第30話 学院からの風景2

徐々に雪が雨へと変わっていく季節、私はついに進学、ではなく留年した。立ちはだかる巨大な壁、『進学試験』に敗れたのだ。

わかっていたことだけど、ちょっとだけ「もしかしたらいけるかも」なんて馬鹿みたいな希望に縋って挑んだ試験だった。


小等部の最終試験は中等部への進学試験でもあるから当然難関。毎年受けているただの進級試験の方なら範囲があるからまだ楽だったんだけど、今回は今まで勉強してきた6年間の膨大な範囲からランダムに出題される。


そもそも初日に受けた最初のテストの一問目からおかしかった。

初歩の植物学を教える教師が机の間を練り歩きながら、「強力な呪いを受けたせいで強酸性となった沼地に生息する、ある植物の花弁の数を答えよ」なんて言い出すから、思わず顔を上げ、ぽかんと口を開けてその教師のすまし顔をまじまじと見つめた。


確実に言えることは、その教師は自分の授業で呪われた強酸性の沼地の話なんか一度もしなかったってこと。

絶対に満点を取らせないための意地悪な問題なんだと思ったけど、周囲の学生の何人かは間髪入れずに羽ペンを走らせていた。


結局どのテストも始終そんな感じで、受けたテストの解答用紙のほとんどに無解答の代わりの出鱈目を書き殴って提出する羽目になったのだった。


合格者の名前が張り出された掲示板のリストに私の名前だけ載っていないことを慎重に3回も確認した後、ファーシとパルマは口を揃えて「やっぱりね」と暗い顔でため息をついた。


終わってみればこれでよかったとも思う。明らかに実力不足なのにこれで受かりでもしたら、すでに学院中が知っている私の悪評は学院の消えない汚点となって、後世にまで語り継がれていたかもしれない。


それに今回試験に落ちたのは私一人じゃない。同期の半分以上が脱落しているのだ。

『小等部卒業試験』兼『中等部への進学試験』はガーレンの最初の大壁として有名で、卒業を目指して何年も挑戦し続ける学生も珍しくない。


その晩こっそりベッドの中でうずくまって泣いたことは内緒。予想はしていてもやっぱりショックだった。

癒しを求めてヨアニスに会いに行くと、彼はいつも以上に優しく出迎えてくれた。しかしその顔にも「やっぱりな」と書いてあった。私が何も言う前から「気を落とすなよ」なんて言う。

私が「せめて話を聞いてから慰めてよ」と抗議すると、肩をすくめて「で、どうする?学校はもうやめるんだろ?」なんて言い出した。


私は顔を上げて言い切った。「もう一年頑張ってみるわ」

ヨアニスは驚いたようだった。辞めると思い込んでいたみたい。珍しく動揺して、それからふてくされるようにそっぽを向く。「まだ続けるのか」

「あら何よ、いいでしょ。落ちた子も結構いるの。来年の再テストまでの1年間は落ちた生徒のためのカリキュラムがあるんだって」


顔を上げて天井を睨みつけるヨアニス。なんで怒るの?だけど次に正面を向いた時にはいつもの穏やかな彼に戻っていた。もしかしたら見間違いだったのかもしれない。

「わかったよ。じゃ、残念会に外に食べに行かないか。いい店があるから」

私はため息をついた。「やめとく。進学祝いで騒いでる学生と鉢合わせしたくないもの」

ヨアニスはようやく笑顔を見せた。「そっか。そのうち行こう。ユリが気に入りそうな凝った料理を出すんだよ」


ハンターの仕事は順調みたい。学院から課された例の依頼も話を聞いた半月後にはすべて完了していて、今もちょくちょく高額な依頼を引き受けているようだった。

元々おしゃれだった彼の服装も数段格が上がっているし、リビングに追加された家具もかなり凝った物が置かれている。

以前軽く紹介してもらった若いハンターも同じアパートに住んでいるらしく、今でもたまにチームを組むことがあるようだった。


友達もできたし、ちゃんとした家に住んで、自分に合った仕事もあり、成果を挙げ認められている。心の底から羨ましい。妬ましくすらあった。

そんなヨアニスを見ているとどんどん自分が惨めに思えてくる。少し近況を話しただけで彼のアパートを出た。私も早く自由になりたい。とぼとぼと学院へと続く長い長い坂道を歩いて戻った。


