第4話 はじまりの地1
視界一杯に広がる、爽やかな青の世界。
気持ちよく晴れ渡った水色の空、緑がかった明るい青と深い紺碧の濃淡だけで構成された清らかな海。寄せては返す波のリズムが心地よい。
日差しはちょっと、いやかなり強いけど、時折吹く海風が熱気を吹き飛ばしてくれる。
ああ、もしかして天国にいるの?きっとここは、世界が創世された時から今日に至るまで、一切の穢れを知らない、人類未踏の無垢な世界に違いない。
いや、それはそれで困るけど。
そんな美しすぎるこの世界には全く似合わない、穢れた生物がポカンと口を開けてきょろきょろとあたりを見回した。私の事だ。
第三者が見たらちょっと間抜けに見えるかも。これが神か宇宙人の作ったドキュメンタリー的な娯楽であったなら、ここは笑うポイントだわ。
私が立っている砂浜は大きな三日月型をしていて、振り返ると近くに切り立った崖がそびえ立っていた。
砂浜も白いけど、崖を構築してる岩も妙に白っぽい。それに植物がぜんぜん見当たらないし、私の他には生き物の気配がぜんぜんなかった。
ただ青と白だけが広がっている、奇妙な世界。
改めて違和感に気づくとますます奇妙に思えた。足元でコミカルな横歩きをしながら海の泡の中に消えていった小さな蟹もまた白かった。これは保護色かしら。
……あ、生き物ちゃんといるじゃない。安心したわ。
肌や脳天をジリジリと焼き付ける強烈な陽射しに参ってしまって、崖の方に走り寄って日陰の中に入り込んだ。空気が乾燥しているせいかわりと涼しい。すっかりほてってしまった体に強い風が吹きつけた。ホッと一息つく。
ここは本当に楽園と呼ぶにふさわしい場所だわ。生活に余裕ができたら、海で泳いだり浜辺で一日中寝転がってのんびりしたいな。
それにこの体。新品の肉体だけあって体に一切の老廃物がないらしく、すごく軽い。
40を過ぎたあたりから目立ち出したお腹のシークレットお肉もキレイさっぱりなくなっているし、まさに生まれ変わったのだと実感した。
だけど、なんだか体が縮んだような。というより子供みたいな体格だった。お腹の贅肉と一緒に胸も消失してるし。
私が選んだ【古代人】って、映画のホビットみたいに小さな種族なんだろうか。
説明が足りないのよ、まったく!
そう、私は選んでしまった。
他に取るべき基本値アップや技能や魔術や職業を一切捨てて、謎の【古代人】を選択したのだ。
ポチッと押してしまった。自分でも馬鹿だと思う。『好奇心は猫を殺す』のことわざ通りにならないといいけど。
だけどもう一回死んでいるわけだし、少しぐらい冒険したっていいかなと思って。
【古代人】の文字に触れた途端意識が遠のいて、気付いたらこの浜辺に突っ立っていた。
さっきまで着ていたはずの紺のワンピースはボロボロの麻の袋(としか形容できない)に変わっているし、靴も履いてなかった。
一瞬のことだった。『本当に選択しますか』的な確認もなし。間違えて押してたらどうする気なのよ。優しさがまったく感じられないひどく冷たい仕様は、この先も期待しちゃいけいないという教訓になりそうで怖い。
ところでここは世界のどのあたりに位置する海岸なんだろう。近くに人の住む街があるといいけど。例のリストに載っていたヒューマン以外の種族名の羅列が頭をよぎった。確率から言って、覚悟はしておいた方がよさそう。
それにしても人がいないわ。もしかして本当に天国だったりして。この美しさだもの、あり得る。なんてね。
少なくとも歩ける範囲に街がないとたぶん死ぬ。人って水無しでどのくらい生きていられるものだろう。いや、まさか、本当にサバイバルを要求してるんじゃないわよね?まさかね。
何だかお腹が空いてきた。喉も乾いてる。きっと新品の体の胃の中には何も入っていないんだ。一度気付いてしまうと急激に飢えを感じた。
今すぐ何か食べたい。いや、その前に水だわ。飲水がなければこの暑さでは長く持たない。
それにこの服。すごくゴワゴワしてて、肌に触れているところがかゆい。ううん、こんなの、もはや服って呼べるレベルじゃない。最悪な品質の麻袋に穴を開けただけだもの。裸でないだけマシってシロモノ。下着もないからスースーするし、防御力1って感じ。
もしかして【古代人】って、ほんとに原始人なんじゃないの?
