第18話 ヨーラトウ湖の怪物2
深い霧が立ち込める早朝、約束通りプタクドゥさんが小舟を持って迎えに来てくれた。
舟は小型の手漕ぎボートで、水の中から引いていって花の咲く島の近くまで連れて行ってくれるらしい。
お礼を言ってボートに乗り込むと、早朝の真っ白な霧がそっと私たちを包みこんだ。
ボートは穏やかな波の間を滑るように進む。やがて深い霧に囲まれた深紅の島が見えてきた。白い静寂の中に浮かび上がる神秘の島。恐ろしくも幻想的な光景。不吉なほどに美しい。
水面にポカリと顔を出したプタクドゥさんは「わしはもう行くよ。水の中で干からびたくないのでね」と言ってあっさりと引き返していった。
「ひどい挨拶だわ。冗談のつもりかしら」
「さあね。しっかしマーマンが嫌がるほどの魔物かぁ」期待を込めて霧の向こうを見つめる物騒なヨアニス。
「ちょっとやめてよね。まさか化け物を探したいなんて言わないでしょうね」
「いや、ちょっとどんなかと思っただけだよ」
彼は誤魔化すようにボートの中から櫂を引っ張り出して水に突っ込み、せっせと漕ぎ出した。
上陸してみると島は荒々しい穴ボコだらけの岩でできた本当に小さな島だった。
ゴツゴツした岩の隙間からコスモスのような形の深紅の花が揺れている。花びらはビロードの様に厚く滑らかで、細長い茎が誘うように風に揺れていた。儚げでありながら怪しい美しさを湛えている。ついヨアニスの唇みたいだと考えてしまって慌てて乱暴に首を振り、頭からやましい考えを追い払った。
二人でボートを陸の上に引き上げて散策を開始した。
こうして近くで見ると、花は密集して咲いているのではなくぽつぽつとわずかな土の面積を埋めるようにして咲いていた。しかし島の中央だけは一本も咲いてない。まるで避けるかのようにしてぽっかりそこだけが空いている。
「ねぇ、真ん中に行ってみない?」
「ああ。もしかしたら……」
「何?」私がジロリと睨むと彼はそっぽを向いてポツリとこぼした。「まさかそんな簡単に巣が見つかるわけないか」と残念そうに肩をすくめて歩き出す。
私は白い霧に包まれた空を見上げた。まったく、なんだってそんなに化け物に会いたいのよ。
ボコボコと尖った岩場はものすごく歩きづらくて、なるべく平坦な足場を見つけながら進むものの、それでも何度も転びそうになった。その度に笑いを堪えて唇を引き結んだヨアニスに抱きかかえられる。地面が平らだったなら私だってここまで頻繁に転んだりしないのに。
苦労して島の中央までたどり着いたけれど、結局何もなかった。単に大きな岩の塊があるだけ。
少しでも面白いものはないかと探索してみたけれど、小さな島はただ水から突き出した大きめの岩に過ぎず、まばらに生えた花以外に見るべきものはなかった。むしろ遠くから見ていた方が綺麗だったぐらい。
せっかく来たけれどもう引き上げようかと話していると霧が晴れてきた。魔法のように不気味な雰囲気が一掃されてまったく別の世界が現れた。静謐な朝の光が静かに湖面を輝かせる。
「わぁ。綺麗ね」
「ふぅん。しかしなぁ、魔物が出そうな気配がまるでないじゃないか。普通に漁に出てるしさ」
残念そうなヨアニスの言葉通り、島の周りでは漁をしているらしき小舟がちらほら見える。
「本当ね。ま、平和で何よりじゃないの。きっとおじさんは私たちを怖がらせようとちょっと話を盛ったのよ」
「ちぇっ。揶揄われただけかよ」
ボートに戻ってしばしの舟遊びを楽しんだ。もちろんヨアニスが漕いでくれる。
ちょっとデートみたいだわ。白っぽい朝日に照らされた彼の笑顔は湖も両手をあげて降参してしまうほど眩しく輝いている。
朝の空気はまだちょっと、いやかなり冷えるけど、そんなこと気にならないぐらい幸せな気分だった。
一人の漁師が遠くから手を振って「おーい」と声をかけてきた。
ヨアニスが舟を向けるとその年配の男性は「デートかい?」とニヤリと笑った。私が否定する前にヨアニスがキッパリと「そうだよ」なんて言うもんだから、思わず頬が熱くなってしまう。
漁師は魚じゃなくて貝を採っているという。興味津々で首を伸ばすと採貝の様子を見せてくれた。先にカゴがついている長い棒を水中に沈め、底に生息している貝を掬い上げて採る。