寮に帰ると、パルマとファーシがドアを開けっぱなしにして荷造りをしていた。

「あら早かったのね」なんて気まずそうに顔を見合わせる二人。私はため息をついた。中等部の寮に移るのね。

「私たち、もう一緒の授業は受けられないから」と冷たいパルマ。

そうだった。絶望の淵に沈んだ。親友二人の助けがなくなったら私はもう終わりだわ。パルマは冷静に続けた。「だからね、研究院の導師にお願いするしかないと思うの」


彼女の言う『研究院の導師』というのはガーレンでは教授のことで、『導師』とは一般的には多大な功績を収めるとどこかの研究機関や王家が囲い込むために与える役職のことだった。自身で胸を張って名乗ることができる大変名誉ある称号でもある。


そして導師になると弟子を取ることが義務付けられているらしく、面倒を見るかわりに部下として使ってもいいことになっているから、ガーレンでも数多にある派閥の長として君臨することになる。

パルマが言いたいのは、ようするにどっかの派閥に入れってこと。


「導師は弟子の面倒を見る義務があるのよ。本人ではないにしろ、誰かが中等部に上がれるように勉強を見てくれるはずだわ」

真剣な目をして言うパルマに苦笑いした。「さすがに無理でしょ」


師弟制度があることは知ってる。大抵は高等部を卒業して研究院に上がった生徒が自分で選んだ教授の元で学ぶというものだけど、例外もあるみたい。

どうしても欲しい生徒がいた場合に教授側から持ちかけることもある。しかしそれだってどんなに早くても専門分野の分かれる高等部から。小等部さえ卒業できないような子を相手にしたりしない。


だけどパルマは本気らしかった。

「あらでも、魔力操作では小等部で一番じゃない。魔力もすごいし」

ファーシも横から口を出して無責任にはっぱをかける。

「誰か拾ってくれるよ。もう後がないんだから、手当たり次第声を掛けなよ」

「そんな……」

そうはいっても教授なんて雲の上の存在だし、研究院は立ち入り禁止のはず。なんとか歩いてるところを捕まえて声をかけたとしても無視されて終わりだろう。

「そんなに難しくないはずよ。むしろ……」パルマが何かを言いかけた時、聞こえるはずのない声が聞こえた。

「僕が紹介してやってもいい」


突然話に割り込んで来たのは小動物、じゃなかった、テンくんだった。男の子のはずなのに女子寮の廊下でふんぞり返ってる。

ファーシが金切り声をあげた。「なんであんたがここにいるのよ!」

「ふんっ。今はどの寮も引越しで混乱してるからな。入り込んだってわからないよ」

「そっか!その小ささじゃ女の子に間違われてもしょうがないよね」意地悪くせせら笑う。

だけどテン君は相手にしなかった。すまし顔で胸を張った。「僕、メイシス様に声をかけて頂いたんだ。直接ね」

「……メイシスって、あのメイシス?」

「敬称をつけろ!」


私は目をしばたたいた。魔導士メイシスは、現学院長ノティオ・ゼインの過去一の弟子と言われていて、誉れ高い人格と魔導具士としての傑出した才能を併せ持ち、さらに言うならクール系美人で男子学生からの人気も高い。

学院長派の事実上のNo.2であり、次代の学院長とも噂されている。とくかく評判の高い人物だった。


巨大な学術機関であるガーレン魔術学院の中で今最も勢力のある派閥の一員だし、師にするならこれ以上ないという優れた魔術師だ。

そんな高名な魔導師様に中等部に上がることが決まったばかりでお声をかけられるなんて、テンくんすごい。


「ふぅん。それではるばる女子寮まで自慢に来たんだ?喜んでくれる友達なんかいないもんね」イライラしながら言うファーシ。

強烈な嫌味を繰り出したのはファーシなんだけど、テンくんが顔を真っ赤にして睨んだ相手は私だった。なんで?

