第5話 はじまりの地2
火がはぜる音で目が覚めた。
衣ずれの音がして、同時に影が覆い被さる。
低い、嗄れた声がした。何を言っているのかぜんぜんわからない。外国語だった。聞いたことのないリズミカルで複雑な抑揚。
その人は私に語りかけながらも、時折苦しげに咳をしていた。
口元にひんやりとした感触が当てられる。水を含ませた布のようだった。水滴が唇を伝って口の中にこぼれ落ちた。
水だわ!
狂おしいほどに求めていたそれを必死で飲み込む。
もっと、もっと欲しい!
その人は私の必死の喘ぎに応えるようにさらに布を絞ってくれた。
救助されたんだわ。信じられない。あの状況から助かったなんて。
水を得ていくらか冷静さを取り戻すと、助けてくれたであろう命の恩人の姿を見たくて上半身を起こそうとしたけれど、くらりとしてバランスを崩してしまった。
黒い修道服のような服を着た老人が、骨張った硬い手を背中に差し込んで私を支えてくれた。そのままそっと寝床に戻す。
その老人はひどく痩せていた。顔にも皮膚がピッタリと張り付いていて、まるで喋る骸骨みたいだった。それに顔立ちもアジア系の骨格とは明らかに違っている。ここは日本ではないんだと、改めて思い知らされた。
彼は安心させるように穏やかなに微笑んだ。深いシワが顔全体に刻まれる。長い間、それこそ人生をかけて人と真正面から向き合ってきた人特有の、喜びと悲しみがないまぜになった複雑な笑顔。
彼は私を怯えさせないよう軽く身をかがめて、か弱い小動物に接するかのようにゆっくりと話しかけた。低く穏やかな口調が私を安心させてくれる。
言葉がわからず申し訳なく思う。【言語理解】のスキルを取らなかったせいだわ。いやでも、ポイントが高過ぎてとても選ぶ気になれなかったのよね。
老人は身振りで私にもっと休むように言っているらしかった。まるで催眠術にかかったみたいに私の瞼は自然と下がっていく。そして再び深い闇の中へと落ちていった。
——— 光がちらつく。強烈な光が。
その光と私は何か話しをしていた。光が微笑んだような気がした。
目を開けると薄暗い天井が見えた。深いドーム型をしていて、かなり古い建物らしく漆喰が禿げて中の石組が露出していた。
夢を見ていたみたい。変な夢だけど、死にかけたんだから当然よね。
苦しげな咳が聞こえた。ゆっくりと顔を横に向けると、老人がそばに座っていた。ラグをひいただけの床に直接あぐらをかいている。私に気付いて一言何かを言った。そして少し遠慮がちにしながらも膝をついて、上体を起こそうとするのを手伝ってくれた。
私が寝ている敷布団のすぐ横に木のお盆が置いてあって、その上には水の入ったお椀があった。
私は焦がれるような視線をお椀に注いだ。彼は何かを言いながら焦ったいほど慎重な手付きでそれを渡してくれた。たぶんだけど、ゆっくり飲むように言っているんだと思う。
私は両手でお椀を受け取ると焦る心を抑えつつ慎重にごくりと飲み込む。老人は嬉しそうに頷いた。
水はあっという間になくなった。次に老人は空になったお椀を受け取り、身振りでお腹が減ったかと聞いてきた。必死に頷く。彼はスッと立ち上がって部屋から出ていき、すぐに別のお椀を持ってきてくれた。
渡されたのは芋か何かを極限まで溶かしたような、ドロドロしたクリーム色の何かだった。正体は不明だし味付けもなかったけれど、ものすごく美味しかった。無我夢中で食べた。
食べ終わってから気づいたけれど、器もスプーンも木をくり抜いて作ったような荒っぽいデザインだった。もしかして手作り?この世界の文明はいかほどなんだろう。
食器だけじゃない。見える範囲にあるテーブルや椅子などの家具はすべて木製で、見てわかるほど粗末だったし、私が寝かされているのは手作り感満載のワイルドな暖炉の前だった。
ちょっと暑い。改めて室内を見回すと、少し奇妙な印象を受けた。
部屋というかただの広い空間で、窓もない。ここは本来別の用途で使われていたんじゃないかと思わせるような場所だった。
壁際には幾つかの彫刻が押しやられているし、老人がお粥を取りに行った部屋も後から素人が無理やり壁を作ったように見える。その割には石造の壁や天井は少しの凹凸もなく正確で、高度な建築技術が窺えた。なんだかチグハグな印象を受ける。
そんな疑問もすぐに霧散した。お腹が満たされると今度は眠気が襲ってきて、私は気絶するように眠ってしまった。
意識が浮上してはまた沈む、曖昧な意識の中で、呼吸をする度に肌が泡立つような不思議な感覚を覚えた。煮えたぎった血が自由意思を持って全身を駆け巡っているみたい。
薄れゆく意識の端っこで空のお碗がカタカタと音をたて、暖炉の火が燃え盛った。これも夢なのかしら。肉体と精神が混ざりあう不思議な世界。何度も現実と夢の境を彷徨った。
ふいに体がふわりと楽になって、今にも空気に溶け込んでしまいそうな感覚に襲われた。
あ、消える。そう感じて慌てて目を開けた。心臓が激しく打ちつけていた。
なんだか眩しい。部屋全体が明るかった。暖炉の火のオレンジの灯りじゃなくて、白い太陽の光。
立ちあがろうとしてはたと気付く。あれ?ぜんぜん痛くない。
体に掛かっている厚手の毛布をめくって足を確かめた。ボロの麻袋からのびる足は包帯さえ巻かれていない。
目をぱちぱちやってみても、棒切れみたいな子供の足は、やけに青白い以外どこにも異常はなく、掠り傷ひとつ見当たらなかった。
そんな馬鹿な。間違いなく大怪我を負っていたはずなのに。あれも夢の一部だったの?
まさか!だってあんなに血が出て……。あれ?体が軽い。とても大量出血で死にかけたとは思えないほど体調がいいんですけど。でも、確かに眠る前はすごくだるかったはず。
混乱していると突然強い日差しが部屋に差し込んできて目を細めた。ドアの代わりに天井付近からぶら下げられている布をめくってあの老人が入ってきた。
彼は少し驚いたように私を見つめると短く語りかけた。そして手をかざして、安心させるように微笑み、奇妙な抑揚を持つ歌を歌った。
祈りの言葉に似ていると感じたとき、私は再び意識を失った。
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