なるほど。伝説の通り貝は鮮やかな真紅の色をしていた。
二枚貝でサイズは結構大きくて手の平ぐらいある。分厚い殻はとても硬く、開ける時は専用の工具を使うんだそう。
気のいい漁師がデートの余興のつもりで「開けられるかい?」とヨアニスに貝を渡したもんだから、彼もムキになってなんとか素手で開けようとする。挑戦されると熱くなる男の子なヨアニスをからかって笑っていたら、すぐ近くでトプンと軽い音がした。
さっきまで一緒に笑っていたはずの漁師のおじさんがいない。
まさか笑いすぎて落ちた?水深は結構深いみたいだし、大丈夫かな。
ヨアニスが貝を放り投げて言った。「おい。やばいかも知れないぞ。何かいる。この気配は只者じゃない」
「え?ほんと?何も感じないけど」
「そりゃそんだけ鈍けりゃな!」
珍しく焦りを見せるヨアニスは暴言を吐きながら慌てて二つのオールを水に突っ込んだ。逃げる気だ。
「待って!おじさんを助けなきゃ!」
彼は吐き捨てるように言った。「それどころじゃないよ!」
ヨアニスはとても強いし、複数の魔物に囲まれたって少しも怯まない。むしろ楽し気に飛び出すような人なのに、今は一目散に逃げようとしている。
若く見えても彼は熟練のハンター。無謀な選択は絶対にしない。長い経験から舟の下にいる何かは自分では手に負えない相手だと素早く察して逃げる決断を下したのだ。
それでもこんなにあっさり人命を見捨てていいの?私はダメもとでもう一度言ってみた。
「ねぇ、漁師さん助けないの?」自分の声だとは思えないほどか細く震えていた。
ヨアニスは冷静に前を向いたまま言った。「手遅れだろ。水の中じゃ助けようもないしな。ほら、頭を低くして蹲ってろよ。何があるかわからない」
確かに水に潜って探す勇気は私にはないし、彼にそれをしろとは言えなかった。小さく頷いて指示通り体を丸める。
いつの間にか再び霧が発生していた。途中で何艘か小舟を見かけたけれど、どれも無人だった。不吉な予感どころじゃない。
「ねぇもしかして、だけど。このボート、どこで見つけてきたんだろう」
「あん?」
「だってよ、マーマンは舟なんて使わないでしょ。どこから持ってきたのよ」
「あー、そりゃまぁ、舟が浮いてたんじゃないか?…無人の」めずらしく歯切れが悪い。絶句した。やっぱりそうなんだわ!信じられない。これは本格的にやばい。
ヨアニスが叫んだ。「うわっ!水底にでかいのがいるぞ!動くなよ!」
是非とも確認したいのに、うずくまってるせいで何も見えない。頭の中に不気味な塊が蠢く嫌なイメージが湧き上がる。そいつの気配がどんどん海面に浮き上がってくるのを感じた。
恐怖による妄想なのか、はたまた強大な魔物の魔力を感じ取っているのか自分でもわからなかった。
シュッと鋭い音がして思わず顔を上げると、赤く細長い肉塊が目の前にぼとりと落ちてきた。
ヨアニスが不安定な舟の上に中腰で立ち上がって剣を抜いていた。肉塊は魔物の触手か何かだろうか。腕ぐらいあるピンクの塊が赤い液体を撒き散らしながらうねっている。
「顔を上げるな!」怒られて慌てて舟底に這いつくばった。魔物との交戦はしばらく続いていたけれど、ついに静かになった。私は極限まで声を潜めて囁いた。「倒した?」
「いや。触手だけだ。本体はかなりでかいぞ。今のうちに逃げよう」
私たち、死にかかっているのかも。とてつもない大きさの化け物がこんな小さな、木の葉のように頼りなく浮かぶ舟に狙いを定めているなんて。
このままあの死後の霧の世界に向かってしまうような気がして絶望的な気分になった。だけどヨアニスはさすがだった。死に直面しても冷静そのものの態度でオールを引っ掴むと力強く漕ぎ出した。
張り詰める緊張の中それでも持ち堪えてもうすぐ岸に届くぐらいの時間が経った。はずなのに、ふと顔を上げたら目の前にあの赤い島があった。ヨアニスも漕ぐのをやめて呆然と真っ赤な島を見つめている。
そんな。こんなのおかしい。反対方向に逃げてきたはずよね。もしかして霧で方向がわからなくなったの?
