイのやつ。


バラは窓から放り投げて捨てた。

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