「違う!お前の話が話題に出たんだよ。だから僕が推薦すれば聞いてくださるかも知れないって話だ!」

「待って。あなたが優秀なのは確かだけど、所詮は下っ端じゃないの。推薦なんかできっこないと思うわ」


だいたい、私を助ける理由がない。それに相変わらず私に怒ってる。そこでピンと来た。

メイシス様がゼイン学院長の部下なら、テン君を通じて私に助け舟を出してもおかしくはない、かも。テンくん自身は大変不本意なようだけど。


学院長としても大賢者ガーレンの残した回顧録の件もあるし、『神人』という滅多に手に入らない貴重な駒を手放すのが惜しいのかもしれない。


さらに穿った見方をすれば、テン君にしたって引き入れるには早すぎる。いくら優秀でもまだまだ先のことはわからない年齢だもの。

もしかしたら私の面倒を見ることを条件にスカウトされたのかもしれない。時々話をすることはあるし、もしかして仲がいいと思われたのかも。どうしてファーシじゃなかったんだろうという疑問は残るけど、テン君は家柄がいいみたいだからそういうことなのかな。


3人でそれぞれ怪しんでいたら、テン君は顔を真っ赤にしたままぷんぷん怒って行ってしまった。「よくよく考えておくことだ!」なんて偉そうな捨て台詞を残して。


思っていた通り、春の束の間の休暇(来期のカリキュラムが発表されるまでは図書館の自習室で勉強することになっているけど、さぼってもバレないので誰も行かない)を楽しもうと学院内にいくつもある購買を巡っていたら、雑木林の近くでテンくんと鉢合わせしてしまった。走り回っていたのか、ぜいぜいと息を切らしている。


「お前なんで自習室にいないんだ!馬鹿!そんなだから落ちるんだよ!」相変わらずカリカリしてる。

「ちょっと、いきなりなんなの?」

「言っただろ。メイシス様がお呼びだ。こい!」

「はぁ?」

「お前なんかに拒否権はない!来てもらうぞ」

「私が行かなきゃあなたが怒られるってこと?」

彼は顔を真っ赤にして私を睨みつけた。どうやら図星みたい。私はため息をついて、運命の導きのままに流されることにした。この狭い縦社会で学院のトップに逆らってもいいことはない。


そのままテン君に案内されて『メイシス様』のおられる研究棟の奥深くまで連れて行かれた。敷地内の一角にある倉庫のような建物が彼女の研究室。本来なら作務衣姿の学生が立ち入っていい場所じゃない。


背中がもそもそ動いた。フードの中のナッツが背中の上で忙しなく動いてる。飛び出すのかと思ったら、体をこわばらせてそのまままま丸くなった。ナッツは無害で可愛いペットだけど、一応魔物なので強力な魔術か何かに反応して身構えているのかもしれない。

テンくんも緊張してる。青白い顔をこわばらせてますます顔色が悪くなってる。そんなに怖い人なのかな。


近くまで来ると壁の一部が蛇腹に開くようになっている大きな扉があった。かなり大規模な魔導具を作ってるみたい。その横に人間用の普通の扉もあって、テンくんはドアノブを握りながら何やら呟いた。

コントロールパネルさえ見当たらないけれど、どうやらドアかドアノブ自体が魔導具になっているらしく、パスワードを言うことで開く仕組みになってるみたい。


陰気な学院には珍しく、中はかなり明るくて体育館のように広かった。

天井には光るロープのようなものがたくさんぶら下がっていて、その下には布をかけられたさまざまな大きさの物体があちこちに置かれている。


彼女はそれらのモニュメントの中心に佇んでいた。

実用的な丈の黒ローブを首元まできっちりボタンで留め、黒っぽい髪をシニョンにして引っ詰めている。


魔導師メイシスは忘れもしない、入学したばかりの時に新入生の私たちを絶望の底に叩き落としたあの女性だった。

今は穏やかな雰囲気を纏って静かに佇んでいるけど、目は少しも笑ってない。絶対に敵に回してはいけない人間だと誰もが一目で理解するような人物だった。


彼女はじっと私の目を見て離さない。睨まれているのとは違う。観察されている。それもかなり真剣に。メイシスはゆっくりと口を開いた。

「会いたいと思っていたの。『古代神人』がどれほどのものなのか」


密やかな秘密を共有するようになんでも遠回しな言い方をする他の教師たちと違って、彼女の声は力強かった。はっきりとした物言いは好感が持る。その言い方で彼女の望みを理解した。


「メイシス様、テンから少しだけ話を聞きましたが、私は他の学生より劣っています。その点であなたの期待に応える事は出来そうにありません。それでも『古代人』に興味がおありでしたら力をお貸しします」