とにかくいつまでも日陰に避難してるわけにもいかないし、何か行動を起こさなきゃ。
しかし、切り立った白い崖を見上げて途方に暮れた。高過ぎてとても登れる気がしない。
とりあえず上に上がる道を探そうと探索を開始した。心許ない裸足に熱せられた砂が直接当たって熱いし、ちょっとした小枝や小石が凶器に変わる。もし誰も住んでいない孤島とかだったらどうしよう。じわじわと心の中に恐怖が侵食して、焦りばかりが募っていった。
体感で30分ほどかかっただろうか。ようやく念願の人工物、階段を発見した。希望そのものに見えた。
ああ良かった!助かったわ。階段があるって事は、人がいるって事だもの。それにしてもやけに古い階段だわ。あちこち崩れて風化しているし、使われなくなってからだいぶ月日が過ぎていそうだった。劣化というよりもはや遺跡跡って感じ。
実際に登って見ると、かなり危険だとわかった。足元も確かじゃない上に、吹きつける風が強くて、手すりもないから油断すると転げ落ちそうだ。
正直言って登るのは怖い。けど他に選択肢がなかった。
登るたびにさらに強くなる風が、小虫みたいな私を冷酷に払い除けようとする。這いつくばって全身全霊をかけて、一歩一歩慎重に登っていった。やがて終わりが見えた。
ここは……。
真っ白な荒野だった。
目を疑う光景にしばし唖然として立ち尽くした。
目に見える範囲には日差しを遮るような木々や建物は一切無い。ただひたすら地平線まで続く真っ白な砂だけが平らな大地を覆い尽くしていた。街なんてどこにも見えない。
残酷な灼熱の太陽がひたすら降り注ぎ、強く吹き抜ける風以外には音もなく、蜃気楼のような熱気だけが揺らいでいる。かなり離れた場所に枯れ果てた細い白木が葉もなく哀れな様子でただひたすらに風に吹かれていた。
ぞっとした。このままだとあの木と同じ運命を辿ってしまう。骨になっても誰にも発見される事なく永遠に近い日々を野晒しのままああやって晒され続けるんだ。
「こんな……嘘でしょ」
階段はあった。崩れかけた階段が。間違いなくかつては人が、文明があったはず。でも、今は?
当然すぐ近くに人の村や街があるものだと思っていた。それなのに、人どころか生き物の気配すらしない。かわりに死の光景がどこまでも広がっていた。
動かなきゃ。立ち尽くしている場合ではない。
何とかしないと死ぬ。確実に死ぬ。
現実を受け止められず動けないでいる体を叱咤して、なんとか数歩歩く。
無理だわ。
強烈な直射日光を浴びながら、見渡す限りどこまでも続く荒野を水も持たずにあるかどうか分からない街を探して歩くなんて、死を選ぶようなものだ。
じゃあどうすればいい?唾を飲み込んだ。必死に考える。
海岸に戻るしかない。あそこなら日陰もあるし、蟹もいた。探せば食べられる生き物が他にも見つかるだろう。もしかしたら船が通るかも。
少なくともここよりはずっとマシ。とにかく拠点を築いて、考えるのはそれからだわ。
今にも崩れ落ちそうな階段は登るより降りる方がずっと怖かった。まさしく命懸けだった。時間をかけて慎重に降りる。こんな状況だもの、怪我だけは絶対にしてはならない。
日陰は、無くなっていた。
時間が経過して日の向きが変わったのだ。容赦なく照りつける強烈な太陽。ここにきて、ようやく何をしてしまったのか気が付いた。
水。
魔術の技能を選択していれば、いや、その前にグループから離れるべきではなかった。皆で力を合わせれば助かる道もあったはずだなのに。
……そんな。
いやだ、死にたくない!本能が叫んだ。こんな辛い死に方は嫌。なんでこんな目に遭わなきゃいけないの?わざわざ生き返らせておいて、死なせるわけ?どうしてよ!?
私は目を閉じた。パニックを抑えないと。何度も息を吸って吐いて、呼吸をととのえる。
こうしている間にもどんどん水分が奪われていくのを感じる。命のゲージがどんどん狭まっていた。
まずはこの強烈な直射日光をどうにかしないと。なんでもいいから、頭に帽子のかわりになるものをかぶるのよ。なのに、ああもうやだ!ここには葉っぱの一つもないってのに、どうすればいいのよ!
待って。冷静になるの。どうにかして生きる道を探さないと、本当に死ぬ。
私は目を開けて海を見つめた。透明な海の底には白い岩や砂だけが見える。でも生物はいたんだもの。どこかに海藻とか、魚だっているはず。
必死に探したけれど、さっきの蟹はすでに姿を消していた。どこを探してもいないし、海には小魚も貝も、わずかな海藻さえ見つからなかった。
もっと水深の深いところにならいるんだろうか。
……すごく、喉が渇いた。
生き物を探して海の中に入ると、冷たい水が体を冷やしてくれた。気持ちいい。泳げば体力が削られるだろうけど、今は仕方がない。ざぶざぶとさらに奥へと入っていった。
太腿が浸かるあたりまで来たところで、突然ふくらはぎに鋭い痛みが走った。みるみるうちに海水が血に染まる。
「何なのよ!!」恐怖に襲われて慌てて砂浜まで駆け戻ろうとした。だけど寄せては返す波に足を取られてなかなか距離を縮めることができない。
早く、早く!きっとサメだわ。パニックを起こしかけながら何とか砂浜に戻って倒れ込んだ。
息も絶え絶えになりながら、恐々体を持ち上げて足をみる。
嘘でしょ!抉れていた。骨が見えそうなほど深い傷。肉をむしり取ったようなひどい噛み跡から激しく出血している。目の前が暗くなった。
ああ、だめ。やっぱりサメに噛まれたんだ。あるいは、他のバケモノに。
どうにかして今すぐ止血しなきゃいけないのに、体がガクガク痙攣して思うように動けない。再びパニックに襲われた。目の前が暗転して、もう何も見えない。
命を失うのだと脳の冷静な部分が判断した。二度目の死を悟って涙が虚しく頬を伝う。
前回死んだ時、私は一人ぼっちだった。
今回もまた、選択を間違えた。どうしても人が信じられなかった。
どこか遠くで怪鳥がけたたましく喜びの声をあげている。
私の死が嬉しくってしょうがないみたい。ハゲタカか何かだわ。ご馳走にありつけると舌舐めずりしている。
死は、いつも突然にやってくる。
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