その時微かに島が揺らいだ。私は咄嗟に叫んだ。「違う!これは幻覚だわ!」
思いっきり頭を振ったら島は跡形もなく消え去った。ただ乳白色の薄い霧が立ち込めているだけ。どうやら種族特典の『状態異常耐性/大』が効果を発揮したらしい。
なのにヨアニスはまだ島を見ていた。というより体を強張らせて空中の一点をただ見つめている。
「ヨアニス!しっかりして。幻覚よ!」
足を掴んで揺すっても叩いても彼は動かなかった。私は櫂を彼の手からもぎ取って思いっきり殴りつけた。
足元が揺れているせいであまり強く殴れなかったけど、それでもなんとか正気を取り戻してくれたようだ。目をぱちくりさせながら慌てたように大声を張り上げた。
「ユリ!元に戻ったのか?まさかお前の正体があんな化け物だったなんて、俺………」
「……ちょっと、ばか言わないで!幻覚だってば!早く逃げよう!」
櫂を渡そうとしたその時だった。横側からの凄まじい衝撃を受けて舟が揺れた。慌てて舟の淵にしがみついたけれど、再び凄まじい力が襲いかかってきてたまらず水中に投げ出されてしまった。
しこたま水を飲んでパニックを起こした。必死に手を伸ばすけれど泡ばかりで何も見えない。なのに妙に冷静なもう一人の私が頭の片隅にいて、巨大な力がすごい速さで水底から浮き上がって来るのを感じ取っていた。
いやだ!こわい!!
極限の恐怖に晒されてたちまち本能が理性を押し除けた。荒ぶる暴力的な何かが脳味噌を支配する。暴れ狂う熱い魔力の奔流が体中を駆け巡るのを感じた。もうコントロールできない。このままじゃ死んじゃう。なんとか冷静になって舟まで逃げなきゃ。なのに体はまったく言うことを聞いてくれなかった。爆発寸前の爆弾になったみたい。目の前が真っ白になった。
……もう駄目、また死ぬんだ。そう思った次の瞬間、ついに体が爆発して私は地面に叩きつけられていた。
何が起きたかわからないまま必死に水を吐きながら土を掴んだ。
喘ぎながらもなんとか顔を上げると、少し離れた場所でヨアニスが体を曲げて激しくむせているのが見えた。
私もゲホゲホとむせ込みながら鉛のように重い手足を動かす。ずるずると這いずりながら少しでも水辺から離れようとした。
力尽きて仰向けで寝転がった。しばらく立ち上がれそうにない。なんとか呼吸が落ち着くのを待って、すぐ近くで同じように倒れているはずのヨアニスに話しかけた。
「何だかわからないけど、助かったみたい」
彼は苦しそうに荒い呼吸を繰り返しながら言った。「わからないって、お前、大丈夫か?助かったけど、暴走したんだよ。ものすごい魔力だな!大急ぎで離れてよかったよ。俺も巻き込まれるところだった」
「暴走?」自分の声だとは思えないほど弱々しい。
「ユリの魔力だよ。街に行こう。あんなでかい魔力を放出したんだ。医者かなんかに見てもらわなけりゃ」
そうなのかも。
ぼんやりと考えた。無意識のうちにストレスや感情の発露が原因で魔力が暴発してしまう事故は魔力の高い子供には良くあることらしい。そうならないようにヘンレンスさんから毎日瞑想を欠かさないようにと言われていたのに、最近はすっかりサボるようになっていた。
「おい見てみろよ!」
泥だらけで膝をついたヨアニスが何かを指差している。頭をめぐらしてそちらを見ると、とてつもなく巨大で真っ赤な貝が草の上に打ち上げられていた。小さな家が一軒入りそうなほど大きい。
無惨にも殻が砕けて細長い中身が盛大に飛び出している。時々ビクビクと跳ねているからまだ油断できない。
「死んでる、のかな?」
「たぶんな」ヨアニスも自信なさそう。
その時、湖の方からたくさんの人の気配がして振り向いたら、大勢のマーマンがわらわらと集まってきていた。この中にプタクドゥさんもいるんだろうか。見分けが付かないからわかんないけど。
聞き取れない複雑な言語のどよめきの中に混じって、誰かが歓声をあげた。私にもわかる言葉だった。「こりゃあすごいぞ!これほど大きな血煌貝を見たのは初めてだ!」
マーマンたちは臆することなく楽しげに会話しながら貝を取り囲んで、なんとそのまま解体しはじめた。
筋肉隆々のたくましい男性たち(たぶん)が何人かで協力してモリを突き立てて口をこじあける。見事な連携でどんどん中身が取り出されていく。
びっくりして固まっている間に宴会がはじまった。
誰かが大量の酒を湖から運び込み、浮かれた様子で酒壺を配っている。もうすでに貝を食べはじめている人もいた。もちろん生で。
マーマンは呆然と突っ立っている私たちにも貝の肉を勧めてきたけど、とても食べる気にはなれない。だってそれ、たった今人を襲って血を吸ってたんだよね。この人たち気にならないんだろうか。
しかし宴会はすぐにお開きとなった。
馬に乗った聖騎士の団体が騒ぎを聞きつけてやってきたのだ。
白銀の鎧に身を包んだ物々しい騎馬の一団が森から姿を現すや否や、面倒ごとを察したマーマンたちは貝の肉や酒を掴み取ってするりと湖の中へ去っていった。
取り残された貝の残骸と私とヨアニス。
数十人の騎士は訓練された滑らかな動きで素早く私とヨアニスを取り囲むと、完全に不審者を見る目付きで馬上から鋭く睨みつけた。
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