隣のテン君が飛び上がった。小等部のくせにずいぶんな物言いだなと自分でも思うけど、二人の間におべっかは不要。理性の塊のような相手には端的に事実だけを伝えた方が信頼を得られるはず。


噂を信じるなら、彼女は魔導具士でありアーティファクトの研究者でもある。ゼイン学院長や魔導師メイシスが期待しているのは私の魔術師としての才能ではなく、『古代神人』にしか扱えない種類の遺物を動かす魔力の方のはず。


当たりだった。メイシスはほんのわずかに微笑むと、「そう。話が通じてよかったわ。あなたにはテンを付けます」

それで会話は終了みたい。そっけなく付け足した。「下がってよろしい」


私は右手を左胸の辺りに手を添えて軽くお辞儀をした。

主に男性が身分の高い者に対してする上流社会の挨拶だけど、魔術師は男女の区別をつけない習慣があるため私もこちらを使う。魔術師でもない作務衣姿の学生がやるにはちょっと滑稽かもしれないけど、他に相応しい方法を知らないから習った通りに使ってみた。


ぐずぐずしてると怒られそうな雰囲気があった。くるりと踵を返して急いで出口に向かう。一歩遅れてテン君の小走りの足音が追いかけてくる。

研究室の外に出て新鮮な空気を思いっきり吸い込んだ。クラクラする。なんていうか、同じ空間にいるだけで寿命が縮む女性だった。


特にテンくんは相当彼女を恐れているみたい。建物からかなり離れたところまで来て、ようやく話しかけてきた。

「前に会ったことあるのか?」

「まさか。どうして?」

彼は俯いた。「だって……いやいい」首をふると顔を上げて声も張り上げた。「明日から僕が勉強を教えることになるから、そのつもりで!今日みたいに意味もなく貴重な時間を潰しているのを見かけたら反省文を書かせるからな!明日朝食を済ませたらすぐに小等部の自習室に来ること!」


なんとかして威厳を見せようとしているけど、運よく天敵から逃れたばかりって顔色では説得力がない。私は笑い出したいのを堪えて「わかったわ。よろしくね」と微笑んだ。

テンくんは怒りとは別の意味で顔を赤くさせると逃げるように後ずさって、踵を返して男子寮のある方へと走って行った。


長かったはずの休暇は今日で終わりみたいだし、せめて午後は好きなことだけして過ごしたい。その前にまともな食料を手に入れないと。

食堂で出される食事は貧相そのものだけど、中等部の方にある購買には菓子やパンや揚げ物が売られているのだ。これは長い小等部生活で培った知恵の一つ。学院にはやたら過酷な『掟』をすり抜けるための抜け穴がたくさん用意されている。


屋根付きの道や街路樹が植えられた道を通り抜け、砂利の小道に入って、花壇がたくさん設置されてる『お客様用』の広場に着いた。

ここは中等部エリアへ行ける分岐点。事務所や図書館にも通じているからありとあらゆる学院関係者が歩いている。作務衣姿の子も結構いる。その中に見慣れた人影を見つけて目を疑った。


彼が振り返った。分厚い雲の切れ間から覗く太陽さえひれ伏すような優しい微笑み。彼の周りだけ爽やかな風が吹いてる。

慌てて駆け寄った。「ヨアニス!?なんでここにいるの?」

部外者は校門で追い返されるはずだけど、稀に入ってしまえた学生の親とかがいると、あっちこっちから警備員が駆けつけてきてちょっと大袈裟な対応をされるらしい。


だけど彼は飄々とした態度で肩をすくめ、「許可は得てるよ」とくすりと笑った。私の心を読んだみたいに。

「嘘でしょ、まさか!」

「そのまさかさ。今日呼び出されてさ、俺は晴れて学院公認のお抱えハンターに昇格した」

「すごいわ!おめでとう!こんな短期間で信じられない。あなたって本当に優秀なハンターだったのね」

ヨアニスは心外だとばかりに顔を顰めた。「おい、信じてなかったのかよ、ったく」

「ごめん。でもそれなら今後は学院でも会えるわね」

「まぁな、と言ってもここに来れるのは呼ばれた時だけさ。俺はあくまで取引のある業者の一人に過ぎないから」

「そっか。でも嬉しい」

彼は優しく尋ねた。「どこかに行くところだった?」

「うん。中等部の購買。一緒に行く?」

「もちろん」


ヨアニスは当然のように私の手を握って歩き出した。

今日初めて来たにしては中等部の方向を知っていたみたいに迷わず進む。ちょっと不思議に思ったけど、もしかしたら学院に入ったのも今日が初めてじゃないのかも。プライドの高い彼のことだから、きっと正式に決まるまで内緒にしてたんだわ。話してくれてよかったのに。


居合わせた生徒たちが間抜けな顔で私たちを見ている。彼らの頭の中が見えるようだわ。それに女の子たちの顔。素敵な白昼夢でも見てるみたいにうっとりしてる。私はうんざりして目だけで今にも雨が降り出しそうなグレーの空を見上げた。これじゃ近いうちに非公認のファンクラブができるのも確実ね。


ヨアニスはこの6年で見違えるように逞しくなっている。出会った頃の線の細い美少年らしさは影を顰め、熟練のハンターっぽい雰囲気を醸し出してる。大人の色気も。

もちろん私だって結構背が伸びたし、二人で並んでもそんなに見劣りはしないはず。ううん、ほんといえば誰が並んだって見劣りしちゃうんだろうから、いちいち気にしないことにしている。


彼は歩きながら私を見下ろして魅惑の微笑みを浮かべた。近くの誰かが持ち物を取り落とす音がした。

「ユリ、今年の春祭りだけど、もちろん一緒に行くよな?」

「うん。そうするつもりだけど、何かあるの?」

「いや確かめただけ」なぜか安堵するように微笑んだ。

「変なヨアニス」


ガーレンではまだ寒い早春の初めに小規模な春祭りが行われる。本当の春祭りも別にあるんだけど、この週末に開かれるのは冬の終わりを祝う(魔を払う意味がある)祭りだった。

特別な催しがあるわけじゃないけれど、森からやってきたエルフや獣人が市場で珍しい工芸品を売りにくるから私も楽しみにしていた。


ヨアニスはまだ学院での用事が残ってるみたいで、中等部エリアへの入り口で分かれることになったのだけど、ずっと道の真ん中で立ち止まったまま私の背中を見つめていた。何度も振り返るのも変だし、ちょっと恥ずかしくなって早足で購買部へ向かった。


ようやく主人の匂いに気づいたナッツがかなり遅れてフードから出て、私の頭のてっぺんに這い上った。きっとキョロキョロしてヨアニスの姿を探してるんだわ。その間抜けな姿を思い浮かべてクスッと笑った。「あなたってちょっと鈍すぎるんじゃない?」

言葉を理解してる訳でもないだろうけど、ナッツは腹いせのように私の頭皮に軽く爪を立てた。

「いてて。怒らないで。春祭りにまた会えるから」


宣言通り、翌日からテンくんによるスパルタ授業が開始された。といっても内容は入学してすぐに教わるようなガーレンの簡単な歴史やサノリテ語の書き取りテストだった。私の知能をだいぶ疑ってるみたい。

テンくんが用意した問題集はあっという間に底をついて、明らかな不備を誤魔化すために「僕も中等部の予習で忙しいんだっ!」とかなんとか言って怒り出し、3日間の臨時休業を突きつけた。


おかげで春祭りに行く許可を取らないで済んでほっとした。きっと「遊んでる場合じゃないだろ」とか言って怒るに違いないもの。

よくわからないけど、テンくんは私を一年で中等部へ上げようとすごく張り切ってる。


春祭りの当日、念の為テンくんに見つからないようこっそり学院を出た。

いつもの坂道を下っていく。まだ寒風吹き荒ぶ早春のガーレンの街はかなり強引に春めかしい装いをしていた。

家々の玄関のドアを雪の中でも枯れることのない常緑の葉っぱのリースで飾って、あらゆる通りに花々の代わりの色とりどりの布で作った伝統のガーランドを渡している。

だけど人通りも少ないし小雨も降ってる。薄暗くうら寂しい石畳の上で雨に打たれている三角の旗の列は、冷たい風にあおられていっそう寒そうに震えていた。


それでも街中の人々が集まる一番の大通りに近づくごとに少しづつ賑やかになっていく。

途中で待ち合わせ場所の広場に寄ってヨアニスを探した。日除けのあるベンチの下は強くなってきた雨を避けようとする人々でいっぱいだったけど、そんな中にいても一人だけ光り輝いてみえた。


周りの人がちょっとだけスペースを開けて立っているのは、きっと比べられたくないせいだろう。額にたれた癖のある黒髪から雫を滴らせた彼は恐ろしく艶めいていて、比類なく美しい。もう何年も友人をやってる私ですら声をかけるのを躊躇してしまうほどだった。


「もう春なんだな。こんなに雨が降るとは思わなかったよ」私を見つけて苦笑いするヨアニス。

「そうなんでしょうね。ものすごく寒いけど」私は分厚いウールのコートと手編みの肩掛け(ファーシのお手製)越しに腕をさすった。

一瞬ナッツが顔を出したけど、すぐにホットストーンで暖まっているポケットの寝室に引っ込んでしまった。


大通りに直結した大きな広場ではふきのとうに似た山菜のフリットがふるまわれていた。一つもらって齧ると苦味の中にほんの1割ぐらい甘さがあって、ちょうど今の季節を表しているみたいだった。


さらに進むとエルフたちが固まって珍しい木の実や川魚の料理や工芸品を売っていた。蔓で編んだカゴに動物の人形に木製の壁飾り。どれも可愛らしい。

彼らとだいぶ距離を置いて(森の中で鉢合わせると殺し合うほど仲が悪い)獣人たちのコーナーがあった。こちらは主に牙で作ったワイルドなお守りのネックレスを売っている。


確かパルマも来てるはず。彼女の卒業を森の中の村で待っているというエルフの彼氏が来るらしく、恥じらうようにはにかんでいたから。

ファーシは家族との団欒を選んだ。寒いからって言ってたけど、本当は遠慮したみたい。


こうしてヨアニスと二人で出店を覗いてまわっていると昔に戻ったような気持ちになる。

二人で旅をしていたあの頃はなんの悩みもなかった。懐かしい、灼熱の太陽やうだるような熱気、地平線の向こうまで続くひび割れた大地。こことは何もかも正反対だわ。


しんみりしながら店舗の軒下から雨の空を見上げたら、不安そうな面持ちのヨアニスが覗き込んできた。

「なぁ、教えてくれないか?」

「ん?」

なんだか緊張してるみたい。ずいぶん真剣じゃない?はっとした。もしかして、ガーレンを出たいとか?


ずいぶん長くここに留まっていたけど、一生の住処ってわけじゃないもの。もしそうならどうしよう。私はまだここを離れられないからついて行くことは出来ないし、その権利もない。

魔術師になったらチームを組んで遺跡に入ってくれるとは言ってたけど、それだって他愛もない口約束にすぎないもの。

寂しくて胸が痛んだ。だけど寒くて暗いガーレンが嫌になるのもわかる。


躊躇するように私を見ていたヨアニスは思い切って口を開いた。「お前、成長してないよな」

「はぁん?」いきなりの暴言に思わず怒りの声が出た。

そりゃあヨアニスに比べればまだちょと、いやだいぶ子供っぽさが残っているのは認めるけど、留年もしたけど、ひどい言い草だわ。こっそり気にしてたのに。


「この前ユリの友達のちびを見かけてさ。ヒューマンの子供はすぐ大きくなるだろ。なのにおまえは……」

「いやそんなことない。背も伸びたでしょ。もう立派なレディだから。なんなの?失礼よ!」

「……あのさ、おまえって長命種なの?」

「今更言う?どうしたのよ。……あ、わかった。あの子を見て悲しくなったんでしょ。早く死んじゃうんじゃないかって。寂しくなっちゃったのね」

図星だったみたい。狼狽えてそっぽを向く。「……ならいいんだ。『神人』ってよくわからないから、確かめたかっただけだよ」

「私だってよくわかってない。これでも少しづつ成長してるの。寿命は『血の濃さ』によってそれぞれ違うみたいよ。私の場合はかなり濃いはずだから、当分の間はその理由で死ぬことはないと思う」

「そっか」明らかに表情が明るくなった。子供のように笑って繋いだ手をぎゅっと握る。


ドキッとした。罪悪感で胸が痛い。…好いてくれるのは嬉しい。だけど私たち、いつかは別々の人生を歩むのよ。そう言ってあげるべきかもしれない。なのに私の口は理性を裏切って勝手に幸せそうな微笑みを浮かべていた。


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